順 2

 点滴が終わって外に出てみると、あたりはすっかり暗くなっていて、俺はようやく、自分が昼間から酒をあおっていたことを思い出した。びっしり建ち並ぶ都内の高層住宅の窓から、年末の夜の暖かい光がのぞいている。歩道で待っていると、見覚えのある車が止まり、頭から離れてくれなかったその人の顔が見えた。だが俺は言うべき言葉が見つからない。「心配かけてごめん」とか、「ありがとう」じゃない気がする。もっと大事なことを言わなければならないのに、それが何なのか、頭に浮かばない自分がもどかしい。

 しかし心優しい俺の婚約者は、ただ助手席に座るよう促すだけだった。ドアを開けると、空調の暖かい空気とともに望のいつも使っている香水の香りが鼻をくすぐって、俺は涙が出そうになった。

 クリスマス前の都内だけあって、少し走ると車は渋滞に捕まってしまった。「あー」と少し不満げな声を漏らした望の方を見ると、頬にファンデーションが浮いている。一日働いた後、こうして迎えに来てくれたのだ。俺は申し訳なさのあまりシートベルトの中から逃げ出したい衝動にかられたが、何とか気を落ち着けると、頭に浮かんだ台詞を正直に、少し上ずった声で伝えた。

「迎えに来てくれて、嬉しいよ。」

 望は俺のことを責めず、前を見たまま「ねえ、もしかして、わざと?」と聞いた。「順ちゃんって何するのも慎重な人だよね?それが、酔っぱらって寒いところで裸になるなんて、下手したら死ぬって、知らなかったわけじゃないでしょ?」

 俺は否定も肯定もしなかった。会社をリストラされて実家に戻って、何をするわけでもなくただ毎日望に会いたくて、なのに自分には彼女を幸せにする方法は何もないように思えた。そんなある日、母親がニュースを見てショックを受けていた。若い頃好きだった歌手が亡くなったのだという。入浴中の事故で、飲酒していたために血圧が急降下した可能性もあるとか何とか…

 しばらくして俺は、台所に焼酎の一升瓶を見つけてしまった。母親が正月に飲むために用意したものだろう。何を考えていたのか、自分でもよく覚えていない。瓶を抱えて寒い風呂場に向かい、酒の栓を抜くとぐいっと一気に喉に流し込んだ。運がよければ情けないこの自分と永遠にお別れできるし、運が悪ければ…いや、よければなのか?施設の早番から帰ってくる母親に発見されるはずだ。

 体中に焼けるような熱さを感じ、狭い脱衣所の中で、俺は着ていたものを全部脱いでしまった。いいぞ、このまま気を失ってしまおう。だが薄れゆく意識の中で一瞬脳裏をよぎったのは、「ふじみ☆先生の新作をまだ読んでいなかった」。寝ても覚めても忘れられなかった望のことでなかったのは、自分でも意外だった。

 もちろん、その間に見たおぼろげな夢の記憶など、望に伝えるつもりは毛頭ない。黙ったままの俺の隣で、望は空調の吹き出し口を調節しながら聞いた。「私があんなこと言ったのが…よくなかった?」

「違うよ」と俺はようやく必死で首を振った。「望ちゃんは悪くない…弱かったのは俺だ。」

 今年の誕生日を迎えたあたりから、望は早く結婚して子供を産みたいと言うようになった。俺はそれが嫌だったわけじゃない。望との子供も、いつかできれば嬉しいだろうと、ぼんやり想像はしていた。だがいざ親になると考えると、底のない沼に足を突っ込んで、進むことも戻ることもできなくなるような気がした。妊娠や出産を実際に経験しなければならない望の方に、むしろまったく迷いがないのが恐ろしいとすら思っていた。折悪くというか折よくというか、会社の業績が悪化してリストラされたのはそんな時だった。

「順ちゃん」、再び走り出した車内で、望の呼ぶ声がした。「私、確かに子供はほしいけど、その前に順ちゃんがいなくなっちゃったら、すごく悲しいよ。私にとって何より大切なのは順ちゃんなのに。」

 ずっと待っていて、だけどそれを認めたら崩れてしまいそうな言葉だった。「うん」と俺は頷き、小さな声で「ありがとう」と望に伝えた。望の目が細くなる。

「そうだ、今日取引先から珍しいものをもらったの。日本国内、しかも都内でとれたコーヒー豆だって。」

「え、そんなもの栽培してるところあったっけ?」

「ほら、南之果みなみのはてじまだよ。一応東京都内でしょ?」

 ああそこか、と俺は思い出した。ここからはるか南東の彼方、太平洋上にある、なぜか東京都下の島。小学校の授業で習って以来、俺はその存在を思い出すことすらなかった。

「もう、順ちゃん、私と違って生まれた時から都民でしょうが…ねえ、竹芝から船で行けるんだって、いつか二人で行ってみたいね。」

 現実逃避の世界にばかり目を向けている俺とは違って、望は現実世界の様々な場所に興味を持っている。俺は自分がものを知らないのが気になって、スマホの検索エンジンに「南之果島」と入力した。だが結果をよく見るより先に、運転席から再び「順ちゃん」と声をかけられた。

「私たちには明るい未来が待ってるはずだよ。だからもう二度と、おかしなことを考えたりしないで。」

 信号待ちで車はゆっくり停止し、望の方を見ると目が泣きそうになっていた。差し出された手を、思わず握り返す。冷え性持ちの手は、俺のより少し冷たかった。

「わかった。俺、確かにいろいろ弱い人間だけど…もう現実から逃げたりしないから。」

 俺が視線を合わせると、望はようやく頷いた。

「…体はもう大丈夫?なら、灯油買うの手伝ってくれない?」

 見ると、交差点の数百メートル向こうはガソリンスタンドで、後部座席にはポリタンクが二つ積まれていた。年末になって買った、暖かい灯油ストーブ。二人で一緒に買い物をして、ストーブに当たって、コーヒーを飲む幸せな日常。俺は自分が今取り戻すべきものを思った。その瞬間、南之果島は再び単なる風光明美な場所として、意識の彼方に消えていった。


 …わたしが住んでいる南之果島はとても美しい島で、世田谷にいるいとこからはよくうらやましいと言われます。確かに、一年中あたたかいしめずらしい生き物がいるし、都会の人から見たらあこがれの場所だと思います。

 でも、島にはとてもきびしい現実があります。それは大きな病院がないということです。

 わたしのおばあちゃんはとうにょう病になって、とうせきで週に三回病院に行かなければならなくなりました。しかし、とうせきのできる病院は南之果島にないので、千葉のおばさんと一しょにくらすことになりました。島を出る前に、おばあちゃんは近所の人たちをよんで、お別れ会をして、泣いていました。わたしもお見まいに行きたかったのですが、遠いので行けませんでした。一年ぐらいたって、おばあちゃんはなくなってしまいました。おそう式は千葉でして、焼いたほねだけ持って島に帰ってきました。お母さんは「おばあちゃんはさびしかっただろうね」と言いました。お父さんは「この島の人はみんなそうだから、さびしいとは思わない」と言いました。お母さんは島外の出身です。「このままでは、この島に住む人はいなくなる」と言いました。

 わたしはしょう来医者になって、島に大きな病院をつくりたいです。でもお父さんから、「だったら医者じゃなくて政治家にならないとだめだ」と言われました…

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