順 4
数えるのも嫌になるぐらい面接を受けては落とされ、ようやく再就職先を見つけた俺は、すぐに望にプロポーズをした。結婚式は都内と望の地元の両方で挙げ、たくさんの人から祝福を受けて、だが夫婦として初めての遠出ができるようになるまでは、それから二年以上もの歳月が必要だった。
「ほら、消毒マットがあるよ、よそから植物の種を持ち込まないようにするためか、さすが絶海の孤島だね。あつっ、もうシャツ一枚でいいな。」
港で上着を脱ぐ時も、俺は望の手を離さず、彼女の意識がなるべく外の世界に向かうよう話しかけている。鮮やかな色をした南之果島の空や海にも、まだ肌寒い本土とは違う熱い南国の日差しにも、望はもはや心を躍らせはしない。あるいはかつて憧れた旅先に来てみたら、今の自分が悲しくなったのかもしれない。目深にかぶった帽子の下で、望は表情を変えることもなく、ただ「うん」と頷くだけだった。
「望ちゃん、無理はしないでいいからね。とにかくできる範囲で楽しめばいい。」
日傘の下で俺は望と手をつなぎ、トランクを脇に置いて民宿の迎えの車が来るのを待った。遠目には幸せそうなカップルに見えるかもしれないが、近付けば望が不健康に痩せているのに気付くはずだ。望はすっかり変わってしまった。今の彼女は、昼も夜も一人で深い悲しみの中から抜け出すことができないでいる。
しばらくしてやってきたワゴン車を運転しているのは、よく日焼けした背の高い男性だった。平べったい顔に俺はなぜか見覚えがあったが、気のせいだろう。いかにも海の男らしいいかついその風貌に、俺は少し緊張してしまったが、意外と気さくな人で、ニコリと笑ってトランクを積むのを手伝ってくれた。だが俺は勧められた助手席ではなく、望と並んで後部座席に座り、腕を重ねてやった。いい歳をしていちゃついている男女と思われるだろうが、俺は今それどころではない。出先で俺と離れると、望は急な不安に襲われることがあるからだ。
車が坂を上がっていくと、目の前に湾が一面に広がり、いつか見た建物がそこに現れた。「民宿あんの」。ふじみ☆先生が島の出身で、ここのオーナー一家の娘と同級生だったことが先生の死後に旅の動画で紹介され、一時はファンの間で聖地になっていた宿だ。窓を取り囲むように這わせてあるあの美しい葉を持つ植物は、作中によく登場する「ヒスイカズラ」だろうか。ふじみ☆先生は生前、出身地について特に語ることはなかったが、近未来や転生を描いたその作品には読み返すと故郷の景色だと思われる描写がよく登場し、俺は初めて来たこの島に奇妙な既視感を覚えた。そう思うと、民宿の玄関で寝そべっていた猫たちが、やたら人懐っこくすり寄ってくるのも何かの縁だと思えてしまう。猫という生き物はいつも、何食わぬ顔をしてすべてをお見通しなのかもしれない。
「いらっしゃいませ。」
のれんの向こうから、赤ちゃんを抱いた若い奥さんが現れた。自分の背後で望が顔色を変えるのが、俺には見なくてもわかった。
「あ、すみません、嫁が、ちょっと疲れちゃったみたいで…」俺は慌てて奥さんから鍵を受け取り、望に渡すと部屋で休んでいるよう伝えた。望は顔を上げないまま、「順ちゃん、ここで話してていいよ」と小さな声で言い、鍵の番号と同じ部屋に向かっていった。
「本土からは長旅ですからね。お水お持ちしましょうか。」
「いえ、嫁は自分で持っているはずです…あれ?モモカ?」
急に自分の口から出た声に、俺は自分でも驚いていた。目の前の女性によく似た人を、いつかどこかで見たような気がする。だが同時に、記憶とすら呼べないその「痕跡」の中にある彼女の姿は、何というか…今見ている実物より若くて美化されていたと思う。民宿の若奥さんは出産を経験したせいだろうか、あごは二重になっていて、頬は強い日差しのせいかたくさんのそばかすができ、茹でたエビのように赤くなっている──肌の色からして、昔この島に漂着したとかいう、欧米人の子孫かもしれない。
初めて来る客に、しかもいきなり呼び捨てされたにもかかわらず、奥さんはまるで驚くことなく「もしかして不思議な夢を見たっていう方ですか」と聞いた。「どういうわけか最近、初対面なのに私の名前を呼ぶお客さんが来るんです。聞いてみたらみんな、夢でここに来たことがあるって。」
「そう。最初は民宿紹介の動画に出たせいかと思ったんだけど…あの時は名前とか、個人情報出さなかったしね。」
顔を見合わせる夫婦を前に、奇妙な既視感がまたやってきた。まるでかつて自分もその中にいた光景を、今は遠くから眺めているような、安堵の中に寂しさの混じる気持ちが、まるで心当たりがないのにこみ上げてくる。ふと思いついて、俺は二人に聞いてみた。
「もしかして、お二人をよく知っていて、今もどこかで見守っている人がいるんじゃないですか?」
俺はすぐに、自分の発言を後悔した。旦那さんははっとし、奥さんは一瞬目を泳がせ、両親の間に流れた気まずい空気を察したのか、赤ちゃんがアウアウとぐずり出した。
「ほらほら、よしよし…ああ、すみません、お客さん、今日の夕方五時くらいって空いてます?よければ案内したい場所があるんです。」
廊下から出てきた年配の女性が赤ちゃんを抱き取ってあやすと、俺の方に振り向いて言った。顔かたちが少し似ているので、奥さんのお母さんだろう。俺は特に予定もなかった──というか望の調子次第だったので、「お願いします」と言った。
「では五時になったら、ここで待っていてくださいね。」
客商売のベテランらしく、登場するだけでその場の雰囲気を丸く収めてしまうお母さんだった。俺は自分が何やらまずいことを言ってしまったと感じたが、何がまずいのかまるでわからない。モヤモヤしながらも、部屋にいる望のことが気になったので、旦那さんに手伝ってもらって二人分の荷物を抱え、階段を上がっていった。本棚の前を通りかかった時、「ふじみ☆」の著者名があるライトノベルの単行本が目に入った。根強いファンを持つ島出身の作家を、観光資源として活用しようとしているのかもしれない。
部屋に入ると、望が体育座りから横に転がった姿勢のまま、畳の上で声を殺して泣いていた。
「望ちゃん。ウミガメセンターに行く…のはやっぱりやめとく?」
かつて自分がこんな格好でゴロゴロして叱られる側だった俺は、最近では望の寝ころび方で気持ちの落ち込み具合までわかるようになった。
「…順ちゃん、ごめんね。ああいうの見ると、私、やっぱりダメで…」
望はか細い声でそう言いながら、部屋に備え付けのティッシュを片手で取り、涙を拭いている。
「旅先まで来てこんなんって…私、もっと頑張らなきゃね。」
「頑張るって、これ以上何をだよ。」
言ったそばから、口調が少しきつかったかなと気になった。そこで俺は望のわきの下に手を入れ、ついでに昔彼女がしてくれたように、後ろからそっと抱き寄せた。子供の頃から優秀で、努力で何でも手に入ると信じていた俺の嫁は、自分に何かができないという無力感をなかなか受け入れられないでいるのかもしれない。
「早発閉経」。結婚前は仕事に支障がないようピルで生理を減らしていたが、後で医者から「もともと生理不順だったんでしょう」と言われた。妊娠するためにピルをやめても生理が毎月来ることはなく、ついには止まってしまい、検査のたびに出る結果に、望は打ちのめされていった。「卵子が完全に消失」「卵子提供がない限り妊娠はほぼ不可能」「原因は不明」「一般的な女性の閉経年齢までホルモン治療が必要」…
若くして来た更年期のせいで食欲がなくなり、体重が何キロも落ちた。長時間の仕事に耐えられなくなり、あんなに就活を頑張って入った会社も退職せざるを得なかった。うつ病と診断され、ひどい時は毎日ベッドに伏せて泣き暮らした。治療のおかげで最近では体調がだいぶよくなってきたが、それでも赤ちゃんを抱く人を見るとこうなってしまう。
俺は望を胸に抱えたまま、体をひねって日よけの障子を開け放った。島の翡翠色の大地と、紺碧の湾が俺たちのすぐ横に広がっている。旅行サイトの写真で見た時になぜか感じるものがあって、わざわざ予約した海側の部屋だ。
望は顔を上げ、俺から体を離すと、ぼんやりと外を見た。
「俺も、確かに子供がほしいって一度は願ったけど、何より大切なのは望ちゃんだよ。」
窓の外を一心不乱に眺める嫁の後ろ姿に向かって、俺は何度も口にした台詞をまたつぶやいた。同じ部屋、すぐそばの距離にいても、今の彼女はどこか遠い別の世界にいる。妊娠能力どころか女としての機能まで失ってしまった悲しみをわかってやれるかと聞かれれば、やはり自信はない。それどころか時折、二人の関係に「子供」などという結果や成果や意義や意味が必要でなかった頃が懐かしいとすら思ってしまう。
やっぱり俺は、自分勝手な夫なんだろうか。何度目かわからないモヤモヤを振り払おうと畳の上に視線を戻すと、ふと「ありがとう」と小さくつぶやく声が聞こえた。「順ちゃん、やっぱり私、ここに来てよかったよ。連れてきてくれてありがとう。」
顔を上げてみると、振り向いた望の横顔の向こうで、島の湾が正午の日差しを受けて輝いている。俺は何度目かわからない不思議な感覚に襲われた。いつかこの光の前で、今と同じように愛する人の顔を見ていたような気がする。
…日本の魅力的な離島を紹介する島の子ちゃんねる、東京都南之果島編二回目です。今回は島のコーヒー農園さんにお邪魔してきました。
と、その前に、南之果島のコーヒー栽培の歴史を紹介いたしましょう。この島は日本で最初にコーヒーが栽培された場所の一つでして、歴史はなんと明治時代にまでさかのぼります。当時の政府が換金作物として注目したようです。しかしその後、第二次世界大戦で住民は島外へ強制移住させられてしまい、戦後になって放置されたコーヒーの木が野生化しているのが発見されました。へえ、コーヒーって意外と強い植物なんですね。
今でも南之果島では、自生しているコーヒーの木が多く見られます。手間はかかりますが、自分で育てて飲んでいる人もいるそうで、島の人たちにとっては、コーヒーは非常に身近な植物なんですね。しかし収穫量が少なく送料がかかってしまう関係で、本土ではほとんど流通していないのが現状です。さあそんな幻の南之果島産コーヒー、一体どんなお味なんでしょうか…
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