猿を捕まえてきて <2>

   * * *


 店内に客の姿はなかった。カウンターの中でマスターらしき白髪の老人が一人、カップを拭いている。オールバックで、後ろに撫でつけた髪を結んでいる。整った顎髭に、襟をまくった白いワイシャツ。男の僕から見てもイケメンおじさんだ。もしかして糸城の好みのタイプだったりして……と、気を揉みながら後ろを歩く。

 壁や柱の一部は煉瓦だが、全体的には洞窟の岩壁を思わせる装飾が施されていた。壁掛けランプの灯りが薄暗い店内の輪郭を浮き上がらせていて、ブラックライトが床を妖しく照らしている。天井には水陽炎のような青白い光がゆらめいていた。どこかに特殊なライトが隠してあるのだろう。静かに響き渡る水流と水滴の音は、店内のBGMだった。

 すべての演出が相まって、まるで自分が地底湖のほとりにいるような気持ちになった。この空間を自分の庭であるかのように歩き進む彼女の背が、どこか頼もしく思えた。

 彼女はマスターに「いつものコーヒーをアイスで二つ」と伝えてから、奥の二人掛けテーブルに座った。どうやらここの常連らしい。注文を受けたときのマスターも、彼女に穏やかな目を向けていた。

「この間、映画の帰りに言ったこと、覚えてる?」

「あー……もちろん。喫茶店のことだよね」

 今この瞬間に思い出したことは黙っておく。妹の雑誌にも、彼氏とは彼女との約束を決して忘れない、と書かれていた。まだ死刑にはなりたくない。

 彼女はテーブルに肘をつくと、この喫茶店を見つけたときのことを話しはじめた。

「わたしね、高校に入学するまでN県に暮らしてたの……あっちにいたときはいつでも森や川であそべたわ。それが当たり前だった。ときどきね、鶏の鳴き声が懐かしくなるの」

 糸城は中学の卒業まで田舎に暮らしていて、高校入学と同時に一人暮らしで上京した。しかし、田畑と山々に囲まれて育った彼女には、都会での過ごし方がよくわからなかった。

「最初ね、カラオケとかショッピングとか、ゲームセンターとか、近くの席の子が誘ってくれたんだけどね……ほら、あの髪の毛染めてる子とか」

 ときどき僕の机を椅子がわりに使うギャル系の生き物だ。僕も名前は覚えていなかった。

「アイドルとか、ドラマとか……そういうの、あんまり興味ないし……」

 彼女にとって普通の会話は味気ないものだった。編み物や絵の話を振ってくれたクラスメイトはいなかった。どこかへ誘われてもなんだかくたびれそうに思えて、用事があると嘘をついて逃げるように断った。今では声をかけてくる人はいないらしい。彼女の目がときどき糸のように細くなる。内側に向けた意識で、田舎に暮らしていたときの思い出を見ているのだろう。

 マスターがアイスコーヒーを持ってきた。家ではインスタントコーヒーばかりで、豆から挽いた本格コーヒーなんてひさしぶりだった。一口飲んだだけで頭がクリアになった。透き通った味のあと、胸の奥から広がった香ばしい風味は格別なものだった。その感慨が顔に表れていたのか、言葉にするよりも前に、彼女に伝わったようだった。期待が叶った目をしていたから、そう思えた。

「こっちは古本屋さんがあるから便利よね。田舎にいたころは、バスかおじいちゃんの車で、商店街とかモールまで行かないと本屋さんがなかったわ」

「近所に店はなかったの?」

「歩いていけるところだと……酒屋さんとスーパーがあったわ。日用品は大丈夫。あとジュースの自販機ね」

 自販機って店だったんだ。

 四月の終わりころ、古本屋で買った例のタウンガイドにこの店のことが紹介されていたらしい。映画館を見つけたときの本だろう。

「お店の写真をみて一目惚れしちゃった。古い本だったから閉店してたらどうしよーって思いながら、本に載ってた地図を頼りに探したの」

 それ以来、週末はよくここでコーヒーを飲みながら読書をしているそうだ。彼女は白い折りたたみ財布からこの店のポイントカードを取り出して僕に見せてくれた。縦二列、横五列の四角いマス目の全てに、コーヒーカップのシルエットの形をしたスタンプが押印されている。今日の彼女のコーヒー代は一杯だけ半額になるようだ。妹の雑誌には、デートの費用は全額彼氏が支払うものと記されていた。それがこの世の理であり、アダムとエヴァが林檎を食べたあと、最初に交わした約束なのだという。新約聖書の《テモテへの手紙第一 五章八節》がその説の論拠らしい。僕は聖書を読んだことがないので、その信憑性を評価することはできないが、磔にされないためにも奢るべきだろう。

 僕は、コーヒーの感想や、妹が料理好きで、よくアイスココアを作ってくれる話をしつつ、頭の中で糸城の話を整理した。


 教室にいるとき、「あの二人さ」「暗いよね」「つきあっちゃえば」なんてヒソヒソ話が聞こえてきたことがある。離れた席の女子グループだった。名前を言わずとも、背中の目が僕らのことだと言っていた。他のクラスメイトも似たもの同士と思っていることだろう。

 彼女の話は全体的に歯切れが悪かった。生き物を食べたくなる本能の話をしなかったせいだと思う。なんとなく避けていたように感じたので、僕も触れなかった。ただ、クラスで孤立した理由は見えてきた。

 妹さんと仲良いのね。

 ぜんぜん、憎たらしいよ。

 肉?

 わざとだろ。

 ばれましたか。

 僕の場合は、同世代が子供っぽく見えるという理由で自分から距離を置いているスタンドアロン(独立)だ。しかし彼女は違う。アイソレーション(孤立)だ。彼女の話からは、人と話したがっている姿勢が垣間見えたからそう思えた。田舎にいた時も似たような境遇だったのだろうか。

 誰も存在を知らない洞穴の奥地——鍾乳石から滴る水を受ける地底湖のそばで、膝を抱えて座り込む彼女の姿が脳裏に浮かんだ。役目を知らない瞳が、命の在処を証明する唯一の臓器である。この喫茶店の雰囲気は、そんな彼女の心の奥底を生写しているように思えた。

 両親は今も田舎に住んでいる?

 というかなぜ一緒に暮らしていない?

 一人暮らしは自分から希望した?

 田舎にいたとき、友達はいたの?

 話を聞きながら頭の中で新たな疑問を整理する。僕が勘繰りすぎなのか彼女の話がそう思わせるのか、それはわからないが、疑問の中には彼女との今の関係が吹っ飛んでしまう地雷がありそうで、どんな質問にも慎重にならざるを得なかった。

「——ここならガヤガヤしてなくて、落ち着けそうかなって思ったの」

「僕もこういう静かな空間好きだよ。落ち着くよね」

 自室でも、考え事をするときは部屋を薄暗くするときがあると話した。彼女は、「それわかる! わたしもよくやる!」と嬉しそうに言った。僕も彼女との共通点が一つわかって嬉しくなった。このときの僕らは同じ目をしていたと思う。


「——わたしはこのまま田舎にいたいって言ったんだけどね、おじいちゃんがダメだって」

 そう言いながら、彼女は両肘をテーブルについて、指先を合わせてつくったテントの中に小さなため息を漏らした。

 普通、田舎暮らしなんて嫌がるものだと思うけど。

 なぜそんなに田舎にこだわる?

 それに、父親と母親の所在が気になる。

 ——焦るな、ここはただの雑談をすればいい。

「なんで、そんなに田舎がよかったんだ?」

 それはね、と言った糸城の顔から明るさがすっと消えた。コップの中で重なっていた氷が崩れて音を立てた。

「たべるものが、たくさん……居タカラ——」

 彼女の存在感に影が落ちる。

 糸城舞には、三つのパターンがある。

 クラスメイトに話しかけられた時の、おどおどして人見知りしてしまうパターン。

 僕と一緒にいるときの、少し明るいパターン。


 そして——生きたまま野生動物を食べる、この黒い奴だ。


 この複数の人格が、ディスクリート(離散)ではなくスペクトラム(連続)に変化する。境界が曖昧なのだ。黒といっても雰囲気とか印象とか、うまく言えないが、そういう感じのことであって、見た目が変色するわけではない。ともかく彼女はこうなると、声から色が失われ、昆虫のように表情が変わらなくなるのだ。

 両手をテーブルから下ろした彼女の口が開いた。

「……サルヲ、ツカマエテキテホシイノ」

 猿を捕まえてきて、と聞こえた気がした。

「さる? 猿と言ったのか?」

 彼女は首だけを上下に動かした。

「……期限は?」

「今月中でどうかしら……」

 今日が二十一日だから、十日間か。

「猿の種類は?」と一応聞く。

「チンパンジーとか、オラウータンとか……」

 そいつらは猿じゃなくて類人猿じゃなかったか? 死ぬほど怪力だし……。というか、国内には生息していないだろ……。

「…………猿の種類は、あなたに任せるわ」

 僕のもやっとした表情を見て動揺を察してくれたらしい。動物園に忍び込む必要はなさそうだ。

「……わかった。捕まえてこよう。僕は、きみの彼氏だからな」

 彼女がストローをつかってアイスコーヒーを少し飲んだ。普通の飲み方だった。

 僕も一口、コーヒーを飲んだ。

「……きみは、糸城なんだよな?」

「そうよ、どうしたの?」

 彼女の目と声に色が戻っていた。

 このまま黒いほうの彼女とデートできるかもと思ったが、残念だ。

 結局、彼女が遠慮したため、今日は個別会計ということになった。

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