第6話 英二、社長と玲奈に詰問される
然し、三月ほど前の或る週末、英二が玲奈とのデートを断わったことがあった。
「母親が急病で実家へ見舞いに帰らなきゃならん。悪い、今週は逢えない」
「そう、お母様の具合が悪いの、そりゃ帰って見舞って上げなきゃいけないわね」
最初、玲奈は、この人はなんて親思いの優しい人なのだろう、そう思って快く応諾した。
だが、その後も、英二は頻度を増して、実家へ帰って行った。
玲奈は次第に一人取り残された思いを胸に抱き始めた。
最近、玲奈の胸には、英二の思いを慮ろうとする度に、いつも黒々とした疑心が湧き上がって来る。英二が自分とキチンと向き合ってくれていないように思えてならない。結婚式や新婚旅行の話で相談を持ちかけても、何か上の空という感じがある。
「ねえ、あなた、そう思わない?」
「えっ?あっそう、そうだね」
まるで、心此処に在らず、という態である。
この人が本当に手に入れたいのは私ではなく社長の椅子なのではないか?あれだけ固辞していた私との結婚を応諾する気になったのは何故なのかしら?
玲奈は次第に疑心暗鬼の猜疑心に苛まれるようになっていった。
英二の方も、自分のこれからの生き方に吹っ切れないものを胸の中に燻ぼらせていた。それは裕美に再会してから急速に英二の胸の中に拡がったようだった。
手に汗し、智恵を振り絞り、地に足をつけて自力で切り開いた道を歩んで行くのではなく、棚から牡丹餅式に他人に用意されたレールの上を乗っかって行く安易な生き方の危うさを思っていた。男の矜持も意地も誇りも無い不甲斐無い生き方ではないのか?これが俺の夢だったのか?そんな思いは口にこそ出さずとも、玲奈にも凡そ判っているのではないか、英二は近頃そう思っている。
「ただの遊びなら未だしも、その相手は長年の卓球の後輩というじゃないか、一体どうする心算なのだ?」
これだけの会社の辣腕社長であっても矢張り普通の親なのか?娘可愛さに、社長の椅子に眼が眩んで邪心を抱いたこんな俺を婿にしようとしている、と英二は少し自嘲気味に思った。
「しかし、僕は・・・」
英二は顔を上げたが、言おうとしたこととは別の言葉が口を突いて出た。
「随分とよく調べられましたね」
「悪いけど、興信所を使って調べさせたの」
不意に玲奈が口を挟んだ。冷たく突き放すような容赦の無い物言いだった。
英二は無視した、が、索漠としたものが胸の中に拡がった。この味気ない気分は何処から来ているのか、英二には自分でも解っていた。社長の椅子に惹かれて安易で打算的な危うい生き方を選んだ自分への嘲笑が胸に響いた。
英二が社長の娘と婚約したという噂は、いつの間にか社内に広く知れ渡っていた。それまで親しかった同僚や先輩の眼が、妬みと嫉妬の冷たい視線に変わったし、仕事も碌に出来ないくせに女にかけては口八丁手八丁かと、軽蔑と蔑みの陰口が聞かれた。英二はこれまで意識して取り合わず無視して来たが、今こうして、社長と玲奈とに詰問されても、未だ眼の前にぶら下がっている筈の社長の椅子にしがみついて、何も言えずに黙って聞いている自分の不甲斐無さが酷く惨めであった。
「それで、どうしろと仰るのですか?」
英二は自分の惨めさに抗うように傲然と顔を上げて言った。
「その人と逢うのは直ぐに止めて頂戴!」
切り返すように玲奈が言った。
婚約が整った半年前には、どこか華やかで屈託が無く、それでいて冷静で理知的だった玲奈が、今は嫉妬と猜疑心でぎすぎすした感情を抑制すること無く、顔や態度や言葉に刺々しく現わしている。
これが俺の妻になる女か、俺はこの女と終生人生を共に生きるのか、英二は次第に耐え難い苛立ちを覚えて来ていた。が、その苛立ちを口に出してみてもただ自分が惨めになるだけだと解っていた。
英二は口元を歪めて冷たく笑った。やる瀬無さが笑いに姿を変えて出て来たようであったし、笑うしかない自分に対する自嘲が洩れたようでもあった。屈辱感だけが英二の胸に燻ぶった。
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