エピローグ

エピローグ <1>

 化け物という言葉を辞書で引くと、〝人の姿となって現れる人以外のもの、人間離れした能力を持つもの〟と書かれていた。僕には疑問だった。なんというか、ちゃんと言い当てていない気がした。〝脳を喰らう者〟——という言葉が書かれていない、それが一番ひっかかった。

 化け物だ、と感じるとき、もう心は喰われている。そいつのことで頭がいっぱいになって、他のことは考えられなくなる。糸城と屋上で出会ったときもそうだった。つまり脳が、その存在に捕らわれているのだ。したがって、それができる存在——脳を支配できる存在は、化け物といっていいはずだ。この解釈は、あのおさげの女が僕を含めた三人のことを、化け物だと認識した理由にも通じるはずだ。

 僕は無自覚にも、あの人の脳を支配してしまったのだ。たぶん、ナイフを手に持ったままだったから、怖がらせてしまったのだろう。うむ、そうに違いない。

 辞書を外函にしまい、本棚に戻した。あの日からずっと引っかかっていたけど、自分なりの結論を出すことができた。


 インターホンが鳴った。妹が「あっ」と言ったけど、僕のほうが近かったのでリビングのモニターを見に行った。レンズを覗き込む妹の友達二人が映っていた。

「みさきちゃーん、来たよー」

 スピーカーと玄関、両方から声がしたのとほぼ同時に、ソファの上でうつ伏せになってぐでっとしていた妹が飛び起きた。リビングテーブルの脇に置かれていた水着の入ったビニールバッグの持ち手をつかむと、「行ってきまーす!」と言いながら玄関の方へ駆けて行った。廊下を走る足音に、母と僕からの、いってらっしゃい、気をつけて、が重なる。玄関ドアが開く音とともに聞こえてきた三人の明るい声は、ドアの閉まる音とともに静かになった。

 今日は友達と三人で市民プールへ遊びに行くと言っていた。昼食も友達とマクドナルドで食べるらしい。昨日、その許可を母からもらっていた。

 今日、妹が初めて、友達同士だけの外食をする。

 僕も今日の夕食は、友達の家で食べてくると母に伝えてある。


 ソファに座ってテレビをつけると、画面にあのメンタルクリニックの廃屋と、その建物の前でマイクを構えるリポーターの女性が映った。

「——現場となった診療所の前に来ています。先ほど、捜索願いが出されていた男性と男児の遺体が運び出されました。警察の発表によりますと、遺体は手足と頭部が切断された状態で——」

 事件の報道は二日前に始まった。あのおさげの女が脱出してすぐ警察に駆け込んだのだろう。昨日は警察の記者会見も行われ、現場の状況や、遺体の身元、脱出した女性の証言などが公表された。

 チャンネルを変えると、別のニュース番組では河川敷の事件の続報をやっていた。

 殺された男児と同じクラスに通う女子生徒が、事件関係者の生徒たちの印象を語っている。住宅街の道端で、女子の首から下だけを映したインタビュー映像だ。どうやら殺された男児は、出頭したクラスメイトたちに日頃からいじめを受けていたようだ。女子には彼らの関係がそう見えていたらしい。僕は、容疑者の生徒たちが暇つぶしかなにかの用事で男子生徒を呼び出して、動物虐待に使用していた凶器でうっかり殺してしまったストーリーを想像した。

 そのあとも、同級生の保護者や近所の住人のインタビューが続いた。いつも一緒に仲良く遊んでいるように見えた。エアガンで遊んでいるところを見たことがある。容疑者の家族はいつも挨拶をするいい人たちだった——どの人も玉虫色の言葉を述べていた。カメラは首から下しか映さなかった。この人たちの脳も何かに食べられていて、空っぽの頭で話している絵面が思い浮かんだ。

 どのチャンネルのニュース番組も、この二つの事件で持ちきりだった。しばらくは毎日見ることになりそうだ。


 チャンネルを戻す。あの場に捕まっていたのは、脱出した女性だけということになっていた。おさげの人が、僕のお願いを聞いてくれたのだろう。まぁ、仮に彼女がすべてを話して警察が僕らの存在に辿り着いたとしても、糸城は捕まっていた立場だし、僕なんて救助した側なのだから、別にどうということはないはずだ。警察へ行かなかったことを咎められても、事件の関係者として目立ちたくなかった、とでも言っておけばいい。

 それに、これもある。

 ——うっかり持ち帰ってしまった、臨床心理士資格登録証明書のカードをポケットから取り出し、表面にプリントされた顔写真を見つめた。和蓮香は、まだ捕まっていなかった。

 おそらく、縛りつけた配管のどこか……尖っていた部分を利用して、縄を切ったのではないだろうか。廃屋の中にはガラスの破片も散らばっていた。縛っている最中に、手の中に鋭いものを隠し持つことはできただろう。

 報じられている内容では、まだ本名や身元はわかっていないようだった。犯人は痩せ型の女性であることや、身長、髪型、格好、二十台後半といった年齢層、似顔絵など、おさげの女の証言が基になった大体の人物像が公表されたのみである。

 このカードを警察に届ければ、捜査は一気に進展するはずだ。本来はそうするべきなのだと思う。僕にはあの人がまた犯行を重ねるとは思えないのだが、絶対そうとは言い切れないし、そのときの犠牲者は、僕の家族かもしれない。

 それでも——、あの人にとって、この社会で生きることが死よりも苦痛に満ちたことであるのなら、その罪を受けてほしいのだ。

 それが、僕と糸城をあんな目に遭わせた罰として、相応しい。


 またインターホンが鳴った。調理中の母が自分の荷物だと言った。僕がモニターに出る。

「お届けです。えっと……すみねさん宛です」

 小さな箱を持った宅配のお兄さんが母の名を言った。澄(すみ)に音(ね)と書いて、澄音。父は母の名を愛したらしい。だから子供たちにも、自然の景色にちなんだ名前をつけたと聞いている。

 母がフライパンに火をかけているところだったので、代わりに荷物を受け取りに行った。品名には化粧品の商品名が書かれていた。箱をリビングテーブルの隅に置いて荷物が届いたことを伝えると、母がハンドタオルで手を拭きながら言った。

「ありがと。じゃあ、お昼ご飯ここに置いておくから、勝手に食べなさい。お母さんは出かけるから。洗い物やっておいてね」

 キッチンカウンターの前に立つ母の手元を見ると、手作りハンバーガーの載った皿がラップをかぶせた状態で置かれていた。昼食のメニューを妹と合わせてくれたようだ。

 母はこれから、週明けに行う打ち合わせの下見に行ってくるらしい。そういうときはだいたい、ついでの外食ランチが目的であり、母の数少ないストレス発散の営みである。僕も妹も、それを邪魔しないように気をつけている。

 そのあと、リビングでニュースを見ながら、夏休みの宿題の残りに取りかかった。

 今日は八月二十九日。

 糸城舞の、誕生日である。


 僕はハンバーガーに噛みついた。


   * * *


 腕を天井に向けて伸ばし、雑巾のように身体をひねって骨を鳴らす。

 宿題を片付けたころには夕方になっていた。リビングの窓から暖かい夕日の光が差し込んでいる。ちょうどいい時間だった。

 僕は和室に入り、仏壇の前で正座した。父の遺影をじっと見つめる。

 父、悠太郎(ゆうたろう)の微笑んだ写真を見ていると、どんなに荒んだ感情が蠢いていても穏やかになって、自分が生きている人間であることを再確認できる。写真家だったくせに自分のことは撮らない人だったらしく、これは雑誌掲載用に撮った写真だと、いつだったか母がそう言っていた。葬式のときの写真もこれだったらしい。

 僕は時々、こうして父に近況を報告する。今までの僕は、毎日が退屈でつまらないと話していた。僕の日常は、人生観は——ずっと学校と家事で埋め尽くされていた。空いた時間も作業的に自習をして、ネットをして、寝て起きるだけの日々だった。嫌だと思ったことはない。ただ、読書や勉強をしている間は自分の現実を意識しなくてすんだ。

 それが、僕だった。

 僕の人生の旋律には、なんの起伏もなかったのだ。

 その絃を強く弾いてくれたのが、クラスメイトの糸城舞だった。

 今回の報告は、彼女と出会ってからすべてのことを胸に思い浮かべた。クラスメイトが屋上で鴉を食べていたこと。その女子と恋人ごっこをしたこと。犬を捕まえにいったら狼犬が——いや、狼が現れたこと。猿を捕まえに行ったら、巨大ゴリラが現れたこと。彼女と家族のこと……彼女が母親を食べていたこと。人を捕まえに行ったら、現れたのは普通の人間だったこと。そいつが人の脳を食っていたこと……。

 何度か死にかけたけど、すごく可笑しくて、充実した日々だった。

 そして、もう一つ。

 今日、僕は生まれてはじめて、異性に告白するということ。


 クラスメイトの糸城舞に、「きみのことが好きだ」と告るのだ。


 父に、その成功を願ってくれと、胸に念じる。

 正直、五分五分だと思う。

 たぶん、嫌われてはいないと思う。

 どちらかといえば、彼女も僕のことを好いてくれていると思う。彼女が何度かしてくれたスキンシップが、その可能性を補強する。嫌いな奴には、しないだろ。

 いや、でも、あれは黒いほうの彼女がやったことなのだから、もしかしたら普段の彼女はそれほど僕に興味を持っていないのかもしれない。ただのお友達で——とか言われてしまうのかもしれない。

 いやでも……。

 でも————。

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