第19話「水際、そして別れ際」
俺と
灯は波の出るプールを前にして、目を輝かせながら開口一番に。
「せんぱい、海ですよ!」
「プールだよ?」
いやまぁ、確かに波は出てるけどさ。
灯の中では、波のある水イコール海なんだろうか。
「こういうのは気の持ちようなんですよ。私が海だと言ったら海なんです!」
並々ならぬ勢いで迫ってくる。テンション高いな。
しかし、ご機嫌なところに水を差すつもりはない。
マジレスせずに乗ってあげよう。
「そうだな、うわぁ海だぁ」
「何言ってるんですかせんぱい。ここはプールですよ?」
「いや怖っ。ノリに乗ってあげた途端に冷たくならないでくれ」
「冷たい? いやいや、ここは温水プールじゃないですかぁ」
「やっべ話が通じねぇんだけど。文脈を無視して単語から会話を広げないで?」
冷静なツッコミを続けていると、灯は苦笑しながら頬をかいて。
「……ごめんなさい、テンションが上がっちゃって。今日せんぱいとプールに来るの、すごく楽しみにしてたので、つい」
恥ずかしそうにそう言われては、責める気にはなれなかった。
「大丈夫、俺もこう見えてテンション上がってるから……ってそうだ」
顔を合わせた途端に灯がはしゃぎ出すものだから、灯の水着に対してコメントするのを忘れていた。
灯が身にまとっていたのは、先日一緒に選んだ水着……レースやリボンがあしらわれた白いビキニだった。
試着室で見た時もとても可愛かったが、背景がプールになることで、雰囲気に合っていて一層映えて見えた。
「めちゃくちゃ似合ってて素敵だよ。キュートでセクシーでエレガント、ベリーグッド」
途中で恥ずかしくなって、エセ外国人みたいな褒め方になってしまった。
灯はぽかんと口を開けている。
……何やってんだ俺。
こうやって恥ずかしがって茶化すのが、一番ダサくて恥ずかしいだろうが……。
気の利いた言葉を言えず歯痒い思いをしていると、灯は微笑ましそうに。
「あはは。せんぱいってば、お顔が真っ赤じゃないですか。……今の顔を見れば、せんぱいの気持ちは十分伝わってきますから大丈夫ですよ」
からかい混じりではあるが、俺が自身を不甲斐なく思っていることまで汲み取ってフォローしてくれた。
気遣われて情けなくもあるが、ここは灯の優しさに甘えよう。
灯は、ややぎこちなくなった空気を変えるように、明るい声を上げた。
「さて、早速遊びましょう! 私、ウォータースライダーがやりたいです!」
「まぁ待て。……その前に準備運動だ!」
「あはは! せんぱい、先生みたいなこと言ってる!」
そうツッコミつつも、素直にラジオ体操を始める灯だった。可愛い。
※
「……思ってたより高いですね」
「……だよな」
実際に上に登ってみると、下から見上げた時よりもいくらか高く感じた。
「私、ウォータースライダーは久しぶりなので、なんだかドキドキしてきました」
「分かる、俺も小学生の頃以来だ」
小学生の頃は、飽きもせず狂ったようにウォータースライダーをしまくっていた。
中学生の時もプールに行く機会はあったのだが、ウォータースライダーではしゃぐのはカッコ悪いという、謎の厨二心が芽生えていてなかなかやることが無かった。
ゆえに久しぶりのウォータースライダーに対して、ドキドキもあるがそれ以上にワクワクの気持ちの方が大きい。
「専用の浮き輪を使って、二人一緒に滑るみたいですね」
灯の声に促され視線を向けると、八の字の浮き輪に乗ったカップルが、今まさに滑ろうとしていた。
前に女性、後ろに男性の形で座っており、女性の両脇に、男性が両脚を差し込むような体勢になっている。
……いやあの、密着し過ぎじゃない?
前言撤回。ワクワクよりドキドキの方が強いわ。頑張れ俺の理性。
「楽しみですね、せんぱい!」
灯の無邪気な笑顔が眩しい。
そうやって悶々としているうちに、俺たちの番がやってきた。
浮き輪に二人で乗った後、灯ははにかみながら囁いた。
「よいしょっと……あはは。これ、けっこー近いですね」
……これ、やばい。
俺の脚と灯の横腹が触れ合い、しなやかで温かなお腹の感触が直に伝わってくる。
それに、体勢的に灯を上から覗き込むような形になるため、灯の胸の膨らみがはっきりと分かる。
灯は俺の動揺を感じ取ったのか、わずかに顔を赤くしてこちらを見上げつつ。
「……せんぱい、ちょっと息荒くないですか?」
そうやって見上げられると、上目遣いになって余計に落ち着いてられないんだが?
という本音をギリギリで踏みとどめて。
「あぁ、悪いな。ここで登ってくるまでに息が切れちゃってさ」
「あはは。せんぱいってば、おじさんみたいなこと言わないで下さいよぅっ」
ツッコミつつも、灯は俺の心の内を見透かしたような薄い笑みを浮かべている。
……なんだか居た堪れない。早く滑らせてくれ。
「はい、それではどうぞー」
そんな俺の願いが通じたのか、係員のお兄さんに浮き輪を押され、水流に従って滑り始めた。
水飛沫を上げながら、勢いよく滑っていく。
スピード感とスリル、そして爽快感があってめちゃくちゃ楽しい!
「あはははははは!」
灯の方を見ると、楽しそうに笑い声を上げていた。
数回のカーブの後、ゴールへと辿り着いた。
灯は興奮冷めやらぬまま、満面の笑みを浮かべて。
「せんぱい! めちゃくちゃ楽しかったですね!」
「あぁ! 久しぶりだったけど、ウォータースライダーってこんなに楽しかったんだな」
「ですね! 私、生まれ変わったら流しそうめんになりたいです!」
「……流しそうめんは途中で箸に拾い上げられて、最後まで滑りきれないだろ」
「……最初に意味不明なことを言ったのは私の方ですけど、ツッコむところ絶対そこじゃないですよね?」
そんなバカらしいやり取りをして、二人で笑い合った。
灯のみならず、俺の方も大概テンションがおかしくなってるみたいだ。
ともあれ、灯にこんなに喜んでもらえるのなら、一緒にプールに来た甲斐があるというものだ。
「ねねね、せんぱい! もっかい滑りませんか!?」
目をキラキラと輝かせながら、灯はスライダーの方を指差した。
「あぁ、良いぞ。せっかく来たんだし、気の済むまでやろう」
そう言って二人で手を繋ぎ、再びスライダーの方へと足を運んだ。
※
「あー、楽しかった!」
灯は満足げな表情で、流れるプールに身を任せている。
結局あの後、飽きるまでずっとウォータースライダーをやり続けた。
多分、今日一日だけで一生分のウォータースライダーを楽しんだ気がする。
「楽しかったのは間違いないけど、けっこー疲れた……」
ウォータースライダーの滑り口まで階段を何度も登ったり、滑っている最中にはしゃいだりしたため、かなり体力が持っていかれた。
「なんか飲み物買ってくるけど、灯は何か飲みたいのあるか?」
「私は……いえ、私も一緒について行きます!」
「いや、大丈夫だぞ。灯だって疲れてるだろ?」
「それを言うなら、せんぱいだって疲れてるじゃないですか。それに私を一人にしたら、この前みたいにまたナンパされるかもしれませんよ?」
「……一緒に行くか」
俺の返答に、灯はイタズラっぽくにやけながら。
「あはは。もー、せんぱいったら。嫉妬してるんですか?」
「当たり前だろ。こんなに可愛い彼女を、誰にも取られたくないからな」
「……っ」
あっ、照れてる。
毎度こちらを恥ずかしがらせようとしてくるが、こうして素直に感情をぶつけることが灯に対する最大の反撃になるみたいだ。
「そうやって照れてるところも可愛いぞ」
「……もうっ! せんぱいの意地悪!」
追い打ちをかけると、灯はぷいっと顔を背けた。
かと思えば、何か閃いたように目を見開いた後、こちらに向き直って。
「……少しでもせんぱいと一緒にいたいので、ついていきます」
「……っ」
灯の健気で純粋な言葉を受け、今度はこちらが照れる番だった。
……なるほど。灯は先ほど、俺の素直な感情の吐露を受けて照れた。
そんな俺の行動を受けて、同様に素直に感情を伝えることが、俺をからかうためにも効果的だろうと判断して、こうして実践したのだろう。
綿貫灯……おそろしい子……!
しかし当の本人が、自分の気持ちを素直に伝えることに恥ずかしさを覚えているようで、気まずそうに目を伏せていた。
見事なまでの自爆で、自縄自縛だった。
しかし、俺は反撃の手は緩めなかった。ごめんな、俺は負けず嫌いなんだよ。
「ありがとう。俺も灯と一緒にいられるなら嬉しい」
「……っ! っ!」
強烈なカウンターパンチに身悶える灯。
やはりこうやって羞恥に悶える灯も可愛いけれど、流石にそろそろ不憫に思えてきたのでこのあたりにしておこう。
「……それじゃ、飲み物買いに行くか」
俺のその一言を受け、勝ち逃げされたとでも思っているのか、灯は悔しそうに頬を膨らませながら俺の手を握った。
「……むぅー! 行きますっ!」
怒ったようなポーズは取りながらも、なんだかんだ素直についてくるし、こうして手を繋いでくる。
そんな灯が、どうしようもなく可愛らしく思えた。
※
「いやー、楽しかったですね!」
「あぁ、めちゃくちゃ楽しかったな」
プールで遊び尽くした後、俺と灯は二人で並んで帰路についた。
たわいもない雑談に興じていたのだが、灯の口数は少しずつ少なくなっていた。
「……あ、あのっ、せんぱい!」
灯は一瞬表情を曇らせた後、こちらを振り返って。
「今日は、本当にありがとうございました。……最後に、良い思い出が出来ました」
「最後って……」
灯のその発言の意図について、なんとなく察しがついていたが、僅かな希望を捨てきれずにそう聞き返した。
灯は満足そうな、寂しそうな、諦めたような……そんないくつもの感情が入り混じった複雑な表情で告げる。
「前にも言ったじゃないですか。……私は、もうすぐ死ぬんですよ」
「……もうすぐって、いつだよ」
「……終業式までは、なんとか生きられそう、ですかね」
「……っ」
終業式、だって? ……あと、数日しか無いじゃないか。
「……悲しそうな顔をしないで下さいよ、せんぱい」
灯は、努めて明るくこちらに笑みを向けた。
「たった数ヶ月の間でしたが……私はせんぱいのおかげで、とても楽しい時間が過ごせました」
吹っ切れたような態度の灯とは対照的に、俺は泣きつくように言葉を重ねた。
「……まだまだこんなもんじゃねぇぞ。俺といればこれから先、これまでとは比じゃないくらい楽しい時間が過ごせる」
晴れて真の意味で恋人同士となった灯と、こうして改めてデートをして、はっきりと確信した。再確認した。
──俺は、灯のことが大好きなんだ。
願わくばこれから先も、ずっと一緒に過ごしていたい。
「だから、灯。俺は、お前に生きていてほしいんだ」
しかし、そんな懇願にも似た俺の言葉に、灯は。
「……せんぱいの気持ちは嬉しいです。私も、これから先もせんぱいと一緒にいられたら、この上なく幸せだと思います」
「だったら……!」
しかし灯は儚げな笑みで、はっきりと宣言した。
「でも、ダメなんです。悪魔として多く人の運命を捻じ曲げてきた私なんかが、これ以上幸せを望んじゃいけないんです」
「そんなの……!」
望んでも良いに決まってる、と言おうとした瞬間、灯は穏やかな笑みを浮かべて。
「最期にこうしてせんぱいと過ごせただけで、私は十分恵まれているんです。……だから、もう良いんです」
「良いって……良いわけ、ないだろうが」
そんな俺の言葉を聞き流して、灯は続ける。
「もうこれ以上、みっともなく悪魔として、生にしがみついたりはしません……したく、ないんです」
……ふざけんじゃねぇ。
俺は、灯に生きていてほしい。
たとえ灯に嫌われようとも、俺は灯さえ生きてくれればそれで良いんだ。
だから俺は言い訳も飾りもない、ありのままの本心を伝えた。
「悪魔としてでも良いから、俺は灯に生きていてほしいんだよ!」
その言葉を受けた灯は悲しそうに、そして失望したように目を伏せた。
「そんっ、なの……っ」
灯の表情は、俺の心を痛めつけるのに十分だった。
しかし、俺はそこで止まらず言い切った。
「灯が抱えてる罪悪感は、俺と二人で分け合えばいいだろ。だから……俺と、一緒に生きてくれないか?」
灯は、目を伏せたまま口をつぐんだ。
果たして、どれほど時間が経ったのだろう。
一瞬にも永劫にも思える沈黙の後。
「……嫌です」
返ってきたのは、端的な一言だった。
しかし、その一言が皮切りとなったのだろうか、堰を切ったように言葉が溢れ出した。
「私がっ! 悪魔としてやってきたことをどれほど後悔してるかなんて、せんぱいには分からないじゃないですか!」
「……っ」
予想外の剣幕に、気圧されるしかなかった。
「私がせんぱいを好きになればなるほど……私が、せんぱいと慎二先輩と天芽先輩との、幼馴染としての大事な時間を奪ってしまった罪悪感に、押し潰されそうになるんです……!」
灯の本心の吐露を受け、俺は何も言い返せなかった。
……そうか。そうだったんだ。
俺は、灯が悪魔としてしてきた行いに対してどれほどの後悔を抱いているかを、正確に理解していなかったのだ。
俺は、灯の気持ちに寄り添っていたつもりになっていて……その実、ただ自分の気持ちを押し付けていただけだったんだ。
そんな俺が、一緒に罪悪感を分け合おうと言ったところで……そんな耳心地が良いだけの綺麗事で、灯を説得できるはずなかった。
しばしの間、沈黙が場を支配する。
憔悴して押し黙る俺に対して、灯は深く息を吸った後、諭すように。
「私は十分良い思いをしましたよ。……いえ、むしろ良い思いをし過ぎたくらいなんです。だから、もう良いんですよ」
灯は微笑みながら、せんぱいの気持ちは分かりますし、その気持ちは嬉しいです、と前置きをしてから。
「でも、私はやっぱり、悪魔としてまで生きようとは思わないです。せんぱいには申し訳ないですけど……私の最期のわがままということで、許してくれませんか?」
強引に自分の意見を押し付け、灯の気持ちを無下にした俺に対し、灯は気を遣うように、そんなささやかな望みを口にした。
「……あぁ、分かった」
これ以上醜態を晒すわけにもいかず、俺は頷くしかなかった。
そんな俺の様子を見た灯は、大袈裟に明るく笑い飛ばしてみせた。
「あはは、なんでそんなに落ち込んでるんですか? 残された時間は少ないんですから、せめて笑顔でせんぱいと過ごしていたいです!」
素直で表情豊かな灯が、今は上っ面だけの作り笑顔を浮かべている。
俺が本当に見たかったのは、こんな笑顔じゃなくて無邪気な笑顔だったのに。
しかし、今の灯にそんな顔をさせているのは、紛れもなく俺の言動が原因だ。
……こうやって灯に気を遣わせてしまっている自分が、情けなくて仕方なかった。
「……せんぱい、帰りましょ?」
差し出された手を握るも、灯の体温は全く伝わってこなかった。
灯と触れ合っているというのに、単に手を繋いでいるだけで、心の繋がりは断たれているような、そんな気がした。
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