第3話
あれから、毎日、四条の仕事が終わるのを何となしに待っていたが、なかなか遭遇できなかった。自分も講義を終えて直帰することもあるし、大学から帰る時も、四条が個人的に雇っている助手の友田が帰るのを見つけて、聞いてみても、四条だけ残業していると言われる。
「ねえ、毎回聞くと残業って言うけど――本当に?」
「そう、四条先生は他の先生方の仕事でもつらそうだったり、忙しそうだったりすると、すぐ肩代わりして――でも、それにしても最近は多いかも。寝不足でやつれたような感じもするし――」
「そうか、ありがとう――お疲れ様」
助手も帰ったとなると、四条はひとりきりだ――けれど、寝不足でやつれていると聞いて、なぜか自分のせいなんじゃないかという気がした。鴻巣は迷ったが――引き延ばしても仕方がない。ドアをノックして、「はい」という返事が聞こえるのを待ち、中へ入った。
デスクで書類を読んでいる四条が、顔をあげ、鴻巣を確認すると、表情が強張った。
「すみません、突然――助手の方も帰る所で――」
再び目を書類へ戻すと、小さな声で「何か?」とだけ――
黒岩先生、本当に?四条先生が私に惹かれてるって――本人と対峙するとそんな風には到底思えないんですが――と、鴻巣は弱気になる。大げさにため息をつき、咳払いすると、サイフから四条が置いてくれた一万円札を紙に包んだものを出す。
「あの、お返しします。この間の――」
怪訝そうに鴻巣の手を見て、思い至ると「律儀ですね、でも、出したものは引き取らない主義なんです。申し訳ないですが不要なら、何か別のことに使ってください」と言われた。
「いえ、困りますから――」
強引に、四条の手を取り――冷たく、華奢な指先――札を持たせた。四条の反応を引き出したくて、わざと強引な挙動をした。さすがに怒るだろうと思ったのだが――鴻巣を見た四条は、傷ついたような表情を浮かべ――
「わかりました――受け取ります。それでいいんでしょう?これで、この話は終わりです」
苦し気に言われ、鴻巣は――何と言ったらいいか、一瞬途方に暮れる。終わりって
――もう二度と会わないみたいな風に、言うんだな。
「今度は、四条先生が入院した方がいいです――」
呟くように言うと、四条は意味を測りかねているようだった。
「連日、残業続きだそうですね、もともとそうだったのが、最近は度をすぎて、やつれたようだと聞きました――」
鴻巣が続けると、四条の唇が震えた。泣き出す前のような呼吸の乱れ――けれど、出てきた声音は平板で、かえって鴻巣は――
「私が入院など、する必要はありません。皆に迷惑をかけないのであれば、これくらいどうということはないですから」
「でも、黒岩先生のことは――」
「彼女は別です。大切なご家族や、あなたのような元教え子にも慕われています。彼女に万が一のことがあれば、悲しむ人が大勢いる。でも、私にはいない。だから率先して――」
「何を、言ってるんですか。四条先生だって――」
「私には家族も、友人も、恋人もいない。いつ死んでもいい、そんな人間です。だから、あなたたちのような優秀な研究者に――生き延びてほしい。生きていてほしいんです」
苦し気な、真剣な眼差しに――本気でそう思っているんだと、鴻巣は胸がつぶれるような感覚を覚えた。
「なぜ、そんなことを――いつ死んでもいいなんて、どうでもいい命なんてないですよ」
「私については、そうなんです。だから、私は――せめて自分が代わりになって、雑事を引き受けられればと――」
そう、言いかけて、四条はまた口を閉ざす。書類に目を戻し「このことで議論するつもりはなかった――すみません」と、言った。
もう、話さないというジェスチャー。それはわかっていた。けれど、鴻巣はこのまま帰れるはずはなかった。
「じゃあ、私にくださいよ」
低い、小さな声だが、主を見ざるを得ない調子に、四条はつい鴻巣を見た。眉根を寄せ、激しい感情に苛まれた――その顔に、四条は――
「四条先生の命が、どうでもいいものなら、私にください。だから、勝手に死ぬなんてこと、許しませんから」
絶句した四条に、鴻巣はデスクに座った彼女の顔を手で抑え、口づけた。
その動作をする前に、何一つ考えていなかった。無意識に、当然のようにしてしまい、鴻巣の方がパニックになった。それでも、唇で唇を開かせ、舌を絡ませて――
四条は硬直していたが、何とか鴻巣の手首をつかみ、顔を横へ背けた。耳の縁と、首筋が――紅潮している。鴻巣はそこへ顔を近づけ、唇を埋めた。四条の体全体が強張り、動かなくちゃいけないと思いながら、動かせず、目を閉じる。
「鴻巣さ――」
荒い息の間に、名を呼ばれ、鴻巣は首筋から顔を上げると、もう一度、横に向いた四条の顔の方へ上半身を傾けて、深く口づけた。
二度目はもう――言い訳はできない。なら、どうなってもいい――と、鴻巣は四条の口中を堪能する。唇を離すと、また思考せず言葉が出る。
「チョコレート――」
鴻巣が何か続ける前に、四条の顔全体が、今度は完全に紅潮し――
「もう、いい――今日はもう、帰りなさい」
小さい声だったが、言う通りにしないとだめだと、鴻巣はさすがに察して「わかりました――でも――」と、謝るか迷い――結局、自分の感情を優先してしまう。
「また、改めます」
礼をして、部屋を出る。謝りたくなかった。むしろ、同じ気持ちだったと、鴻巣は確信していたから――
出口の方へ廊下を歩きだし――なぜ、チョコレートと言ったのか、自分の言動を思い返し、四条の唇が甘いチョコの味だったからだと――そういえば、黒岩や川島から、四条は甘党で、チョコレートに目がなく、会議中でも食べていたと聞いたことがあった。
そうか、それで――おそらく四条がチョコを口にした時に、自分が部屋に入ったのだろうと、それがわかるほど深く、舌をからませた――
そこまで思い出すと――鴻巣の体が急に汗ばむほど熱くなった。こんな風になったのは、高校生の時以来で――私、本当に四条先生を――息を吐くと白い、それほど寒い夜なのに、体は熱く、たぎっている。
恋愛は、何人と付き合おうと関係ない。いつでも初恋みたいなもので、以前の恋愛経験はほとんど役に立たない。前に付き合った人が、年上で、シャイな人だったとしても、四条ではないのだから――どうしたら、いいのか――
「さすがに、黒岩先生に言うのは気まずいな」
気まずいし、何だかあきれられる気もした。お礼をしようとバーに誘って、たぶん泣かせた――お金を返す口実で会いに行って、体調を心配した結果、キスして怒らせた――裏目すぎるし、自分の気持ちがちゃんと伝わっているのかも――わからない。それなのに、なぜか四条も自分を好きだと確信に近い自信を持っている。女の勘ってやつか、わからないけれど。
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