第3話『消えた彼のSNS』

木村美咲は携帯電話の画面をリフレッシュした。画面には「このユーザーは存在しません」というメッセージが表示されたままだ。


「おかしいな…」


美咲は霧雨マンション303号室のソファに座り、眉をひそめた。美容師として働く25歳の彼女は、恋人の高瀬健太とSNSでやり取りするのが日課だった。健太は毎日投稿していて、最後に更新したのは昨日の23時。「23時に真実が見える」という謎めいた一文を残していた。


それ以来、健太のSNSアカウントが突然消えてしまった。電話もメールも繋がらない。


「もしかして、私を避けてるの?」


そんな不安が頭をよぎるが、2年間付き合ってきた中で、健太がそんなことをするとは思えない。むしろ最近は結婚の話も出ていた矢先だった。


美咲は親友の佐藤真理に電話をかけてみることにした。真理は同じマンションの501号室に住んでいて、よく買い物に行く仲だった。


「もしもし、真理?」


「もしもし、どちら様ですか?」


聞き慣れない声に、美咲は一瞬混乱した。


「真理…?佐藤真理でしょ?私、美咲だけど」


「すみません、佐藤真理という方は知りません。番号を間違えられたのでは?」


「え…?」


美咲は自分の連絡先を確認した。確かに真理の番号だ。


「あの、501号室の佐藤真理じゃないんですか?」


「いいえ、501号室は私の部屋ですが、高橋桃子と申します。佐藤という方は存在しないと思いますよ」


美咲は言葉を失った。昨日まで一緒にいた友人が、突然「存在しない」と言われる。そんなことがあり得るだろうか。


「すみません、失礼しました」


電話を切った美咲は、頭が痛くなってきた。真理だけでなく健太も連絡が取れない。何が起きているのか、直接確かめるしかない。


健太は霧雨マンションの607号室に住んでいた。美咲は急いで着替え、エレベーターで6階へ向かった。


エレベーターの中で鈴木管理人とすれ違った。普段は愛想のいい管理人だが、今日はどこか物憂げな表情をしている。


「あの、鈴木さん」


「ああ、木村さん。どうしましたか?」


「501号室に佐藤真理さんって住んでますよね?」


鈴木さんは首を傾げた。


「501号室ですか?あそこには高橋さんが住んでいますよ。佐藤さんという方は…」


鈴木さんは一瞬考え込むような表情をしたが、すぐに首を横に振った。


「いいえ、そのような方は住んでいません」


美咲の不安は募るばかりだった。エレベーターを降り、607号室の前に立つ。ノックをする手が震えていた。


*コンコン*


ドアが開き、80代くらいの老婆が顔を出した。


「どちら様ですか?」


「あの…高瀬健太さんはいらっしゃいますか?」


老婆は首を傾げた。


「高瀬さん?そんな方はここには住んでいませんよ」


「え?でも、607号室ですよね?」


「そうですよ。でもうちは10年以上前からここに住んでるんです。高瀬という方は知りませんね」


美咲の頭はますます混乱した。昨日までデートしていた恋人が、突然この世から消えてしまったかのようだ。


「すみません、失礼しました」


老婆は不思議そうな顔をしたが、丁寧に頭を下げてドアを閉めた。美咲はその場に立ち尽くした。


部屋に戻った美咲は、スマホの写真フォルダを開いた。そこには健太との2人の写真がたくさん保存されているはずだった。


「え…?」


写真を開くと、そこには美咲が一人で写っているものばかりだった。2人で撮ったはずの写真、手をつないでいる写真、肩を寄せ合って笑っている写真。すべて美咲一人の姿に変わっていた。


「こんなことあり得ない…」


美咲は震える手でスマホを置き、部屋の中を見回した。健太からもらったプレゼントがあるはずだ。クローゼットを開けると、そこには健太が美咲に贈った「23:00」と刻まれた腕時計があった。


「これだけは…残ってる」


腕時計を手に取り、美咲は涙を流した。世界から健太の存在が消されたとしても、この時計だけは証拠として残っている。しかし、なぜ健太は消えてしまったのか?


---


翌日、美咲は美容院で働きながらも、頭の中は混乱したままだった。同僚の田中さんに声をかけられて、ハッとする。


「美咲ちゃん、ボーっとしてどうしたの?」


「あ、ごめん。ちょっと考え事してて」


「恋人とケンカでもしたの?」


「いや…」美咲は言葉に詰まった。健太のことを話すべきか迷う。「田中さん、知り合いの人が急に連絡取れなくなったら、どうする?」


「SNSとか全部チェックするかな。今どき連絡つかないなんてほぼないでしょ」


「でも、SNSのアカウントが消えてたら?」


「え、アカウント削除したってこと?それはもう会いたくないってことじゃない?」


田中さんの言葉は的を射ていたかもしれない。しかし、それだけでは写真が変わることや、みんなが健太を知らないと言うことの説明がつかない。


その時、入ってきたお客さんの会話が耳に入った。


「ねえ、聞いた?霧雨マンションに住む人の顔が変わっていくんだって」


「え、何それ怖い。都市伝説?」


「いや、マジらしいよ。知り合いの子が言ってた。霧雨マンションに住む人が突然別人になるって。見た目はそのままなのに、中身が変わるみたいな…」


美咲は思わず耳を澄ませた。霧雨マンション…そして人が変わる。真理が高橋桃子になったのも、そういうことなのだろうか?


仕事終わりに、美咲は勇気を出して501号室を訪ねることにした。高橋桃子という女性に会えば、何か手がかりがつかめるかもしれない。


インターホンを押すと、若い女性が出てきた。昨日電話で話した女性だろう。不思議なことに、その顔は佐藤真理にどこか似ていた。


「こんにちは、303号室の木村と申します。少しお話してもいいですか?」


高橋は不思議そうな顔をしたが、部屋に招き入れてくれた。部屋の中は、美咲が記憶している真理の部屋とまったく違う雰囲気だった。壁には「赤い糸を編む女性」の絵が飾られている。


「何かご用件ですか?」


「実は…」美咲は言葉を選びながら話し始めた。「私の友人と恋人が突然連絡が取れなくなって…友人は501号室に住んでいたはずなんです」


高橋は眉をひそめた。


「501号室はずっと私の部屋ですよ。4か月前に引っ越してきました」


「4か月…?」美咲の記憶では、真理は少なくとも1年以上このマンションに住んでいたはずだ。


高橋の様子を観察していると、彼女の目が腕時計に釘付けになっていることに気づいた。


「その時計…」高橋が言った。「どこで手に入れたんですか?」


「これ?彼氏からもらったんです」


「23時…」高橋はつぶやいた。「私も以前、似たような時計を持っていました。でも、ある日突然壊れてしまって…」


美咲は何か重要なつながりを感じた。しかし、それ以上は高橋から引き出せなかった。


部屋を出る時、高橋は美咲に言った。


「気をつけてください。このマンションでは、時々…不思議なことが起こるんです」


---


その夜、美咲は健太のSNSを何度も確認した。アカウントはまだ「存在しない」ままだ。しかし、美咲のSNSには健太とのメッセージが残っていた。最後のメッセージは「明日は美咲の誕生日だね。特別なプレゼントを用意したよ」というもの。健太の最後の投稿も、この会話の後だった。


「23時に真実が見える…」


美咲は腕時計を見た。22時55分。あと5分で23時になる。


*ピンポーン*


インターホンが鳴った。美咲は飛び上がるほど驚いた。こんな時間に誰だろう?


インターホンのモニターを見ると、そこには見知らぬ女性が立っていた。


「どちら様ですか?」


「すみません…お水を一杯いただけませんか?」


女性の声はか細く、震えているようだった。美咲は奇妙な感覚に襲われた。こんな状況、どこかで聞いたことがある。


「少々お待ちください」


美咲は水を持ってドアを開けた。そこに立っていたのは、顔色の悪い若い女性だった。彼女は水を受け取ると、一気に飲み干した。


「ありがとうございます。あなたのおかげで…次は別の人を…」


女性はそう言って、廊下の暗がりに消えていった。美咲は不安になり、急いでドアを閉めた。


時計は23時を指していた。その瞬間、美咲のスマホが鳴った。知らない番号からの着信だ。


恐る恐る電話に出ると、懐かしい声が聞こえた。


「美咲…?聞こえる?」


「健太…!?どこにいるの?何があったの?」


「僕はこの世界から消されたんだ」健太の声は遠く、時々途切れる。「マンションで何かが起きている。23時に真実を見てしまった…」


「何の真実?どういうこと?」


「マンションの地下に…」通話が乱れ始めた。「赤い糸…みんな繋がっている…次はきっと君だ…」


「健太!健太!」


しかし、通話は切れてしまった。美咲は何度もかけ直したが、「この番号は存在しません」というアナウンスが流れるだけだった。


混乱した美咲は、霧雨マンションの地下に何があるのか確かめようと決意した。真夜中だが、今すぐ行動に移さなければという焦りに駆られた。


エレベーターで地下に向かうと、そこには普段見かけない廊下があった。薄暗い照明の下、奥には古い扉が見える。


恐る恐る扉に近づくと、ドアノブに赤い糸が絡みついているのに気づいた。扉を開けると、そこは古い倉庫のようだった。壁には様々な写真が貼られている。その一つ一つが、霧雨マンションの住人たちだった。


美咲は息を呑んだ。写真の中に、佐藤真理と高瀬健太の姿を見つけたのだ。そして彼らの写真には赤い×印が付けられていた。


部屋の中央には大きな地図があり、霧雨マンションの全住人の位置が示されている。赤い糸で繋がれた部屋があり、303号室—美咲の部屋—にも印がついていた。


「これは何…?」


その時、背後から声がした。


「ああ、来ましたか、木村さん」


振り返ると、鈴木管理人が立っていた。彼の手には赤い糸が握られている。


「鈴木さん…これは一体?」


「心配しないでください」鈴木さんは穏やかに微笑んだ。「あなたの恋人はどこにも行っていません。ただ、別の場所に移動しただけです」


「別の場所…?」


「そう、ですよ。ミラーワールド」


「ミラーワールド?」


鈴木さんは美咲をじっと見つめた。


「霧雨マンションには秘密があります。100年に一度、13人の魂を集める儀式が行われるのです。あなたの友人と恋人は、既にその一部になりました」


美咲は恐怖で体が震えた。


「私は…私も消されるの?」


「それはあなた次第です」鈴木さんは不気味に微笑んだ。「23時の腕時計が示す意味を理解できれば…」


その言葉を最後に、鈴木さんは扉の外へ消えていった。美咲は急いで追いかけたが、廊下には誰もいなかった。再び部屋に戻ると、壁の写真も地図も消えていた。あるのは空の倉庫だけだった。


---


翌朝、美咲は悪夢を見たのかと思ったが、腕時計が現実だと教えてくれる。しかし、奇妙なことに、美咲の記憶から健太の姿が薄れ始めていた。彼の顔、彼の声、彼との思い出—それらがぼやけていく。


美咲はスマホを開くと、自分のSNSアカウントから投稿が次々と消えていくのに気づいた。健太との思い出の写真、二人で行った場所のチェックイン、すべてが消えていく。


恐怖に駆られ、美咲は最後の抵抗として投稿した。


「23時に健太の部屋へ行きます。この投稿が消えても、私は忘れない」


その日の夕方、美咲は仕事から帰る途中、マンションの廊下で不思議な女性とすれ違った。女性は美咲を一瞬見つめ、そして急いで目をそらした。不思議なことに、美咲にはその女性の周りに「赤い糸」が見えた気がした。


部屋に戻ると、腕時計は23時前を指していた。SNSを確認すると、最後の投稿も消えていた。美咲は健太の顔をもう思い出せなくなっていた。


「健太…健太…」その名前を何度も唱えるが、記憶の中の彼の姿はますます薄れていく。


時計が23時を指した瞬間、美咲の部屋のドアがノックされた。


*コンコン*


ドアを開けると、そこにはかつての恋人—高瀬健太が立っていた。しかし、彼の顔は半透明で、向こう側が透けて見える。


「美咲…」


健太の声は遠く、エコーがかかったようだった。


「健太…!」


美咲が彼に近づこうとすると、健太の姿はますます透明になっていった。


「忘れないで…僕たちのこと…」


健太の最後の言葉を聞いた瞬間、美咲の手にしていた腕時計の針が突然動き出し、23時で永遠に止まった。そして腕時計の裏側に、小さな文字が浮かび上がった。


「記憶は消えても、赤い糸は切れない」


美咲は腕時計を胸に抱きしめ、涙を流した。窓の外を見ると、夜空に浮かぶ満月が赤く染まっていた。


---


霧雨マンション404号室。中野香織は深夜勤務から帰宅したところだった。疲れた表情で鍵を開け、部屋に入る。時計は23時を指している。


彼女のスマホが突然鳴った。知らない番号からの着信だ。


恐る恐る電話に出ると、かすれた声が聞こえた。


「気をつけて…あなたの後ろに…」


【第3話 終】

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