第9話 今、川を渡ったのだ、と英二は思った
それから数日後の夕刻、裕美は、もう一度純子ママにきちんと挨拶をしておかなければ、とクラブ「純」を訪れた。
船形山の麓の自宅から地下鉄の駅へ向かう道すがら、思いは自然に高木英二のことに及んでいった。裕美の胸に英二と再開したあの雪の夜のことが鮮やかに蘇えって来た。
去年の今頃は・・・
英二のことでこんなに胸を痛めることになろうとは、夢にも思わなかった・・・
が、英二が今でも自分のことを深く思ってくれていることを知って、そして、不幸な人生だったと思っていた叔母がそれほど不幸せではなかったことを知って、裕美の胸には凛としたものが在った。
「ママ、済みません、勝手を言って、真実にすみません」
「良いのよ、そんなに気にしなくても。あなたが元の人生に戻る第一歩を踏み出そうとするんじゃないの、こんなに良い話は無いもの。私もとっても嬉しいのよ」
純子ママは裕美が水商売から足を洗って元の普通の生活に戻るのを心から喜んでくれた。
「それにしてもあなた、もう二度と此方の世界に戻って来ちゃ駄目よ。あなたには確とした天職が有るんだからね。しっかり頑張るのよ」
そう言いながら純子ママは裕美に袱紗に包んだ小物を差し出した。軽い物だった。
「お財布よ。ほんのお祝いの気持ち。春の財布は縁起が良いって言うでしょう」
「済みません、ママ。こんなにまでして頂いて・・・真実に有難うございます」
「お客様の一人一人に対して、心を込めて尽くすあなたのおもてなしは、他の皆にも少なからぬ影響を及ぼしたの。特に若い娘たちはあなたを見習ってお客に対する言葉や態度を変え始めているの。礼を言うのは私の方よ」
「そんなにまで仰って頂いて・・・有難うございます」
裕美は何度も頭を下げて、繰り返し礼を述べた。
「それじゃ、短い間でしたけれど、真実にお世話になりました。他の皆さんにも宜しくお伝え下さい。有難うございました。失礼致します」
そう言って裕美はクラブ「純」を後にした。
暮れなずむ夕空に細い薄い月が見え始めていた。振り仰いだ裕美の頬を柔らかい風がひと撫でして吹き過ぎた。
裕美は店の在る大通りからアーケードのメインストリートへ折れて、地下鉄の駅へと歩を進めた。街には黄昏の中を慌しく忙しく人が行き交っていた。裕美はその中をぶつから無いように縫うようにして歩いた。暫くして、人混みの激しいアーケードの本通りを避けて裕美は駅への近道へ曲ったが、一歩曲がった脇の通りは閑散としていた。裕美が歩いて行く道の前方に二人ばかりの小さな人影が動いているだけであった。建売りの戸建住宅や小さなマンションが立ち並ぶ街の何処かに豆腐屋が居るらしく、トーフ、トーフのラッパが微かに聞こえて来た。
裕美は近道を西に歩いてその先の大川に懸る橋に向かった。地下鉄駅への登降口は橋の袂に在る。
ここ暫くの間、勤める店への行き際に近道を通ることはあったが、何時も急ぎ足に行き過ぎるだけで、街の風情を心に留めることなど無かった。裕美は沈みゆく夕陽をまぶしく感じながら歩いた。
大川の川端通りを横切って橋の袂に出た所で、目の前をすいと掠め過ぎたものがあった。それはあっという間に紅い夕焼けの空へ駆け上がり、射差しを受けてきらりと腹を返すと、今度は矢のように水面に降りて来た。
あっ、つばめだわ・・・
裕美は立ち止まって、水面すれすれに川下の方へ姿を消すつばめを見送った。今年初めて見るつばめだった。今年どころか、もう何年もつばめなど見たことは無かったように思う。
一羽が飛び去った後に直ぐまたもう一羽が飛翔して来た。
あっ、番いのつばめかしら・・・縁起が良いわ・・・
裕美は眼を細めて去り行く燕を見送った。
玲奈の発案で日取りを秋日和が続く十月に決めてあった挙式が四ヵ月後に迫った或る日、英二の携帯がプルプルと鳴った。それは裕美からの長文のメールだった。
「実家を出て西山の麓にマンションを借りました。私にもやっと解りました。華やかな表面を装った水商売の世界でも、慌しい病院の看護師の世界でも、みんな一途に懸命に健気に生きていました。私は病院を辞めた時、逃げ出したんです。自分だけが不幸せだと思うなんて、一人だけ楽になろうなんて、駄目な考えでした、虫が良過ぎました。元の看護師の仕事に戻りました。前の病院の看護師長さんが、新しく出来た総合病院へ誘って下さったのです。私はあの師長さんに二度救われました。一度目は過労で倒れた時、身体を救われました。そして、今度は心を救われました。若かったあの頃の志をもう一度思い起こし、しっかりと地に足をつけて、自分らしく、地道に生き直してみたいと思っています。もう思い惑うことはありません。急行電車が停まる私鉄の駅から直ぐ西の、川畔の静かなマンションでの独り暮らしです。心も身体も元気になった裕美を是非、ご検分にお越し下さい。お待ちしています」
裕美が呼んでいる、遠くから呼んでいる、瞬時に英二はそう思った。
今なら、未だ渡れる、と裕美が言っている。
社長の椅子に眼が眩んだ打算的で危うい、自分自身に誇れないような不甲斐無い生き方をやめて、早く渡っていらっしゃい、今なら未だ間に合うわ、と裕美が招いている。
英二は、何年振りかで、雪の降り積もった実家への路で、裕美と出逢った時のことを思い出した。その時、互いに雪で滑って支え合い、屈託無く笑った裕美の声が甦った。そして、暗い雪道の向こうに消えて行ったあの裕美の不在が、今、鋭く英二の胸を締め付けた。
裕美は、渡れ、と言っている。
そうしよう、裕美と一緒になろう!このことはあの雪の日に再会した時から解っていたのかも知れなかった。そして、裕美もそのことを解っていたのだ、と英二は思った。
玲奈との婚約破棄、社長の罵声、会社からの馘首、昔の女を忘れられずに社長の娘に振られた馬鹿な男という烙印。そうした一つ一つに、上司や同僚や仲間からの囂々たる非難と憐れみと蔑みが降り注がれるだろう。憐憫と軽蔑の声を背に、独り静かに会社を去るしかないだろう。失われた六年はこれからのビジネスマン人生で、容易くは取り戻せないかも知れない。然し、今、英二はそのことを恐れていない自分を感じていた。
今、川を渡ったのだ、と英二は思った。
「英二さ~ん」
遠く彼方から裕美の呼ぶ声が聞こえたような気がして、英二は立ち止まった。驚くほど身近に裕美が居るのが感じられた。
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