第9話 花子編:ギガの家

「着いたよ」


ギガの穏やかな声が響く。花子は、彼の触手に抱かれたまま、目の前の光景に息をのんだ。


「わぁ…」


そこに広がっていたのは、まるで城のような豪邸だった。洞窟での暮らししか知らない花子にとって、それは想像すらできなかった規模の建物だった。高くそびえる壁、重厚な扉、精巧な装飾が施された外壁――すべてが、彼女のこれまでの世界とはかけ離れていた。


ギガは何気なく扉を開き、花子を抱いたまま家の中へと足を踏み入れた。途端に、花子の五感を圧倒するような異質な空間が広がる。


「す、すごい…」


広々とした玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、花子は思わず呟いた。洞窟のように岩肌がむき出しになっているわけでも、冷たい土が足元に広がっているわけでもない。


滑らかな床は温かみを帯びており、壁には見たこともない装飾が施されている。上を見上げると、天井には輝く照明が吊るされ、まるで太陽のように部屋を照らしていた。


「これが…ギガ様の家…」


花子は呆然としながら、さらに奥へと目を向けた。


カーペット、テレビ、冷蔵庫、机――それらすべてが彼女にとって未知の存在だった。洞窟暮らしの中では聞いたことも見たこともない。だが、それらがそこにあるだけで、この空間が信じられないほど快適なものであると理解できた。


床に敷かれたふかふかのカーペットに、足を沈める感触を想像するだけで、まるで夢の中にいるかのような感覚に陥る。大きなテレビは光を放ち、そこに映る映像はまるで魔法のように生き生きとしていた。


冷蔵庫と呼ばれる大きな箱は、不思議なほど冷たい空気をまとい、花子の知る食べ物を長く保存できるという。


「ここ、本当に暖かいですね…」


花子はふと気づいた。外の寒さとは打って変わって、部屋の中は驚くほど快適な温度に保たれている。洞窟では、寒ければ火を起こし、暑ければじっと耐えるしかなかった。だが、この空間は、寒くも暑くもない適温が常に保たれていた。


「へえ、そんなに驚くんだ。まあ、そうかもね」


ギガはくすりと笑いながら、花子を床に降ろした。足が床についた瞬間、その柔らかさと温もりに驚き、彼女は無意識に指先で床をなぞった。


「すごい…信じられない…」


「ふふっ、君にとっては全部が新鮮なんだね。まあ、これからここが君の家になるんだから、ゆっくり慣れていけばいいよ」


ギガの言葉に、花子は改めて自分の置かれた状況を実感した。ここが、自分の新しい居場所。ギガのペットとしての生活が、ここから始まるのだ。


彼女は思った。


”これが私の新しい現実なんだ”


未知の世界への不安と、それを上回る期待に胸を膨らませながら、花子はギガの屋敷の奥へと足を踏み入れた。


「取りあえずシャワー浴びよっか」


「…シャワー?」


花子は、聞きなれない言葉に首をかしげた。


「あーえっと…体を洗うって言えば伝わるかな?」


花子は、人間がかつて体を洗っていたことを知っていた。しかし、この世界で生き残ることに必死な人間たちは、そんな習慣をすでに捨て去っていた。食料や水は生存のための資源であり、それを体を清潔にするために使うなんて、考えたこともなかった。


洞窟での生活も同じだった。水は飲むためにあり、貴重な水を肌にかけるという発想すらなかった。


そんなことを考えているうちに、ギガが花子を軽々と抱き上げた。彼の柔らかい触手が花子の体を包み込み、心地よい浮遊感を感じる。彼が向かうのは体を洗う場所。花子はされるがままに、それがどんな場所なのかを確かめることにした。


「ここだよ」


ギガに連れて来られたのは、洞窟とは比べ物にならないほど広々とした空間だった。壁には滑らかな材質の何かが貼られていて、床も柔らかく、足が冷たくならない。そこには見たこともない器具が並んでいた。


ギガは、壁についている金属の棒をひねる。すると、上から勢いよく水が降り注いだ。


「えっ…!」


花子は思わず身をすくめた。水が降ってくるだなんて、こんな光景は初めてだった。しかも、それは生温かく、冷たさを感じることもない。


「これがシャワーだよ。水を出して、体を洗うんだ」


ギガは説明しながら、触手の一本で水を手にすくって花子の肩にそっとかけた。最初こそ驚いたものの、それが決して不快なものではないと分かると、彼女は少しずつ緊張を解いていった。


「じゃあ、洗っていくね」


ギガはさらに別の器具を取り出し、透明な液体を手に垂らした。すると、それは白く泡立ち、不思議な香りが広がった。甘く、けれど爽やかで、花子の知るどんな匂いとも違うものだった。


「これ、シャンプーっていうんだ。髪を洗うためのものだよ」


そう言うと、ギガは無数の触手を使い、花子の髪に優しく泡をなじませていく。


「っ…!」


最初は驚いたものの、すぐにそれがとても気持ちのいいものだと気づいた。触手は絶妙な力加減で、まるでマッサージされているかのように頭皮を刺激する。その感触に思わず力が抜け、花子は目を閉じて身を任せた。


「かゆいところはない?」


ギガの穏やかな声が響く。


「はい…大丈夫です」


触手が細かく髪を梳くたびに、花子の体から今までに溜まっていた汚れや疲れが洗い流されていくようだった。髪を流し終えると、今度は体も丁寧に洗われていく。泡が肌を包み込み、触手が優しく撫でるたび、花子は今まで感じたことのない清潔さに包まれていった。


やがて、シャワーは止まり、ギガがふわふわとした布で花子の体を拭いてくれた。洞窟で過ごしていた時には感じたことのない、柔らかさと温もり。彼の触手に包まれていた安心感と同じものを、その布からも感じた。


「さっぱりした?」


花子は少しぼーっとしながら、小さく頷いた。


「はい…なんだか、すごく気持ちよかったです…」


「よかった。それじゃ、次は服を着ようか」


-----


ギガは何か布を取り出し、それを花子に着せてきた。


「これは服。人間が昔はよく着ていたものだよ」


花子は服というものを知らなかった。洞窟ではいつも裸で過ごしていたし、そもそも寒さに耐えるためにはギガの傍にいるほうがずっと暖かかった。


ギガが着せたのは、一枚のワンピースだった。布の感触は少しゴワゴワしていて、着慣れないせいか少し落ち着かない。それでも、彼の言葉を信じて袖を通した。


「ほら、似合ってるよ」


ギガは微笑みながら、鏡を花子の前に差し出した。


花子は、そこに映った姿を見て息をのんだ。


「…きれい」


水面に映る自分を何度か見たことはあったが、それはいつもボサボサの髪と汚れた肌の少女だった。だが今、鏡に映るのは、しっとりと髪を乾かし、清潔な服を身にまとった少女。顔についた泥も落ち、白い肌が柔らかく光を反射している。


「その服はね、君がギガのペットっていう印なんだ。だから、それを着ている限り、ほかのギガに危害を加えられることはないよ」


ギガの言葉に、花子は驚き、そして安堵した。


「危害を加えられない…?」


「そう。ギガのペットは、大切に扱われるものだからね」


花子は、自分が今どれほど安全な立場にいるのかを理解した。裸で洞窟をさまよっていたときとは違う。もう、震えながら眠ることも、恐怖に怯えることもないのだ。


「ありがとうございます!」


その言葉は、花子の意志とは関係なく、反射的に口をついて出た。


それが、心の奥底からの感謝なのか、あるいは安心したことによる安堵の叫びなのか、花子自身も分からなかった。だが、今はただ、ギガの庇護下にいるという事実が、彼女の心を満たしていた。

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