Catch! ─カナヅチだったわたしが憧れの人と全国水泳大会を目指す話。─
千田伊織
第1話 わたしが泳ぐんですか⁉
わたし、
息が切れる──なんて言ってられない!
廊下にたむろする帰宅寸前の生徒を押しのけて、長い廊下の先をただひたらに目指す。
「おい廊下は走るな、そこの緑リボン! 一年生!」
「す、すみません──!!」
けれどわたしにとっては一大事なのだ。中年教師のお叱りに口だけの謝罪をして、速度は緩めずとある教室へ向かう。そしてぴたりと扉の前で立ち止まった。
「あ、あのっ……
勢いよく引き戸を開け放ち、恥も
その中で唯一制服をきちんと着こなしている生徒が一人、わたしに近づいてきた。優等生然とした雰囲気をまとう艶やかなボブカットの彼女は、にっこりと微笑んで廊下の奥を指さす。
「美波なら、もう帰ったよ」
きちんと指の先を辿るとそこは昇降口。
「あっ、ありがとうございます! 失礼します!」
おかしな調子で頭を下げてしまったが、気にしている場合ではない。
わたしにはどうしても彼女に聞かなくてはいけないことがある。どうか校門を出ていないことを祈りながら、階段を駆け下りた。
そのとき、
わたしにはわかる。あれは明らかに塩素による髪の傷みだ。
「美波選手っ!」
わたしは叫んでいた。
彼女の長い髪の隙間から少しだけかさついた唇が覗く。感動のあまり、残り七段だけの階段を飛び降りてしまった。ふわりと持ち上がるスカートを慌てて抑えると、着地のビジョンが崩れいく。
(わ、わたしのバカ~~~!)
強い衝撃と共に、わたしは尻を打ちつけた。
踊り場がプールだったらよかったのにぃ。じんじんと痛む
しかし目を擦った次には視界が暗くなっていた。そして傷んだ髪が目の前に垂れ下がっていて──。
(塩素の匂いがしない……)
ゆっくりと首をもたげると、あこがれの水泳選手、汐田美波が眼前でわたしの顔を覗き込んでいた。
「……え、と」
わたしはその美貌に見つめられて、喉で言葉が引っかかっていた。
(話せるチャンスだっていうのに、なんでわたしはこういう時に言葉が出てこないの⁉)
「あんた」
乾燥した唇が小さく動く。わたしは少しだけ
「ばっかじゃないの?」
ぴきり、と彼女を覆っているフィルターにひびが入った。
「え……?」
引きつった頬で無意識に聞き返す。目の前の美人は今何と。
傷む髪も割れた唇も水泳の努力の結晶。『全国ジュニアオリンピックカップ水泳競技大会』、通称JOにて
この学校に入学したのも、彼女がここに入学するかもしれないといううわさを聞きつけてのものだった。
だから第一声が「ばっかじゃないの?」だとは思いもしなかったのだ。
しかし驚いていたはずのわたしの頬はなぜか熱を持ち、その女子にしては大きな手を気づけば握り締めていた。
「光栄ですっ、美波選手!」
しかもよく考えたらこの体勢は壁ドン。あこがれの人にされる壁ドンなんて……もう思い残すことはない。わたしは今にも鼻血を吹き出して、倒れてしまいそうだった。
もちろん、汐田美波はわたしの行動にドン引きしているみたいだが、そんな表情も特別に目にできていると思うと感動で頭がどうにかなりそうだった。いや、もうどうにかなっている。
「あんた、ほんとバカじゃないの? 私のことを『選手』なんて呼んで、どういうつもり? ……っ、放して」
美波は顔をしかめてわたしから手を振り払ってしまうと、握られた手を気にするようにさすり始めた。選手に怪我は禁物だ。わたしはさっと青ざめるが、彼女はすぐに手を払ってスカートのポケットの中に突っ込むと鞄を片手に立ち上がる。
「あ、待ってください!」
今度は怪我に繋がらないように、美波の鞄を掴んで引き留めた。
美波は眉間の
「わたし、美波選手に聞きたいことがあったんですっ」
彼女が振り払おうとしないので、質問を聞いてくれるのかと思ってわたしは続けた。
「水泳、やめたんですか?」
「……」
「去年の夏季大会、見に行きました。怪我をしていたのに優勝をもぎ取って、かっこよかったです。わたし、昔から美波選手の大ファンで、ずっと応援してて、憧れていて……だからこの高校で水泳部に入ったんです。泳げないからマネージャーだけど……でも、そばでサポートできたらって──」
鞄が腕を強く打ちつける。
わたしは思わず彼女の鞄から手を離していた。後ろによろめき、
少しショックながらも美波の顔を見上げると、彼女はわたしではなく──視線を辿るとわたしの腕に注目している。腕にはこの学校の水着が掛けられていた。
水着に興味を持っているなら、利用しないわけにはいかない。わたしは美波に水着を開いて見せる。
「これは、水泳の楽しさを思い出してもらうために、手っ取り早く泳いでもらおうと思って買ってきたんです」
「……買ってきたの? 借りてきたんじゃなくて」
初めて会話が成立したことに、わたしは頬を綻ばせながら頷いた。
「プレゼントですから」
どうぞ、と水着を差し出す。この高校に水泳の授業はなく、水泳部の人間しか水着を必要としない。なので競泳水着に近いデザインであり、曲線の黄色が映える黒のものだ。
(ぜったい似合うはず)
そう期待の眼差しを彼女に向けていると、思いの
「はぇ?」
わたしにあてがったのだ。
美波はにやりと片方の口角を持ち上げる。
「似合うじゃない」
「い……いやいや、これは美波選手のために買ってきたもので。それにわたしは泳げないんですってば!」
「いやよ、私はもう泳ぐつもりないの」
美波は奥に寂しさを宿らせた目できっぱり告げた。じっと彼女の目を見つめ上げる。
また泳いでくれたら水泳が恋しくなるかもしれないのに。
「……しょうがないわね。じゃあ、私のことを笑わせてくれたら考えてあげなくもないわ」
(つまり?)
わたしはごくりと唾を飲んで、美波を見上げる。彼女はにまにまと楽しそうだ。
意趣返しのつもりなのだろうか。つまりわたしは泳げないというのに泳がされて、彼女の前で恥を晒せと。
そんなの、そんなの……。
「ええ、やってやりますとも! 笑わせたら、水泳に戻ってくれるんですね!」
勇むわたしに美波は表情から笑みを消して片眉を上げた。諦めるだろうと思ったんだろうけど、わたしはそうはいきません。
「
誰よりも威勢だけは良い声が、夕方の校舎に響き渡った。
わたしはポケットから小さなカギを取り出すと、プールサイドへ続く扉にかかった南京錠を外した。プールの水も顧問に頼み込んで、今日一日特別に張ってもらったものだ。
「ほら、入って」
風の吹き込む屋外のプールサイドで、身を震わせながら頷く。
誰もいない教室で水着に着替え、ここまでなんとか誰にも見つからずに来ることができた。しかし季節はまだ春であり、それも入学式を終えて一か月も経っていない時期。
わたしはおそるおそるプールに近づくと、足先を水につけてみた。
「ひぃいっ!」
皮膚を駆けのぼるような冷たさに思わず飛び上がる。「危ないわよ」と美波に注意されるが、じゃああなたがこの水に触れてみてください、と文句がこぼれそうになった。なぜ温水プールじゃないのか。
わたしはしくしくと肩を落としながら、プールの淵に腰掛け膝から下を水に浸す。
無様なわたしを見て存分に笑うがいい。そして水泳に戻ってきてください!
有り余った意気込みで全身を水の中に沈めた。水泳帽からはみ出した髪がゆらりと肌を掠めていく。そしてしばらく口から泡を吐き出した後、何とか空中に顔を出した。空気が美味しい。
しかしこうやって上がるのですら、困難なのに。
プールサイドのベンチで優雅に足を組んでいる美女に、わたしは声を張り上げた。
「今から泳ぎますから! 見ててくださいね!」
「はいはい」
そしてふちに手をかけ、プールの壁に足をつける。バック──いわゆる背泳ぎのスタートの方法だ。今から泳ぐのは背泳ぎではないつもりだが、飛び込む勇気もわたしにはない。
でも。
(大丈夫。いつもこの目で、テレビで、ビデオで美波選手が泳ぐ姿を見て来たじゃない。カナヅチだったのは小学校の時の話。高校生になった今のわたしならでき──)
「ぶくぶくぶくぶく……」
「は? ちょっと、あんたっ」
わたしは何とか美波の腕を借りて引き上げられた。ふちに掴まったまま、あがった息を整える。
「ひと
「わたしも同感ですー……」
これはプールの水がしたたり落ちているのか、情けなさゆえの涙か。雫が
美波はそんなわたしを見て、なんだか可哀想だと思ったのだろうか。もう一度スタートの姿勢を取るように言ってきた。
わたしはぱっと表情を明るくすると、ウキウキしながら再び同じポーズを取る。
「こ、こうですか?」
「力み過ぎよ。足はもう少し上に。……はい、スタート」
美波が手を叩くのと同時に、わたしは壁を勢いよく蹴った。さっきよりも確実に進んでいる。というか、力が伝わっている気がする。
しかし。
「ぶくぶくぶくぶく……」
「……もう、あんたね」
ばしゃん、という飛び込みの音と共に、わたしが沈んでいる水の中が大きく揺れる。そして腰を掴まれると、空気のもとへ連れ戻してくれた。
「手の回し方がいけないんでしょうか……」
「身体に力を入れ過ぎなのよ」
そして美波はわたしに水面にうつ伏せで浮くように言ってきた。
はじめの調子はいいが徐々に水中へと沈んでいってしまう。しかし沈みきる前にお腹を指先でつつかれた。くすぐったさと恥ずかしさで頬に溜め込んでいた空気を吐き出しそうになるが、何とか
次第に安定していくにつれて、美波が何をしているのかに気づいた。
(そうか、ここに力を込めて……)
「手足は自分の胴体から切り離されていると思いなさい」
そう言われて力を抜くと、プールの波に従って手足が漂い始めた。胴体は全く沈むことなく、背中が空気に触れているのがわかる。
「手を上に」
促されるまま、クロールの基本姿勢へ。
自由形、いわゆるクロールの選手に、教えてもらえるなんて。頬が緩みっぱなしだが、手足を静かにそろえる。
「じゃあ、バタ足」
両手を優しく掴まれたまま、足を細かく上下に動かす。ビデオの中で美波選手は確かこんなふうに──。
そして誘導してくれている美波の手から右手を退けると、大きく円を描いて水中から顔を出した。
「ぷはっ」
今度は左。足は細かく。右息継ぎ、左、足も忘れず、右息継ぎ、左、足、右、左……。
とん、と左手の先が壁にぶつかった。疑問符を浮かべて姿勢を起こすと、美波は少し離れたところで腕を組んでいる。わたしのことを観察していたかのように。
わたしは進んできた道筋を振り返り、ここが25Mプールだということを思い出した。
いつの間にか、わたしはこんな長い距離を一人で泳げるようになっていたのだ。
「美波選手っ!」
ざぶざぶとプールの水をかき分けて彼女に近づく。
「わたし、わたしっ、人生で初めて──」
「──いいわね、面白くなりそう」
「へ?」
美波は片方の口角を上げて、しかし階段の時よりも自信に満ちた強い笑みを浮かべた。
両肩ががっしりと掴まれ、逃げ場を失ってしまう。
「私、あんたのコーチになったげる」
だから、水泳部に入部してあげるわ。
美波はわたしの目をじっと見つめて言ってきた。かさついた唇が、水に浸った長い茶髪が、わたしの視界を占めている。
わたしは思わず左胸を抑えた。心臓がやけにうるさく鳴り響いている。
憧れの人がすぐ近くにいるから? いいえ。
綺麗な顔が目の前に迫っているから? それもあるけどっ、今はいいえ。
もしかしてプールの水が冷たいから? 今思い出したよ! 寒い!
じゃあ……高校生活が水泳に染め上げられそうな高揚感?
わたしは波が静かに収まっていくプールの中で身震いをした。一身に受けるだろう水泳という世界に、恐ろしさと興奮が止まらない。
「……わたし、美波選手が水泳に戻ってくれるなら……」
「ええ、コーチとしてならね」
それでもいい。プールといる美波を見たいのだ。本当は
そのとき、わたしは美波のシャツから透けた大胸筋を見て叫びそうになった。そこから視線を下ろせば……美人に反して地味な下着が透けている。
(気づかなかったけど、この人制服だ⁉)
けれども美しい。制服の襟から覗くその艶やかな
「っくしゅ」
可愛らしいくしゃみに、わたしははっと我に返る。
美波の耳が赤くなっている。寒さを如実に感じている合図だ。風邪をひかせてはファン失格。これで今更「水泳はやっぱり」とか言われてはたまらない。
「は、早く着替えましょう! 美波選手、制服ですよっ!」
「あ」
そしてびしょ濡れの美波と水着姿のわたしは、空き教室へこそこそと戻ることになった。
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