衆参同日

ゐむる

第1話 解散の嵐

 二〇××年六月の東京は、梅雨の湿った空気が街を包んでいた。だが、その湿気以上に重苦しい空気が永田町には漂っていた。政府・与党の幹部たちは、連日のように首相官邸や党本部に集まり、ひそかに議論を交わしていた。「衆議院解散」の可能性が、永田町を駆け巡っていたからだ。


 「本当に、このタイミングで解散するんですか?」


 官邸の執務室。官房長官・小倉慎司は、慎重な口調で問いかけた。向かいに座るのは、総理大臣・大友健一郎。五十九歳の大友は、政界入りして三十年以上のキャリアを持つベテラン政治家だった。二年前、与党の総裁選を制し、総理の座に就いたが、ここにきて政権は厳しい局面を迎えていた。


 「このまま参院選を迎えたら、確実に敗北する。野党に過半数を取られれば、我々の政策は一切通らなくなる」


 大友は険しい表情のまま、デスクの上の資料を指で弾いた。そこには、複数の世論調査結果が並んでいる。


 ——支持率、30%割れ。与党支持率、過去最低。次の参院選予想議席数、改選議席の三割以下。


 特に痛手だったのは、財務大臣の金銭スキャンダルだった。週刊誌がすっぱ抜いた裏金疑惑により、大臣は辞任に追い込まれたが、野党は政権全体の責任を追及。国会では連日激しい攻防が繰り広げられ、与党の支持率は急落していた。


 小倉はため息をつき、言葉を選びながら続けた。


 「確かに、このまま参院選を戦えば敗北は避けられません。しかし、同日選を仕掛けるとなると、衆院選も巻き込むことになります。野党に主導権を奪われるリスクも……」


 「それでも、やるしかない」


 大友の声には迷いがなかった。彼は立ち上がり、官邸の窓から霞が関のビル群を見下ろした。


 「この国の未来のためにも、政権を手放すわけにはいかない。我々が経済政策を進めなければ、再び混乱が訪れる。衆院選を同時に行えば、政権選択が争点になる。国民は経済の安定を望んでいる。そこに訴えかけるんだ」


 小倉は黙り込んだ。確かに、国民の中にはまだ与党の経済政策を評価する声もある。衆参同日選となれば、争点を経済に集中させられるかもしれない。しかし、それは成功すればの話だった。


 翌日、大友は臨時閣議を開き、衆議院の解散を決定した。解散詔書に署名し、閣僚たちに告げる。


 「国民の信を問う。これが最後の戦いになるかもしれない」


 そして、その日の午後、大友は記者会見に臨んだ。会見場には国内外のメディアが詰めかけ、テレビカメラが一斉に総理を映した。


 「本日、私は衆議院の解散を決断しました。理由は明確です。今、日本は重大な岐路に立たされています。我々の経済政策を継続するのか、それとも別の道を選ぶのか。それを国民の皆様に問いたい」


 記者たちが一斉に手を挙げた。ある記者が鋭い口調で問いかけた。


 「しかし、世論調査では政府の経済政策への評価は厳しく、国民の多くが不満を抱えています。この状態で解散総選挙を行うのは、単なる政権延命ではないのですか?」


 大友はわずかに目を細めたが、表情を崩さなかった。


 「確かに、厳しい意見があるのは承知しています。しかし、だからこそ、私は民意を直接問う決断をしたのです。我々が進めてきた政策は間違っていたのか、それとも長期的な成長のために必要なものなのか。有権者の判断に委ねます」


 会見後、このニュースは瞬く間に全国を駆け巡った。「衆参同日選挙」という衝撃的な言葉が見出しを飾り、テレビでも連日トップニュースとして報じられた。


 「前代未聞の決断だな」


 野党第一党の党首・武藤慎吾は、党本部の会議室でテレビを見つめながら呟いた。四十八歳の武藤は、野党の新しいリーダーとして注目される存在だった。かつては与党の一員だったが、政策の違いから党を離れ、野党再編の中心人物となった。彼のもとで、野党は勢いを増しつつあった。


 武藤は周囲の幹部たちを見回し、静かに言った。


 「チャンスだ。政権交代の流れを作れる」


 野党はすぐさま対策本部を立ち上げ、選挙戦に向けた戦略を練り始めた。


 一方で、街の声は割れていた。


 「もう与党には任せられない」


 「でも、野党が本当に政権運営できるのか?」


 有権者の間には不安と期待が入り混じっていた。そして、選挙戦が幕を開ける。


 史上初の「衆参同日選挙」。その火蓋が、今切って落とされた。


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