おうちデート

おうちデート <1>

 盆が終わり、家の中から飾りつけが片付けられたころ、携帯ショップから自宅に電話がかかってきた。ようやくスマホの修理が終わったようだ。

 通常は一週間程度で返ってくるものらしいのだが……。夏は水没による修理依頼が一気に増える上、お盆の期間と重なったこともあり、お渡しするのが盆明けになってしまいました……と、研修中の札をつけたショップのお姉さんが、申し訳なさそうに言っていた。あの人はこのような対応を、これからも沢山の客にするのだろう。スマホのデータは無事だった。

 携帯ショップを出て、さっそく糸城に電話をかけた。駅の方へ歩きながらスマホを耳に構える。スマホがない間、彼女とやりとりする機会はなかった。僕は自宅の固定電話から彼女に電話をかけなかったし、メールも送らなかった。どちらも用事があるときにしか使わないツール、というのは思い込みだろうか。

 なんにせよ、やはり僕らにはメッセが合っている。と思いつつも電話をかけているのは、彼女の声が聞きたかったからである。

「やっとスマホが直ったよ。もうメッセ送っても大丈夫だから」

「あらそう。よかったわね。それより、いまからわたしのうちに来れない? 頼みたいことがあるの」

「……わかった。行くよ」

 スマホが直ったことに対する彼女の関心の薄さはさておき——。

 犬、猿ときたから、次は雉だろうか? 《桃太郎》の流れで考えるとそうなる。雉ってたしか天然記念物だったと思うが、捕獲してもいいのだろうか……。いやいや、犬のときは狼犬、猿のときはゴリラが現れた。クソバカでかい猛禽類に襲われるくらいの事態は覚悟するべきだろう。プテラノドンが出てきたっておかしくない。


 電車とバスを乗り継いで移動する間、スマホをつかって野生の雉について調べてみた。天然記念物だから捕獲してはいけないと思い込んでいたが、なんと鳥獣保護法では狩猟鳥獣に指定されていた。狩猟免許がなくても自由猟の法の範囲でやればいい。殺るときはスリングショットを使ってみようか、面白そうだ。

 ふと、解説サイトのページの片隅に、雉肉の広告があることに気づいた。雉は養殖されていて、肉の専門店やネットショップなどで普通に食材として購入できるものだった。

 灯台下暗しというやつだな。気が抜けてしまった。もし彼女が本当に雉を捕まえてきてと言ってきたら、雉鍋パーティーを提案してみよう。

 今日は糸城と、家デートだ。


 糸城のマンションに到着して、備え付けのインターホン端末に部屋番号を入力した。すぐにスピーカーから糸城の声がして、僕が来たことを告げると、エントランス側のスライドドアが開いた。いま、彼女が室内からこのドアを開けたのだ。仕組みは知っていたが使うのははじめてだったので、彼女から事前にこの流れを聞いていた。

 エントランスからエレベーターに乗り、糸城の住む部屋がある九階で降りた。部屋番号を頭の中で読みながら外廊下を歩き進む。上層階というだけあって、景色を見るといろんな建物の屋根や樹木の樹冠が、絨毯の模様のように広がっていた。ここから離れたところに田園も広がっている。マンション三階の僕の部屋から見える景観とは段違いの眺めである。


 九◯八号室。

 糸城の部屋の前に立ち、インターホンを押した。

 真っ黒なドアが開かれると——僕の目に、真っ白な世界が飛び込んできた。


   * * *


「来てくれてありがとう、急に呼びつけたのに」

 壁や天井、靴箱や花瓶……。濃淡の違いはあるものの、見えるものすべてが白かった。その光明な世界に数秒、目を奪われてしまった。意識を切り替えて声の方に向ける。視線を下げると、糸城の顔があった。はじめて観察する表情だった。申し訳なさや、来てくれたことへの安堵感が表れていた。

 視線が勝手に彼女の唇を注視してしまった。すぐに内装に注意を戻す。しかし、〝ちゅう〟という単語を二回も意識してしまったせいか、頭の中はキスのことでいっぱいである。

「ぜんぜんいいよ、なんか……ぜんぶ白いな」

 女子が男子の視線に気づく場所ランキング、第一位が胸で、第二位は唇であると、例の雑誌に書いてあった。今日は泊まりではないとはいえ、彼女と一つ屋根の下で一緒に過ごすのだ。過ちが起こるには十分なシチュエーション。男女を意識させてしまうような振る舞いには気をつけなければ。

 靴を脱いで部屋に上がった。彼女は「白で統一しているの」と言った。僕は室内を見回しながら軽く相槌した。

 彼女のあとをついて廊下を進む。壁には二つ、絵画を収めるための額縁が飾られている。右側の絵は犬のボルゾイの横たわる死骸の絵だった。腹の破れたところから臓物があふれでている。鉛筆で描かれていたから、彼女が描いたものだと勝手に思った。左側は何も描かれていない、ただの白い紙が入っていた。彼女はこれを眺めて何を想い、何を感じるのだろうか。

 リビングに着いた。てきとうに座っててと言われたので、ショルダーバッグを下ろしてソファーに座った。この空間もほとんどのものが白で統一されていた。壁、天井、床、ソファー、クッション、テーブル、テレビ、絨毯、カーテン……その徹底振りは圧巻だった。キッチンの方も、冷蔵庫や食器棚まで白一色である。

 この感じには覚えがあった。小学四年生のころ、今のマンションに引っ越す前、母と妹の三人でモデルルームの見学に行ったときだ。室内が綺麗すぎて、整いすぎて、生活感がないな、と思った。

 ただ、既視感の原因は内装だけではない気がした。

 目についた白以外の物体といえば、本棚に並ぶ書籍の背表紙くらいだろうか。目を凝らしてタイトルを読むと、戦争や遭難、原住民や宗教の儀式に関するタイトルが並んでいた。あのとき東屋でみた聖書もある。いまいち統一感がつかめないが、いずれも、手記や調査録、学術書などであることから、ノンフィクションを好んで読むことがわかった。

 その気づきの瞬間、脳で何かが繋がった。でも、僕にはまだわからない。

 この意識と脳が乖離する感覚には覚えがあった。意識を置き去りにして、脳だけが最新の理解に更新されたときだ。狼犬を殺したときや、黒いやつのイメージが無数の手足の生えた化け物になっていたとき——。

 無機物であるはずの部屋の内装が、なぜだか急に、有機物のように感じられた。ただの真っ白い壁が、肉や血を覆い隠す皮膚に思えてくる。ここは彼女の住む部屋であり、人間用に設計された空間である。それなのに、なにかの巣の中に足を踏み入れてしまったような、ピリピリとした感じが胸の中で騒いでいる。

 今日は家デートだと少し浮かれていたが、油断しないほうが良さそうだ。


 彼女がテーブルに、おそらくオレンジジュースが入ったコップと、おそらくチョコチップのクッキーを盛った皿を置いた。礼を言ってからドリンクを一口飲む。見た目の通り柑橘系の味が広がった。これは謎生物を絞った体液ではなく、間違いなくオレンジジュースである。次はクッキーを一つとって角をひと齧り。サクサクとした小麦粉の食感、カカオと砂糖の甘い味、これも市販のチョコチップクッキーだ。形状も統一されている。もし手作りならば、材料を確認しなければならないが、これも問題ないだろう。

「頼みってなんだったんだ?」

「そうそう、いま持ってくるわ」

 少し待っていると、彼女が別の部屋からノートパソコンやらマウスやらを抱えて持ってきた。テーブルにパソコンを置くと横座りをして、電源を入れたりマウスを接続したりしながら言った。

「インターネットの接続をしてほしいの」

「そんなもん、ネットワーク名を選んでパスワードを入力するだけだろ?」

「それはわかるんだけど……、これはわからないの」

 彼女がテーブルの陰から手に取ったのはアンテナ付きのルーターだった。なるほど、モデムと無線ルーターの接続ね。

 彼女いわく、八月の頭に電車で都内に行き、ビックカメラで店員に勧められたマックのノートパソコンを買った。自室は入居時点で光ファイバーが導入済みであり、いつでもネットに繋げられることは知っていたが、いざやってみると接続設定がよくわからなかった。そこで僕にやってもらうことにした。業者は自分の部屋に入れたくなかった。僕がパソコンを持っている人だからきっとネットの設定もできると思った——という経緯らしい。僕を勝手に頼ったことはツッコミどころだが、まぁ、頼ってくれたことを素直に喜ぶとしよう。

 彼女の隣にあぐらをかいて座り、話を聞きながら設定作業を進めた。自宅でもネットワークの設定や管理をしているから、特に困るところはなかった。彼女はスマホでもSNSや掲示板に書き込むことはないと言うので、ネット上で友達ができても軽々しく会いに行ったり信用したりしてはいけないと忠告した。

 マウスを操作してブラウザを立ち上げ、検索エンジンのトップページを開く。

「ほい、完了」

「ありがとう! 助かったわ。ついでにこれもお願いできない?」

 続けて彼女が見せたのは、メールアドレスとパスワードらしき文字の書かれたメモ用紙だった。パソコンからでもメールができるようにしてほしいという。覚えやすいパスワードだったので、もっと複雑な文字列に変えるように勧めた。

 メール設定も終わったことを伝えると、糸城が手に持ったものを僕に差しだした。白と黒の糸で編み込まれた、雪の結晶の形をしたコースターだった。そういえば以前、僕の分もつくってあげると言っていた。

「今日はこれも渡したかったの」

「ありがとう。大事にするよ」

 彼女の頬は少し赤みがかっていた。クラスメイトに手作りの品を渡すことははじめてなのではないだろうか。僕も、家族以外からプレゼントをもらったのは、これがはじめてだった。胸に広がる感慨が毛糸の柔らかさと相まって、ざわついていた心を鎮めてくれた。


 僕はパソコンを買った理由を尋ねてみた。彼女は以前、スマホで十分よ、と言っていた。

「あなたがこの間、パソコンからメールを出してくれたでしょ? あのときに、やっぱりちゃんと覚えようって思ったの」

「やっぱりとは?」

「おじいちゃんがね、都会でちゃんとパソコンを覚えなさいって、わたしが一人暮らしをするときに言ってくれたんだけどね、こういうの苦手だから、あんまり乗り気になれなくて」

 彼女は伏し目がちにそう言った。

 会話の中にときどき登場するおじいちゃんは、糸城に都会で生きてほしかったのだろう。田舎に残ることを許さなかったことからもそう思える。たぶん農家か、何かの職人か——。

 もう、いいだろう。

「なぁ、田舎で暮らしていたときのこと、話してくれよ」

 以前から聞きたかった。両親のことも。だから僕はそう言った。

 んー……と視線を落とす彼女。話すのが嫌というわけではなく、ただ迷っているようだった。その間のおかげで、本当に聞きたいことに気づくことができた。

「——いや……違う。言い直すよ。きみが、僕と出会うまでのことが聞きたいんだ」

 糸城のことがもっと知りたいという純粋な好意と、黒いほうの正体が知りたいという探究心。この二本の糸引きに、僕の意識はずっと縛られていた。いい加減、ほどきたい。

「いいわよ。でも、わたしのこと、嫌いになるかも……」

「ならないよ!」

 距離を置くように顔を伏せた彼女の両肩峰を痛がらないようにつかんだ。

「話したくないならそう言ってくれ。きみが話してくれるまで二度と聞かない。でも僕は、きみのことがもっとよく知りたいんだ」

 数秒の沈黙のあと、顔を上げた彼女が、僕の目を見つめながら言った。

「……わたしがママを、殺して、食べちゃったの……」

 目を閉じた糸城。

 僕も瞼をおろして、闇を見つめた。

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