第14話 訣別の始まり
ロン・ティータという名前を、アリアはずっと知らないままだった。占い師の元にいた時は半分正気ではなかったし、その後は、本当に自我を手放してしまっていた。だから、ロンの名前は、星野の口から聞いて初めて知ったのだ。テレビ云々の返事は後日、ということにし、帰路についたアリアは、バスの中でスマホを手に取った。
検索結果として出てきたのは、ほとんどがブログの考察記事やインフルエンサーの動画や投稿、そして匿名掲示板だった。
トップに表示された考察記事を読むと、色々なことが書いてある。
ロン・ティータは明治時代にイギリスと日本を行き来していた薬の商人であり、無名ながら哲学者でもあった。
その著書は四冊刊行されており、それぞれ四大元素の地水火風がテーマになっている。五冊目の原稿もあるようだが、その執筆途中にロンが亡くなった為、絶筆となった。今はその原稿は遺族が保管している。
刊行された四冊のうち、一冊だけ、探し当てた人がいる。火をテーマにした本だ。匿名掲示板や個人のブログの中には、その日本語訳を引用しているものもある。覗いてみたが、並んでいる言葉はアリアには難しく、意味をよく飲み込めなかった。
ロンが扱っていた薬は、主に植物に対するものだった。明治時代、西洋化が一気に進んだ社会の裏で、森林伐採も加速的に進んだ。それに伴って森は荒廃し、木々は枯れ、草はしおれていく。それを憂いたロンが、商人としてこの国に足を運んでいた。主な顧客は農家や林業者だったという。
ロンの死因は病死らしいが、その病名ははっきりしていない。
いくつか記事を見てみたが、どれも同じような内容だった。明らかになっていることが少ないのだ、ということがありありとわかる。中にはソースとしてリンクを貼っている記事もあり、それを辿れば雑誌のログと思われるページに飛んだ。
そこには、双子の写真が載っていた、あの二人へのインタビュー記事だ。
サイトのトップには『月刊オカルト旅』とあった。
記事の内容は、ロン・ティータについて、ひ孫である双子に聞き取り調査した、というものだ。アリアにとっては、まずひ孫という事実が驚く部分だった。本文には、双子が話したことがそのまま書き起こされている。
——まず、ロン氏の人柄についてお伺いしてもよいでしょうか
萩野怜(以下怜)『はい。曽祖父のロンは、とても温厚な人物であったと聞いています。僕らは祖父母の話でしか知りませんが、伝え聞くのは、人を助けたとか、誰それに感謝されたとか、そんなことばかりでした』
萩野静(以下静)『哲学者としても、世間的には無名ですが、地元ではそれなりに知られてもいたようです。歴史に名を刻んだわけではないけれど、やはり周囲の人たちには慕われていたのでしょう』
——なるほど。では、地元のちょっとした有名人だった、というわけですね。ロン氏の本業は、薬屋だったのでしょうか。
怜『と、いうより、今で言うところのガーデナーだったようですね。この国だと、庭師、と言った方が馴染み深いかもしれません。曽祖父の時代はまだイングランドにも貴族制度がありましたから。そういったお屋敷と契約して、植物の手入れをするのが本業だったようです。最初に日本に来たきっかけも、曽祖父のことを気に入った貴族の何方かに誘われたからだ、と聞いています』
静『薬の商人、というのは、植物の薬ですね。当時の日本も、明治維新後で都市開発が進んでいましたから。農家や林業者と取引したようです』
——それは、庭師のお仕事をしながら、ということですよね? ずいぶんお忙しかったのではないでしょうか。
怜『でしょうねぇ。ただ、日本と取引をしていた、といっても、どれくらいの頻度で両国を行き来していたのかは、実はわからないんですよ。一年に一回あるかないかくらいだったかもしれませんし、下手するとそれ以下だったかも』
静『今のように国際線が飛び交っている時代でもないですし。それを考えたら、本当に日本には数年に一回来ていただけ、ということは十分ありえますね』
——ああ、確かにそうですね。では、その数少ない訪問で、ロン氏は日本のどこを訪れていたのでしょうか。
怜『祖父が知っていた限りで、という注釈つきにはなりますが、少なくとも北海道には訪れていたようです。それから、たぶん三重県にも行っていたんじゃないでしょうか。小さい頃の祖父が、曽祖父の口から伊勢の地名を聞いたそうです』
——具体的な地域などはわからない?
怜『残念ながら』
静『僕らも知りたいんですけどね。曽祖父が植樹した木がある、とは聞いているので。叶うなら、その木を見てみたいんですよ』
——植樹、ですか。どんな木かはわかりますでしょうか。
怜『少なくとも、オークの木は持ってきていたようです。これも祖父の話ですが、曽祖父は幾つかお気に入りの樹木があり、オークはその一つだったとか』
静『他にも、ニレの木も好きだったようですね。曽祖父が暮らした家の庭にも、大きなニレの古木があるんです。ああ、それから、柳にも興味があったようですね。中国原産の樹木ですが、あの独特な枝の付け方を楽しんでいたようです』
——なるほど。温厚な人物で、植物を愛でる人だったんですね。それがどうして、今このような騒ぎに?
怜『……そうですねぇ。何か強烈なメッセージがあるんだと思いますよ。なりふり構っていられないくらいの強い願いか』
静『とにかく、無理矢理叩き起こされたのが一因なのは間違いないと思いますよ。すやすや寝ている時にいきなり布団を引っ剥がされたら、どんな優しい人でも怒るでしょう?』
——と、いうことは、現状、祟りをなしているロン氏の魂を鎮める方法はない、と?
怜『どうでしょうねぇ。曽祖父の願いがわかればいいんですが』
静『それがわかるまでは、続くかもしれませんね』
インタビュー記事にざっと目を通したアリアは、何か大変なことが起きているらしい、と理解した。
匿名掲示板も、オカルティックな話題として、ロン・ティータの名前を挙げている。誰かの悪意が絡んだ犯罪とは似て非なる、不可視の存在がもたらす恐怖。それは、恐怖という名の娯楽だ。これはそういう話なのだ、とアリアは呑み込んだ。
双子の顔を頭に浮かべ、チェンジリング、という言葉を思い出す。普通の人間ではない、特殊な出自。幽霊が見えたり、いわゆる霊能力があったりするんだろうか、と考えれば、どこか羨ましくも感じた。
特別な力への憧れは、多かれ少なかれ誰しも持っているものだ。アリアも、多分にもれず、特別という言葉に対する憧憬を強く抱いている。
そんなすごい力があれば、失敗しない、怒られない、大事にしてもらえる。
母にも勝つことができる。
アリアは力なく笑みをこぼした。
割り切ったつもりになっても、理解し飲み込んだつもりになっても、結局いつもそこに着地するのだ。第三者から「ひどい母親だった」と認めてもらえても、母親への怒りは、今なおアリアの中で渦巻いている。
その怒りを向ける先は失われたと思っていた。直接怒鳴ってやることはもうできないと諦めていた。
——ルサールカ。
双子が語った話を思い出し、まだやり返すことができるのだ、と歯を食いしばる。アリアは目立つことが苦手だ。テレビなど出たくない。しかし、星野は顔を隠して出演することも可能だ、と言っていた。
深呼吸をする。他人に流されるのではなく、自分の意志で決めるのだ、と自分自身に言い聞かせる。
星野に参加の意思を伝えるメールを送った。
もしも、双子の話が嘘だったら。
あの二人も、三森のように、アリアを利用しようとしているだけだったら。
その時は——どうしたら、いいのだろうか。
アリアは、スマホを握る手に力を込めた。
*
Ron・Tita著『The night until the fire goes out』第一章訳(抜粋)
人は正義を愛している。人は悪を憎んでいる。俗人であろうと、人格者であろうと、それは変わらない。
人は己が正義と思わなければ生きていけない。
人は己が悪だと思い込めば、生きていけない。
では、正義とは何か。悪とは何か。
正義とは、己が心地よいと思う言葉である。
悪とは、己が心地悪くなる言葉である。
花を愛でる者は、草木を慈しみ、守ることを正義とする。
薪を売る者は、樹木を伐り取ることを正義とする。
獣を愛玩する者は、その死に涙し、墓さえ立てる。
毛皮や肉を売る者は、獣の死こそが己が命の糧である。
花を愛でることは悪ではない。薪を売ることは悪ではない。
良き人であれば命を慈しむ。しかし毛皮や肉の商人がいなければ、人は冬に凍え、空腹に堪えなければならない。
それらは、ただの別側面に過ぎないのだ。
悪とは、己の理解の外にあるものを指す言葉である。
では、人をなぶり、虐げ、時に殺しさえする者はどうか。
人の社会では、それは紛れもない悪である。排除され、淘汰されるべき害である。そうでなくては、我々は常に暴力に怯えることになろう。暴力の否定は、社会規範の根幹なのだ。
故に、よりよい世界を目指す時、人は常に、暴力という悪を敵視しなければならない。弱い者を虐げることを否定せねばならない。
而して、暴力を否定することは容易ではない。力に溺れる者に、言葉は届かない。強さに酔いしれる者は他者の訴えに耳を貸さない。
力を振りかざす者が折れるのは、更なる強者が現れた時だけだ。
暴力を否定できるのは、つまるところ、それ以上に強い暴力のみなのだ。
故に、正義は、そうと掲げた時点で、常に暴力を内包している。正義とは、悪への否定であり、その為に暴力は必要不可欠なためだ。
だからこそ、正義は、時に悪以上の悲劇を生む。
サラマンダーはそれを嘆いている。真なる正義の篝火は、暴力を必要としない光なのだと叫んでいる。
では、それは何なのか。暴力を持たず、暴力を否定する術を、サラマンダーはすでに私たち人類に明示している。
火を持たずに火に立ち向かうことはできず、人はいずれも己の中に灯火をたたえている。それは他者に向ければ、その未来を燃やす業火となり、己に向ければ過去を浄化する篝火となる。我々にはその選択権が神より与えられている。
すなわち、その権利こそが、サラマンダーの啓示である。
さもなくば、人は、たとえ聖母の加護があろうと、業火に消えてしまうのだ。
*
多くの人と同じように、アリアにとっても、テレビ局は未知の世界だった。画面の向こうに映し出される華やかな世界、賑やかな人々、笑いに満ちた明るい世界。そんなぼんやりとしたイメージは、しかしテレビ局の中に一歩踏み行った瞬間、消滅した。
せわしなく行き交う人々と、どこからか響いてくる声。誰も彼もが余裕のない顔をしており、中には明らかにやつれていたり、顔色が悪かったりする若いスタッフもいる。動き回っているADたちは皆、黒や茶色といった目立たない色の服を着ており、そこに華やかさなど微塵もなかった。
テレビに映し出される綺麗な世界は、所詮ただの夢なのだ。この場の空気に触れて、アリアはそのことを否応なしに理解した。
「渡貫さーん、こっちですよー!」
受付の近くに佇んでいると、名前を呼ばれた。見れば、星野が手を振ってアリアを呼んでいる。水色のロリータ服は、モノトーンにも似た景色の中で、ひとつだけ明瞭に存在を主張している。それを目印にして、アリアは足を進めた。
星野に案内されるまま、ひとつの扉の中に入る。そこは窓がなく、真ん中にローテーブルが置かれ、その左右にパイプ椅子が三つずつ置かれている。会社の会議室のようだ、とアリアは思った。
「とりあえず、撮影開始までこの控え室で待機でーっす! 篠山先生ももうすぐ着くそうなので、ちょっと待ってましょう! 先生は画面には出れないけど、スタジオ内にはいらっしゃるそうなので! 安心ですね!」
「は、はい。ありがとうございます」
六つある椅子のひとつに腰掛けたアリアは、ようやく一息つくことができた。星野は、アリアの隣に座っており、ぽちぽちとスマホを触っている。
部屋の中は静かで、たまに扉の向こうから誰かのせわしない足音や声が響いてくるくらいだ。
することがないアリアもまた、ハンドバックからスマホを取り出した。
画面に表示された時間は、夕方の六時を指している。
撮影開始は七時と聞いているが、スタジオには七時前に入ることになるだろう。
もうすぐだ、と、アリアはスマホをタップし、あるワードを検索した。
『妖精 倒し方』
検索結果のトップに表示されたのは、アリアがよく知るユニレスというインフルエンサーのページだった。最近の投稿ではなく、何年か前にアップされた記事のようだ。アリアは迷わず、そのページへのリンクをタップした。
*
[ユニレスの相談室]
質問コーナー
Q.悪い妖精に出会ってしまったら、どうしたらいいですか?
A.魔除けのおまじないをしましょう。方法は簡単です。次の呪文を唱えてください。「レディーバード、レディーバード、フライアウェイホーム」。
レディーバードとは、聖母マリアの鳥、という意味です。これで悪い妖精を追い払うことができます。
*
[1コメ]
[待ってました!]
[放送開始ー!]
[本物まだ?]
[思ってたより出演者多いな]
[ロリータさんおるわ]
[ロリータさんがいるなら大丈夫だな]
[謎に信頼されてて草(わかる)]
[ロリータさんの隣の人は?]
[顔隠してるってことは一般人か?]
[柳木病院の時にいた人だろ]
[看護師?]
[いや多分違うと思う]
[そういやこのひと誰なんだろう]
[通りすがりの善意の人的なあれでは]
放送開始当初から、コメント欄は大いに賑わっていた。テレビということもあり、注目は今までの動画配信の比ではない。ネット配信ページのコメント欄は、一気に埋まっていった。
画面に映し出されるスタジオは、黄色や赤といった華やかな色で飾られており、真ん中に並んだ椅子にはそれぞれゲストが座っている。番組のレギュラー陣はゲストの後ろに設けられたひな壇におり、司会者は端の方に立っていた。
バラエティ番組でありがちな配置である。
[はいはい、右から通りすがりさん、ロリータさん、双子ね]
[紹介タイムめんどい]
[校長の説教聞いてる気分]
[校長直々に説教されるとか何したんよ]
[通りすがりさん、やっぱり柳木病院の時の人だな]
[双子がロンのひ孫なのは知ってるので、本題どぞ]
[早くロン呼んでー]
早急な展開を求めるコメント欄とは裏腹に、番組はゆっくりとトークから始まった。挙手したのはロリータ服の女性——星野だ。
「はーい! では、ロン・ティータの正体と目的を探れ! という趣旨の当番組ですが、皆さん、意気込みをどうぞ!」
「意気込みと言われましてもねぇ。とりあえず、ロンの正体は一応僕らの曽祖父ですよ」
「一応じゃなくて、正真正銘、ね。ただ、何を訴えたいのかは僕らも知りたいところです。星野さん、曽祖父に関連する心霊現象で、いま起きてるものって何があります?」
「えーっとですねぇ。まず、一番多いのが老人らしい声を聞いた、というものです。次に多いのは、窓を叩く音がした、急に机の上の物が落ちたといったポルターガイスト的な現象ですねぇ。その二つと比べたら断然少ないですけど、ロンの考察を見ている時、スマホの電源が急に落ちた、一人暮らしの家で老人の体臭を感じた、といった報告も上がっていまーすっ! 萩野さんたちは、これについてどう思いますか?」
「どれも、割とメジャーな心霊現象ですね。ただ、強いていうなら曽祖父の考察を見ている時にスマホが落ちた、という現象が気になります。報告数が少ない、ということは、いつも必ず、ではないんでしょう?」
「はい、そうなんですよぉ。実は、ロンの考察を投稿する際にも、端末がエラーを起こした、という報告があるんです。そして、スマホなどの端末に異常が起こった時には共通点があるんです。それがズバリ! ロンの幼少期に関わる考察を投稿・閲覧していた時にだけエラーが起きた、という事実でーっす!」
[ロリータさんが司会になってて草]
[番組司会者、仕事なくて相槌ばっかじゃん]
[ロンの小さい頃か。興味あるな]
[下手なコメントするなよお前ら。このサイトにポルターガイストが来たら困る。俺ん家テレビねーんだよ……]
[こちら、サービスのリモコンです]
[テレビ本体よこせや!]
[やるなと言われたらやりたくなるのが人の性]
[やめろって]
[ロンの生年月日って判明してたっけ?]
[双子がどっかのインタビューで答えてたはず]
[一八五三年十二月二十八日]
[ただ、昔の記録だから、誤差はあるかもっていう注意書きつきな]
[約百八十年前に生まれた人間ってことか]
[改めてだけど、だいぶ昔なんだよな]
[俺どころかじいちゃんばあちゃんも生まれとらんわ]
[でも数百年も前じゃない、写真とかもギリあった時代]
[ロンの写真ないー?]
「今、なぜ祟りが起きているのか……その謎はロンの幼少期が鍵なのは間違いない、と思っていいのでしょうか! 萩野さん!」
「さあ、それはなんとも」
「曽祖父の幼少期については、僕らもほとんど何も知らないんですよ。祖父母も、ロンの子ども時代までは知らないわけですし。ただ、祖父によれば、彼は自分の祖父母を知らない……ややこしいですね。僕らの祖父であるフェイは、両親と三人暮らしだったそうです」
「きょうだいはおらず、ロンの両親……フェイの祖父母、僕らのひいひい祖父とひいひい祖母、高祖父母ですね。そちらとも交流はなかったようです」
「と、いうことは、ロンは、自分の両親とは絶縁していた、ということでしょうか?」
「絶縁か、死別かはわかりません。どちらにせよ、ロン自身は自分の両親と交流があったわけではなかったようです。だから幼少期のことは本当にわからないんですよ。まあ、時代が時代ですからね。苦労していたことだけは想像できますが、それくらいです」
「あー、そうですよねぇ。ロンの日記とか、写真は残っていないんでしょうか?」
「日記はありませんねぇ。あったら僕らも助かったんですけども」
「ああでも、ロンの写真なら見つかりましたよ。イングランドにいる父から送ってもらって、ようやく届きました」
セピア色の写真がテレビ画面に映し出された。タキシードを着た面長の痩せた男性と、ドレスを身に纏ったふくよかな女性。二人とも西洋人らしい鼻筋の通った顔立ちだ。男性の方はきゅっと引き締まった顔をしているが、女性の方は微かに微笑んでいるようにも見える。
[よっしゃ遂に顔判明!]
[ポルターガイスト受けた勢、この人見た覚えない?]
[うーん、これ若い頃の写真だからな。わからんかも]
[イケメンですねぇ……(ギリィ)]
[隣の人は奥さんか?]
[正装っぽいし、結婚した時の写真かもな]
[え、ロンって既婚者?]
[そりゃひ孫がいるんだから当たり前だろ]
[ロンは痩せてるけど、奥さんの方は割とふくよかな感じがするな]
[百うん十年前だろ? その時代に太れるって、いいとこのお嬢様だったりする?]
[ロン逆玉説]
[イケメンの上に逆玉……(ギリィィ)]
[鏡でも見て落ち着いておいで]
[とどめさしてて草]
コメントが賑わう一方で、スタジオでは星野が音を立てて腰を上げた。
「さー、では情報が出揃ったところで、どうしましょう? 早速降霊、いっちゃいますか!?」
[待ってました!]
[いっちゃえ、いっちゃえ!]
[本物はやくー]
[お札の準備は万全だ。近くの神社で沢山もらってきた。いつでもどうぞ!]
[西洋の幽霊にもお札効くの?]
[しらね(十字架聖水完備勢)]
[ネットで売ってるのとか、全部眉唾もんとだけ言っておくね……]
[親がクリスチャンの俺氏勝ち組]
[聖書の角で殴られろ]
コメントだけでなく、スタジオの中でもにわかに空気が湧き立っている。
何かが起きてほしいという期待。未知なるものへの好奇心。そして、不可視の存在への恐怖。それらが混在した空気を感じながら、アリアはぎゅっと膝の上で拳をにぎった。その耳に、双子のどちらかの声が響く。
「その必要はありませんよ」
くすくすと笑うその声に、アリアは無意識に俯いていた顔を上げた。星野の横顔の向こうに、双子がいる。
「もう来てます」
まったく同じ笑みで、まったく同じ言葉が重なった。
ばちん、と、ブレーカーが落ちるような音がした。
驚いたアリアが顔を上げると、スタジオを照らすライトが明滅している。故障というより、子どもがスイッチを消したりつけたりして遊んでいるような印象だ。
慌てるテレビスタッフたちの喧騒の中で、ごぼごぼと何かが泡立つ音がし、アリアは思わず耳を塞いだ。すると、今度は炎が燃え立つ時になるような音が頭の中で響いた。
泡が弾ける音を、火花の音が遮っていく。何度もまばたきを繰り返しているうち、アリアは気づいた。
何かを叫びながら右往左往しているテレビスタッフたち。篠山は、アリアから見てカメラの右斜め後ろに立っている。彼は辺りを見回していた。状況を把握しようとしているのだ。
その篠山の後ろに、いる。
スタジオは、カメラに入る部分だけが明るく、その周囲は暗い。ライトの下にいれば、余計に周りは暗く見える。その暗闇に溶けるようにして、のっぺりとした影が立っていた。
頭があり、胴体があり、手足がある。ぬうと立つその影は、シルエットだけは人のものでありながら、明らかに異質な存在であると強烈に主張していた。
暗いと言っても、新月の路地裏ではないのだ。行き交うスタッフの顔や、篠山のスーツの色も朧げながらわかる。
それなのに、その影はどこまでものっぺりしていて、顔立ちも服装も、性別すらも判然としない。夜の泉がたたえる闇をそのまま切り貼りしたような姿だ。
目が合った。アリアはそう感じ、身震いをした。
この感覚を、アリアは知っている。よく覚えている。
子どもの頃、いつ癇癪を起こすとも知れない母親に怯えていた時と、同じ恐怖だ。
がたん、という音がしたが、アリアは黒い影から目を離せないでいた。肩が震え、手をぎゅっと握る一方で、足には力が入らず、椅子から立つことができない。
呪文。
魔除けの呪文を——。
アリアの前に、二つの人影が立った。
「皆さん、落ち着いてくださーい」
双子だ。片方が声を上げ、もう一人が皆の注目を集めるためか、大きく手を降っている。
「大丈夫、これはロンです。僕らの曽祖父です。いたずらはしても悪さはしませんよ」
「明かりはすぐに復旧します。落ち着いてー」
双子の声はどちらも凪いでいて、焦りなど微塵も感じない。感情とは、よくも悪くも伝播するものだ。怒りや悲しみといった衝動をあらわにする人間の傍にいれば落ち着かなくなるように、冷静な人間が近くにいれば、パニックは自然と治まっていく。
騒然としていたスタジオは、いつの間にか静寂を取り戻していた。
「さぁて」
静寂の中に、双子の声だけが響いている。二対の目は、なぜか上の方を見ていた。アリアもつられて視線を上げる。
スタジオ特有の、配線や鉄パイプが張り巡らされた黒い天井が見えるだけだった。
「話を聞こうか」
双子の声が重なった瞬間、ばちんと音が鳴って、明かりが完全に落ちた。
[え、停電!?]
[でもカメラは回ってるっぽい]
[ポルターガイストキタコレ!]
[さっそく放送事故クラスのこと起きてて草]
[騒いでるのはテレビのADたちか?]
[プロデューサーしっかりしろよ]
[こういう企画の時は霊能者呼んどくもんだろ]
[テレビに出る奴とか、大体みんなインチキだから]
[双子ー! ひいじいちゃんの説得頼んだぞ!]
[まって、何か聞こえない?]
[だからADたちの声だろ?]
[ADに外国人いるの?]
[英語っぽいのが聞こえる気がするんだけど]
[……聞こえませんが?]
[え、こんなに大きい音なのに?]
[音量最大にした。聞こえん]
[英語言ってる人いるじゃん]
[言ってるっていうか、歌ってないこれ? 歌じゃない?]
[れでぃーなんとかほーむって言ってる気が]
[仕事場でトラブル起きて、周りが騒いでるのに、呑気に歌う奴とかおる? 仮にいたとして、周りが怒らんとかある?]
[だからそんな英語も歌も聞こえんて]
[こっちはハッキリクッキリ聞こえてるんですが?]
[オッケー早速来ましたオカルト現象!]
コメントが熱を帯びていく一方で、アリアの動悸も高まっていた。その心に渦巻いているのは恐怖と怒りだ。物理的な常識が通じない存在への恐怖と、もっとも身近だった肉親への怒り。
耳に響いているのは、先程知ったばかりの魔除けの呪文だ。歌っているのは誰だろう、と、アリアは暗闇の中で視線を巡らせた。
少なくとも星野の声ではない。やや高めの音程は、双子のものとも違う気がした。篠山でもない。テレビスタッフか、後ろにいた芸能人たちの誰かだろうかと一瞬思って、アリアは無意識に首を横に振った。
——おかあさん。
あえて目をつぶり、拳を握り込む。そのままゆっくりと立ち上がったアリアは、何秒もかけて深呼吸をした。
頭の中で、母との記憶を反芻する。ひとつひとつ丁寧に思い出し、その時の感情を掬い取る。
綺麗なだけの言葉を象る、不機嫌にまみれた声。
返事が無愛想だったという理由だけで、何度頬を叩かれたか。
遅すぎる夕飯を、空腹を抱えて待った夜。
母を信じて解答を変えた結果、バツだらけになった宿題のプリント。
たかだか洗濯物のために頭を押さえつけられた。その時に覚えた、自分の価値は衣服以下なのだという屈辱と、諦め。
母に訴えたことは何度あったか。喧嘩したことは何度あったか。
その度に言われたのは“そんなこと、気にしないでよ!”という、悲鳴とも怒号ともつかない叫びだ。
確かに、とアリアは思う。ひとつひとつは小さなことかもしれない。ニュースで見るような虐待とは比べものにならないことで、悲劇というにはあまりにありふれた出来事なのかもしれない。
でも、違うのだとアリアは思う。逆なのだ、と確信する。
“そんなことくらい”を許せないのではない。
“そんなことくらい”すら許したいと思えないほど、嫌いになっただけなのだ。
高校生の時に、アリアは生家を飛び出した。それ以来、母とは会っていない。
当時も、アリアは喧嘩の勢いに任せて酷い言葉をたくさん言った。拳を出したし物も投げた。壁を蹴ったこともある。
だけど、嫌いとだけは言わなかった。言えなかった。かわいそうな母親を、これ以上惨めにしてはいけないというブレーキがどこかでかかっていた。
今度こそ、言うのだ。
アリアは固く決意して、まぶたをおもむろに開いた。
視界いっぱいに、のっぺりとした黒い影が飛び込んできた。
真っ黒なのに、真っ暗なのに、その闇が水面のように波たっているのがわかる。
そこにアリア自身の顔が映り込んでいた。
悲鳴が、その場の喧騒を切り裂いた。
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