第5話 一日を終えて

「明日はトレーニングの正しいやり方を説明するから、ランニングを終えた状態で七時三十分に部室に集合してください」


 夕日のまぶしいスイミングスクールの建物の前で、美波は仕切った。

 濡れた髪をまとめているわたしたちはコーチの発言に頷く。


「じゃあ今日は解散」


 部長は久々にちゃんと泳いだのか、朗らかな笑みを浮かべて手を振ってくれる。彼女は高級住宅街もどきに消えていくので、いい家の育ちなのかもしれないと察した。


 対して夏月はその場にしゃがんで、学校指定の運動靴のひもを締め直している。 


「夏月の家はどっち?」


 夏月は黙って立ち上がると、夕日に背を向けた。


「じゃ」

「あ、うん。また明日!」


 短く挨拶をすると、夏月は駆け足で坂道を上っていく。


(もうちょっと会話らしい会話がしたいなぁ……)


 夏月のあっさりとした受け答えにもやもやしながら、その背中を見送る。


 がこん、と自動販売機の受け口に飲み物が落ちる音がした。音の方を振り返ると、美波が炭酸ジュースを片手に立っている。


「私たちも帰るわよ」

「はい」


 わたしたちは夕日に向かって、坂を下りはじめた。






(買えばよかったなぁ)


 わたしは美波の手に握られている、結露でびっしょりのペットボトルを横目で見つめる。いつもと違う疲労感にぐっと伸びをして、けれどやっぱり視線はその飲み物に向けてしまう。


 美波の手がすっと、わたしから逃げるように隠された。


「あ」

「だめよ。今日から糖分は控えて」


 そういうとさらにいじわるなのが、美波は小気味いい炭酸の抜ける音を立ててキャップをひねる。ペットボトルの口にかさついた唇が密着した。飲み物を嚥下する音が聞こえる。炭酸に反応しながら動く喉が恋しい。


 余計飲みたくなってきた。これは何かの拷問だと思う。

 あまりに見つめすぎていたのか、美波からじっとりとした視線を向けられた。


「そんなに飲みたいの?」

「う、運動終わりだしぃ~……」


 へらへらとへつらってみると、美波はサイダーのラベルをちらりと見る。明らかにカロリー表示を確認している。


「……一口だけね」

「え! いいんですか?」

「一口だけ」


 しかし念を押すように言うと、美波はキャップを開けたままペットボトルを押し付けてきた。


 炭酸は甘みを緩和する作用があるとかで、とんでもない量の甘味料が入っているのはわたしでも知っている。気の抜けた炭酸ジュースを飲んで甘すぎると思うたびに、これがよぎるのだが。


(おいしいのが悪い!)


 美波が口をつけて少しだけ減ったペットボトルを受け取ると、中の飲み物を一回だけ煽った。喉を鋭く刺激する炭酸に顔をくしゃくしゃにしながら、ペットボトルを返す。


「ごちそうさまです、コーチ」

「たかだがサイダーで『ごちそうさま』を使うんじゃないわよ。県大会突破したらおごってあげるから、そのときまで取っておきなさい」


 美波は少し呆れた口調でふたを閉めながら言った。

 そうか。


 わたしは隣を歩くコーチの横顔を見て思う。


(やっぱり本気なんだよね)


「……あの」


 どことない不安感が心の中にうずいている。保障が欲しいけれど、そんなものはない。


「勝算って、ありますか?」


 気づけば聞いていた。

 はっと我に返って、なんて情けない質問なんだろうとおのれを恥じる。でも美波は怒るでも、笑うでもなく「そうよね」と共感をこぼしたのだ。


「不安よね」

「……」

小鹿おが春川はるかわ部長も、私が思う以上に泳げていたわ。骨があるとは評していたけど、あれほどの力を抱えてのものだとは思わなかった」


 わたしは少しだけ横幅を詰めて歩いた。普通ならそれに合わせて横にずれるはずだが、美波は私の気持ちを察しているのか距離は縮まる。


「勝算はないわ」


 きっぱりと告げられた言葉にショックも何もなかった。でも少しホッとする。わたしの認識は美波と一緒で、それが安心感となっていた。


「今のままじゃあね。……ちゃんと頑張れば戦える」


 美波がふっとほおを緩めるように笑う。


「私は過剰に褒めたりはしないわよ」

「み、美波コーチ~!」


 力強い背中を押す言葉に思わず抱き着きそうになる。両手を広げると、美波はさっと身をひるがえした。


「あ、それやめて」


 しょぼんとして手を下ろすと、美波は後頭部を搔きながら「そうじゃなくて」と呟く。


「練習以外でコーチって呼ばないで」


 そう言うと、美波はあからさまに顔を逸らした。耳が赤いので照れていることは丸わかりだ。

 コーチでしょ、とは言っていたが彼女も呼ばれ慣れていなかったのだ。


「じゃあ、美波さん」


 ? と言う声が聞こえてきそうな湿度のある視線が向けられるが、まだ呼び捨ての域には達していないのでこれで我慢してもらいたい。


 気づけば行き先がたが三叉路さんさろにまでたどり着いていた。

 自然とわたしたちは歩みを止め、それぞれの家の方角へと足の先が向けられる。


「ゆいはあっちよね」


 このくだりではほとんど義務的な確認をされる。わたしは頷いた。大きな通りの横断歩道を渡って少し歩けば自宅だ。


「じゃあ──」


「ちょ……ちょっと待ってください」


 わたしはぎりぎりまで言おうか悩んでいたことを、勢いに任せて口に出した。


「いつも何時に起きてるんですか?」


 美波は歩き始めようと持ち上げていた足を戻して、わたしに向き直った。


「……。大体六時くらいね。そこからランニングして……一度家に帰ってお風呂入ってから登校」

「わ、わたしもランニング同行させてもらってもいいですか」


 同行って、という美波の心の声が漏れて聞こえる。けれど彼女は特に嫌がることもなく頷いた。


「ついてこれるならね」

「頑張ってついていきます」

「そう。じゃあ六時二十分に、この三叉路で待ち合わせ」


 よし、目覚ましは早めにセットだ。頭の中で忘れないように復唱しておく。


「じゃ、また明日」


 美波は片手に下げていた半分以上残っているペットボトルを軽く揺らして言った。わたしも夕日を背にしている美波に手を上げる。


「はい、また明日!」






 玄関扉を押し開けると、リビングから光とテレビの音声がれていた。


 時刻は六時を少し過ぎたころ。今日は早めの解散になったが、明日からはもっと遅くなるだろう。そのことを母親に話さなければ、とリビングに足を踏み入れるとだらけた姉がソファでリモコンを手にしていた。


 大学生とはもっと遅くに帰ってきて、自由奔放になるものじゃないのか。わたしはどこかで考えながら、濡れた髪を束ねているゴムをほどく。


「ただいま。お風呂沸いてたりする?」

「沸いてる」


 姉はつまらなさそうにぽちぽちとチャンネルを変え、結局夕方の情報番組に落ち着いた。かと思えばすぐに別のバラエティー番組が始まり、気だるそうにリモコンを構えている。


 きっとこういうのに慣れていないんだと思う。


 姉は去年までずっと水泳に打ち込んでいた。それこそ美波と同じくらい。成績は美波ほどよくなかったけれど、全国大会に毎年出場していたし小さな大会ではトロフィーを持ち帰ってきたこともあった。


 花筏はないかだまい、と言えば美波という天才に注目を奪われた可哀そうな凡人だというのは、この地域の共通認識である。


 姉はわたしから漂う懐かしい匂いを察知したのか、さっと振り向くと、わたしの髪が濡れているのを見て微かに唇を動かした。


 今の姉の唇はつやつやだ。夏のインターハイで水泳をやめ、それから反動のように美容に打ち込んだ。塩素で傷んだ毛先は切り落として、今はショートボブを大学生らしい茶色に染めて巻いている。


 でもそれも終わったのだ。おしゃれが日常になってしまってから、再び時間に空間が生まれた。


「水泳、始めたの」


 わかっていることだろうけど、わたしは姉にわざわざ報告した。


「ふうん。……泳げんの?」

「クロールはできるようになった」


 姉は少し驚いた顔をしたかと思うと、そっけなく返事をする。

 わたしは少しだけむっとしてしまった。


「汐田美波に教えてもらってるの。わたし、全国大会に行くから」


 わたしも泳げるのだと主張しているのに、姉はずっと右から左な反応だ。しかし口にしてしまってから、はっと口を押えた。


 全国大会なんて大口だ。十何年も続けてきた人に向かって素人が軽々しく口にする言葉じゃない。でも姉は少しだけ嬉しそうに口角を上げた。


汐田しおた美波みなみ?」

「そう、お姉ちゃんの嫌いな汐田美波」


(引き下がれない自分が恥ずかしい)


 無論、姉は美波が大嫌いだ。わたしがリビングで美波の動画を見ていると、自分の部屋に行ってと邪険に扱われる。


「じゃあ、ゆいならいけるでしょ」


 姉はソファーに深く腰掛けなおして、テレビに顔を向けた。

 そうだった、姉は昔からわたしに言っていた。姉はよくできるのに、泳げなかったわたしは馬鹿にされていた。その中で姉だけはコーチが悪いと責めていた。


「頭そのままじゃ風邪ひくよ」


 姉は立ち上がるとわたしの隣を通り過ぎていく。そしてキッチンにいる母親に話しかけた。


 ゆい、今からお風呂入るんだって。


 フライパンを揺らして何かを炒める音がする。声は聞こえなかったが、母親は頷いたのだろう。わたしは夕食に間に合うように、速足で脱衣所に向かった。

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