第15話 昨日の敵は今日の友!

 終礼のチャイムを聞き届けた後、わたしは時計の秒針をじっと目で追いかけていた。補講が始まるまであと十分。

 ざわめいている教室内で、やけに時を刻む音が大きく聞こえる。


「E組の子から花筏はないかださんあてに手紙だよ」


 外の世界からかけられた声で、やっと現実に帰ってくる。

 いっそのこと、水泳のことをすっかり忘れてしまえたらいいんだけど。


 クラスメイトが机に置いていった白の便せんを手に取ると、手始めに裏返してみた。名前はなし、封は赤いハートのシールが一つだ。


 これは……。


(ラブレター?)


 クラスメイトの視線がちらちらとこちらを向いている。わたしは周りの目を気にしながら、こっそりを封を開いた。

 もし、告白だったとしても断ろう。わたしは今、水泳で手一杯なんだし。


 しかしすぐに飛び込んできた名前に、手紙を握りつぶしそうになった。


「……」


──瀬戸内せとうち璃子りこ


 内容は終礼後に屋上に来てほしいという旨だ。誰から聞いたのか、わたしが補講受講者だということもバレていて、その上配慮の言葉が添えてある。


(握りつぶしちゃダメかな……)


 しかしわざわざ早く終わると言ってくれているのだ。補講までに話を済ませるべきだろう。

 何について話すのかは不明だが。


 わたしは重い腰を持ち上げると、いつも昼練習をしている階段へ向かった。

 なんだかんだ言って屋上は初めてだ。その付近までは練習で上っているが、空が見える扉の外まで出たことはない。


 錆びついた金属の音を立ててドアノブは回る。吹き付ける風を押し返すように力を込めて押し開けると、想像通り璃子がそこに立っていた。

 まったくドキドキしないし、うれしくない。これが美波だったらよかったのに。と考えたところで、喧嘩したばかりだったことを思い出した。


「来たよ」


 周囲に人がいないことを確認して、璃子に近づく。璃子は腕を後ろに組んで、堂々とそこに立っていた。


「いいことを聞いたの」


 璃子はにやり、と嫌な笑顔を浮かべて言う。


「真面目に水泳やる気ないなら、うちと代わって」


 予想だにしなかった打診にわたしは口を開いて唖然とした。


(代わる? 何を)


「……どういうこと?」

「うちは小学校まで競泳やってたし、美波の期待に応えられる。今の腐ったあんたとうちなら、美波はうちを選ぶだろーなって」


(それってつまり)


「宣戦布告?」


 ぐっと眉根に力が入る。


 美波を水泳から遠ざけようとしたくせに今度は仲間にしてって? それもわたしを押しのけて。

 むかつく。わたしが泣き虫で甘ったれた根性なしだと思われていることが。今更水泳を肯定しようなんて遅いんだから、素直に引っ込んでおけばいいのに。


「ふざけないでよ」

「うちはふざけてないけど」


 へらりと笑って告げられた言葉に堪忍袋の緒が切れた。ぷっつん、と頭の筋か何かが切れた音さえ聞こえた気がする。


 わたしは璃子の目の前までずんずん迫ると、その胸元に人差し指を突き付けた。


「そもそも美波はわたしだけのコーチだったはずだし、ほかの部員はついでなの、つ・い・で! 今になって頭下げて教えてくださいって言っても、指南が受けられるなんて甘いの! ってか、美波の水泳をずっと否定してきたくせに、すり寄っちゃって何なわけ⁉ ぜっっったい、水泳部には入れてやんないからっ!」


 璃子はわたしの剣幕に目を丸くしてたたらを踏んだ。わたしはきびすを返して、屋上を出ていく。勢い余って扉がすごい音で閉まったが、知ったことじゃない。


 階段の陰から部長と夏月の姿が見えたような気がしたが、わたしは英語の補講教室へまっすぐ向かった。


 何も言わずに教室の扉を開放すると、室内にいたすべての生徒が瞠目してわたしを見る。美波だけが、口だけを動かしてわたしの名前を呼んでいた。幸いにも授業前で、わたしはためらいなく教室内を進むと美波の机に両手を叩きつける。


「……ゆい?」

「わたしっ」


 美波がわたしの大声に身をらせた。


「わたし、ぜっっったい水泳辞めないから! 絶対全国大会に出るから!」


 胸の前で行き場をなくしていた美波の手を掴む。少し大きなその手ぎゅっと握りしめて、詰め寄った。美波が目を逸らそうとするので、顎を掴んで向き直させる。


「勝つためになんでもやってやるからぁっ!」

「……」

「……そ、それだけ」


 言い切ってしまえば、心のもやもやが去っていった。すっきりした。璃子にこの座を譲るわけにはいかないのだ。

 わたしが手を離しても、ぽかんとしている美波の手は動かずそこにある。


「……その言葉、信じるわよ?」


 美波の目がきらり、と輝いた気がした。わたしはそのまなこをしっかりと捉えて頷く。


「じゃあ、今日からプール断ちね」


 少し決心がぐらつきかけたが、その眼差しから目を逸らせない暗示を前に、わたしはもう一度首を振った。






 塩素の匂いを嗅ぎながら、わたしはスイミングスクールの建物の周囲をひたすら走る。たまに聞こえてくるホイッスルの音や、小学生の声に惑わされながらも汗を流す。あたりが暗くなってきたら、今度はスイミングスクール内にあるトレーニングルームを借りて部活の終了時間まで体を動かした。最近は日が落ちるのも遅くなってきて、それがわたしにいい効果を与えたらしい。


花筏はないかださん、全然疲れないね」


 それに気づかされたのは体育の授業の時だった。かもめさき高校の体育の授業では、準備運動であるラジオ体操の後に校庭を五周する。以前は三周ほどで顎が上がってしまっていたが、今はすべて走り終えても軽く息を整える必要がある程度だ。


「前から体力あるとは思ってたけど、最近は特にすごいね」


 クラスメイトは水筒の水をあおりながら、笑いをこぼしていた。


 こんこんこん、とガラスをノックする音がする。わたしは音がしたスイミングスクールの窓の方を振り向くと、ジャージ姿の美波が軽くジッパーを下げて水着を見せてきた。


 慌てて中に入ると、美波がプール室から出てくるところに出会う。


「どうしたの?」

「ゆい、水着持ってる?」

「持ってるよ」


 持ってるに決まってる。泳げない間もずっと持ち歩いていたのだ。


「ロッカーにある」


 美波は頷くと「取ってきて」と指示をする。言われた通り持ってくると、荷物ごと背中を押されて更衣室にぶち込まれた。

 着替えろ、ということだろうか。久々に水着を取り出して、前に掲げた。


(なんか、着ちゃいけない気がする)


 ずっと泳ぎたかったはずなのに、なぜか怖い。一週間越しにプールに入れるというのに。


「早く!」

「あ……うん!」


 更衣室の外から聞こえてくる美波の声に返事をすると、腹を括ってジャージを脱ぎ捨てる。


(ええい、ままよ!)


 勢いに任せて着替え終えるが、まだ心臓が早鐘を打っていた。水泳帽とゴーグルを引っ掴み、シャワーのボタンを押す。さっと軽く浴びると、ジャージを脱いでゴーグルを装着している美波の隣に立った。


「……ただいま」

「おかえり」


 呟いた言葉は思いのほか大きかったようで、恥ずかしくも美波に返されてしまう。

 小学生たちはすでに授業を終えていて、四人の貸し切り状態だ。部長と夏月は追い込みと言わんばかりに水を掻き分け練習を行っている。


「今日は測らないわ。だから自由に泳いで」


 美波はしっかりとストレッチを行うと、スタート台に立った。直に鼻を襲う塩素の匂いを吸い込む。わたしも同じように体の筋を伸ばしてゴーグルをつけて、スタート台に上った。


 かがむような姿勢の美波がこちらによそ見する。わたしは一瞬だけ目を合わせると、台の前方にかけている足の指に力を込めた。


 脳裏にホイッスルの音を呼び起こして、台を押し出すように蹴る。そしてするりと水面に指先を差し込んだ。しなるように、うで、頭、胴体、足と順に水の中へ沈んでいく。


(ちょっと体が重い?)


 しかし力の伝導率が違った。思った通りに身体が動く。ビジョン通りの道筋をたどってくれる。


 水が軽いのだ。

 呼吸も苦しくない。


(全然違う──!)


 わたしは美波のキャッチを思い出しながら、手を前に突き出した。

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