プラスとマイナスのしくみ

藤澤流砂

第1話

 きっかけは悠乃の小さな無神経さだったかもしれないし、はたまたわたしがいつもよりナーバスになっていただけかもしれない。ともかくあの日、私たちは一緒に住む様になって初めて――それまでも些細なものはあったけれど――、大きな喧嘩をした。社会人になってから、そして同居してから一年目の冬のことだった。


■ □ ■


「ねえ」


 返事はない。ねえ、悠乃ってば、と何度か呼びかけて、初めて彼女はスマホの画面からゆらりと顔をあげて、なに、あさぎ、と返事をした。それはいつも通りの悠乃の声なはずなのに、なんだかそっけない感じがして、わたしの心の奥から、もやりと陰が小さく顔を出した。


 その陰に見ないふりをするように、わたしは手元の家計簿に目を落とす。今月の家計は火の車、とまではいかないけれど、なかなか厳しいものがあって、わたしはどうしようもないのにペン先でノートをコツコツと叩いた。――先月も先々月も、月末はこんな感じで家計簿と共有の財布の中身とにらめっこをしていた記憶がある。わたしも悠乃も、二人暮らしには不慣れなせいで、こんなことになってしまっているのだ。これを機にビシッと引き締めなければなるまい。とりあえず嗜好品から。


「悠乃、ちょっとお菓子とかお酒とか、控えようと思うんだけど」

「……いーんじゃない」


 ケンコー的じゃん、と悠乃はけらりと笑って、それからまたネットサーフィンへと戻っていく。その画面がちらりと見えてしまって、ぷつりと、わたしの心に張り詰めていた糸が切れた。ことり、と、ペンが机に落ちる音が、静かなリビングに響く。


「どしたの、あさぎ」


 べつに、いいけどさ。自分のバイク用品見てたって。なんでわたしばっかり家のこと考えてるんだろ。わたしばっかり。何が「ケンコー的」だよ。わたしはそんなこと考えて言ってるわけじゃないのに。なんにも分かっていないような顔をしている悠乃を見ていると、だんだんと腹が立ってきた。ぐるぐるとした思考の果てに、わたしはずいと立ち上がる。小さな机がごとりと動いて、悠乃がぎょっとした顔になった。


 そのまま彼女に背中を向けると、悠乃が、ごめん、手伝うよ、と小さくこぼした。そうじゃない。そうだけど、そうじゃないのだ。これじゃあ、わたしが馬鹿みたいだ。馬鹿みたいなことで怒って、馬鹿みたいに立ち上がって。わたしが口を開くと、妙に冷え冷えとした声が出た。


「いい、やんなくていいよ、悠乃は」


 悠乃は同居生活なんか、どうでもよかったんだ。わたしの感情的な部分がぐちゃぐちゃになるのを、わたしは必死でなだめた。結局、わたしはここで見境なく泣き叫べるほど子供ではなくて、でも全部を許して一緒に家計簿をつけられるほどには大人ではなかった。


「ちょっと頭冷やしてくるだけだから」


 わたしはリビングと廊下を隔てるドアを勢いよく開けると、真っ暗な廊下を抜けて、玄関をくぐる。ひやりとした夜の空気がわたしの頬を刺して、わたしはくしゃりと顔をゆがめた。


■ □ ■


 底冷えする東京の夜の中を、軽自動車で縫っていく。まだエンジンも暖まっていなくて、信号待ち中のわたしは手を必死に擦り合わせた。少しだけ手の先に感触が戻ってきて、わたしはその手を合わせてほっと息を吐く。帰宅ラッシュの駅前は混雑していて、横断歩道を渡る人も途切れそうになかった。


 指先がこんなにかじかんでいるのは、いつも使っているカーシェアが誰かに使われていたせいで、ちょっと遠くまで歩く羽目になったからだ。わたしはまだじんじんと痛む耳を押さえて、一つため息をつく。頭に浮かぶのは、家出なんてしなきゃよかったという後悔ばかりだった。悠乃には絶対に言えないけれど。


 家を飛び出した時の気持ちはとっくに消えていて、今は何も役に立たない意地だけでハンドルを握っていた。果たして、どんな顔で帰ればいいのか、まだ分からない。車の予約は二十四時間後まで取ってあるけれど、それまでに分かるだろうか。


 そもそも、逃げるように家を出てきてしまったけれど、だからと言ってこの先の行くあてもなかったし、このまま帰れるほどにわたしは図太くもなかった。車の進む先には、沢山の信号と、車と、その先には都心の摩天楼がそびえている。――少し感傷的になっているのかもしれない、わたしは東京のビル群の中をさまよう自分の姿を幻視した。果たして、悠乃はわたしのことを心配してくれているだろうか。彼女の顔が脳裏に浮かんで、それを努めてかき消した。


 なんでわたし、あんなにイライラしちゃったんだろ。頭の中がぐちゃぐちゃのまま、車は幹線道路の渋滞に飲み込まれていく。いっそこのまま、車の流れに乗ってどこか遠くに行ってしまおうか。――それもいいな、とわたしはゆるくアクセルを踏んだ。

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