32.奴隷と奴隷
床の固さにはっとして目が覚める。
鍵付きのショーケースと少し質の良いテーブルと椅子の脚が視界に映る。
ああ、そういえば、色々あったあと、この部屋に閉じこもったんだっけか。なんだか、さっきまでの激情が嘘のように、今までの出来事を1歩後ろから見ているような不思議な感覚だ。
今までのモヤモヤは案外晴れていて、わたしには奴隷だったという事実だけがそこに残った。そうわかってしまえば、特に落ち込むほどのことでもない気がしてくる。
惨めな奴隷が、魔石商に買われた。今までそれを知らずに幸せに生きてきただけ。ただ、生まれてすぐに売られたレアケースの奴隷であることが、自分の生い立ちを不幸に見せるだけだったのかもしれない。
今日からはレイルと同じように、あの人のことを旦那様と呼べばいいだけなのだ。
ぼーっと自分の思考だけに支配されていた脳は、ドアの向こうから聞こえるレイルの声で引き戻される。
「ツィエンさ、ま。レイルです。温かいミルクを入れました。少しお話をしませんか……」
遠慮がちに掛けられた声は、久々に弱弱しいものである。
ドアの近くに行って鍵を開ける。少し開いた隙間から廊下の様子をみれば、肩に毛布をかけて、湯気が立つカップを2つ持ったレイルがそこにいた。
ドアを大きく開いて、レイルを招き入れ、また内鍵を閉める。いまはまだ、あの人と顔を合わせたくなかった。
レイルは肩の毛布をずるずると引きずりながら、中央のテーブルまで進み、カップを2つ並べて置いた。
わたしは、立ち昇る湯気に誘われて、椅子に腰かけ、カップの胴に両手を添えて、じんわりとした暖かみを受ける。手の表面が暖かみより熱さを感じ始めてから、やっとわたしはミルクに口をつけた。
とろりとしたミルクはほんのり甘くて、ほっとする。そこでわたしはやっと深い息をついた。
目の前に座っていたレイルは、声をかけるタイミングを見計らっていたようで、顔をあげると視線がかち合う。思った以上に自然に言葉がでてきた。
「あの日、わたしが奴隷商に行ったのは、自分が奴隷だって噂を聞いて、どんなところで売られていたのか気になってだった」
突然はじまったわたしの話だったが、レイルはそれを受け止めるように、静かに頷いた。
「牢を見た時は正直ショックだった。こんな汚くて雑に扱われていたのかと思うと、自分が奴隷だったなんて思いたくなかった。レイルの牢に行ったのも、わたしと同じ年くらいだって言われて、興味本位で見たかったから」
どんな表情でレイルがこの話を聞いているのか、確かめるのが怖くて、わたしはテーブルの木目模様から視線を外さないまま続ける。
「片眼がなくて、老人と同じ牢に入れられて、お前は必要とされていないよって言われているみたいで、自分を重ねて、あなたに同情したの。なんて可哀想なんだろうって」
今思えば、それは、自分が可哀想だって思いたかっただけだとわかる。自分を重ねた他人を憐れむことで、自分の心を救っていたのだ。
「そう思いながら、わたしは思いついちゃったの。“わたしが奴隷をほしいって言ったら、おじいちゃんはどうするのだろう”って」
自分の心の醜さを口にすると、堪えるものがある。それでも、この事実を伝えなければわたしはもっと醜い何かになりそうで、そちらの方が恐ろしい。
「だから、レイルの瞳がきれいだったのは嘘じゃないけど、本当はただのあてつけ……結果本当にわたしも奴隷だったし……だから、ツィエンさまなんて呼ばないで……」
そう呼ばれるたびに、嫌な感情がみぞおちよりもっと下でもっと深いどこからか渦を巻いて沸き上がってくるのだ。
お前も奴隷のくせに。自分の親の顔もわからないくらい小さいときに売られたお前の方が不幸だ。奴隷に様付けで呼ばせて、優越感でも感じているのか。レイルには買った本当の理由も言わなかった偽善者のくせに。自分の中の悪意か善意かが、叫ぶ。
握りしめた膝の上の拳が、上からそっとつつまれ、顔をあげると隣には毛布を片手に持ったレイルがこちらを見て立っていた。その表情には怒りはなく、少し悲しそうな笑みを浮かべている。
レイルの腕の力に引っ張られるようにして椅子から腰を上げたわたしは、部屋の壁際まで連れていかれる。そこでレイルは腰を下ろし、隣に腰かけるよう視線で促された。
壁を背に2人並ぶ姿は、いつぞやのわたしとミラを思い出させる。
そして、レイルはわたしと自分を包むようにして一枚の毛布をお互いの肩と肩に架け渡す。
お互いのぬくもりが毛布の中の空気を保温して、とても暖かくて心地良い。
レイルの肩に頭を載せれば、レイルはわたしの頭に自分の頭をぶつける勢いでこちん、と頭を載せてくる。ちょっと乱暴なその様に少し笑いが零れる。
「私は、買われた理由など正直どうでも良かったのです。この家に来て、温かな食事と寝所があって。それだけで十分だったのです」
その言葉に、あそこの牢での生活がかに辛いものだったのかがわかる。
「それに加えて、奴隷を家族と同等に扱われるので、初めは恐怖さえ感じました。でも、今日のお話を伺って、ちゃんと人間らしいところがあるとわかって、心の底から安心しました」
「わたしが奴隷だってことは驚かなかったの?」
「それはもちろん驚きましたが、旦那様の振る舞いは、他から見たら父親そのものです。買われた経緯はどうあれ、大事なものは今ではないでしょうか。
「……」
でも、奴隷だって事実をずっと黙っていたあの人に対する不満は正直少しある。腑に落ちないと顔にでも書いてあったのか、レイルは続ける。
「何故言わなかったのか、理由があるのかもしれませんよ。初めから疑ってかかって理由さえ聞かないのは、らしくないですね」
「らしくない?」
「理由があるならちゃんと言って、と私の知る誰かさんはそう仰います」
そういえば、出会いたての無口なレイルに対してそんなようなことを言った気がする。うじうじして意見を言わないのはわたしらしくないかもしれない。
自分が不満を持っていることに気付いてくれと、言葉なしに親に餌を求めるひな鳥のようで、なんだか今までの自分の振る舞いが突然に恥ずかしくなる。
「レイル、ごめんね」
「いいえ。私は今幸せなのです。理由など関係なしに、買っていただいたことに御礼を申し上げたいです。片眼の私などを快く迎えてくださり、ありがとうございます」
わたしは、魔石店店主のことを想って、商談部屋のドアを見る。
「旦那様は深酒をされて、すでにおやすみなさいました。お話は明日にしましょう」
そう言ってレイルはわたしの頭を自分の肩に引き寄せて、商談部屋の床に寝転がった。こうやって誰かに腕枕をしてもらうのはとても久しぶりだ。
わたしの知っている腕枕より厚みの薄い枕はちょっと弾力には欠けるけど、低めでちょうど良い。
「ねえ、腕の傷は大丈夫なの?」
「はい。そういえば、言い忘れていましたけど、稽古をつけてほしいと懇願したのは私の方ですからね」
「……あれが稽古?」
「あの程度、私には日常だったので、まさかあんなに驚かせてしまうとは思いませんでした。そこは、申し訳ありませんでした」
「あれ意外にも傷たくさんある?」
「腕にも背中にも脚にもありますよ。女性はそんなのを見たいとは言ってはいけませんよ」
「……はい」
わたしとレイルは徐々にくだらない話へ移行していって、そのままわたしたちはぽつりぽつりと交わす言葉が少なくなっていき、気づけば、ゆったりとした眠りの中に引きずり込まれていた。
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