第7話 佳子
優子の最期に間に合わなかったあの時から、佳子との距離が広がった気がする。
仕事ばかりで家庭を顧みなかった自分が、彼女を遠ざけてしまったのだろう。
だが、今日の朝、手袋を届けてくれた少女の笑顔が、なぜか心に残っている。誰かに気にかけてほしい、誰かと繋がりたい。そんな気持ちが、長い間凍りついていた胸の奥で、かすかに動き始めた気がした。静かな朝に、誰にも知られないささやかな出来事が、今日を始める力をくれた。
仕事から帰って来た淳一は、佳子に電話をかけてみようと思い立ち、携帯を取りだした。ディスプレイに時刻が映る。まだ20時を少し過ぎたところだ。佳子は仕事から帰ってきているだろうか。余り遅くにかけるのも迷惑かもしれない。指がボタンに触れたまま、淳一は一瞬迷った。三回忌の話なら、聞いてくれるだろうか。それとも、また冷たくあしらわれるだけか。
『お父さんを待ってたのよ』と泣いた佳子の声が、今も耳に残る。あの言葉に何と返せばいいのか、未だに分からない。
それでも、電話をかける決心がついた。少なくとも、試してみよう。家族が交わる日がもう来ないとしても、ほんの少しでも近づきたい。そんな思いが、小さな手袋と共に、静かに芽生えていた。
深呼吸をして、淳一は意を決したように画面をタップした。電話が鳴り始めると、少し緊張が走った。数回の呼び出し音の後、佳子が電話に出た。
「はい」と、少し疲れているような声。
「佳子か…」
淳一は言葉を切り、少し間を置いた。
「突然電話したが、もう帰っている頃だと思ってな。ちょっと話したいことがあって」
佳子は静かに返事をした。
「どうしたの、お父さん?」
その声に、わずかな警戒が滲んでいるようだった。。
淳一はしばらく言葉を探したが、ゆっくりと話し始めた。
「あの…優子の三回忌がもうすぐだろう。準備のこと、少し話しておこうと思って」
佳子の声が少し固くなるのを感じた。
「ああ、そう…三回忌ね」
その短い言葉に、感情を抑えた響きがあった。
「うん」
淳一は小さく深呼吸をした。
「あの時、何もできなかったことが、ずっと気になっているんだ。今も、あの時のことを思い出すと、心が痛む」
喉の奥が詰まりそうになりながら、言葉を絞り出した。
佳子は黙り込み、電話越しに静けさが広がった。その沈黙が彼女の冷たさを思わせ、淳一は一瞬たじろいだ。
「三回忌のことを、ちゃんと話し合わないと、と思って。佳子の都合もあるだろうし、少しは時間を取って考えたいんだ」
少しの間、佳子が静かに考えているような気配が伝わってきた。息遣いが微かに聞こえ、彼女が何かを言いかけるのを待つ。その後、ようやく口を開いた。
「わかった。もうすぐだから、何かしら決めないとね」
その声には、わずかに柔らかさが戻っていた。
淳一は安堵の息をついた。
「ありがとう。できるだけ、お互いに気持ちよく過ごせるようにしたいから」
声が少し震えたが、それを隠すように小さく咳払いした。
「うん」
佳子の返事は短かったが、どこか穏やかさを取り戻しているようだった。
「それじゃ、日にち決まったら、また連絡してくれる?」
「もちろん。じゃあ、また連絡するよ。」
電話を切った後、淳一はしばらく携帯を握りしめたまま動かなかった。佳子との会話はまだぎこちなさが残るが、少なくとも、何か一歩を踏み出せた気がした。彼女の声に感じた微かな柔らかさが、小さな希望のように胸に響いた。優子の三回忌の話は重く感じられるが、これをきっかけに、少しずつでも家族としての繋がりを取り戻せるのではないか。そんな期待が、静かに芽生えていた。
手袋をテーブルに置いたまま、淳一は窓の外を見つめた。雪がまた降り始めていた。雪はすべてを包み込むように静かに降り続き、時折、風が吹いて雪が舞い上がる。その景色を見つめながら、淳一は心の中で少しだけ希望を持つことができた。窓ガラスに映る自分の顔が、ほんの少しだけ軽くなったように見えた。
佳子との電話を終えた後、淳一は携帯をテーブルに置いたまま、しばらく動かなかった。窓の外では、雪が静かに降り続き、家の前の歩道を白く染めている。電話越しの佳子の声が、まだ耳に残っている。『わかった。もうすぐだから、何かしら決めないとね』
その言葉にわずかな柔らかさを感じた瞬間、凍りついていた胸の奥が微かに解けた気がした。だが、同時に、彼女の冷たい視線や、優子の病室で泣いた『お父さんを待ってたのよ』という声が、頭の中で交錯する。淳一は目を閉じ、小さく息をついた。家族が交わる日を、もう一度取り戻したい。そんな思いが、手袋を届けてくれた少女の笑顔と共に、静かに芽生えていた。
リビングの静寂が、耳に染みる。携帯のディスプレイが暗くなり、テーブルの上に置かれた手袋が目に入った。濃いグレーのウールは、乾かずに、冷たい雪に濡れた感触を今でも残している。あの小さな出来事が、佳子に電話をかけるきっかけになった。誰かに気にかけてほしい、誰かと繋がりたい。そんな気持ちが、長い間閉ざされていた心の扉を、ほんの少しだけ開いた気がする。
淳一は立ち上がり、窓辺に近づいた。ガラスに映る自分の顔が、疲れと寂しさを映し出している。58歳。優子がいなくなってからの二年が、こんなにも重くのしかかるとは思わなかった。
その時、携帯が小さく震えた。ディスプレイを見ると、琢磨からの着信だ。淳一は一瞬驚き、すぐに受話器を耳に当てた。
「もしもし、父さん?」と、琢磨の落ち着いた声が聞こえる。
「ああ、琢磨か。どうした?」と返すと、
「姉さんと電話したって聞いてさ。俺からもちょっと話しておこうと思って」電話越しに軽く笑いながら言った。
その言葉に、淳一は小さく頷いた。
「そうか。さっき佳子と三回忌の話をしたばかりだよ」
琢磨の声に、微かな疲れが混じっている。
「仕事が忙しくてさ。最近は残業続きで、昨日も遅くまで現場だったよ。でも、母さんの三回忌だし、ちゃんと顔を出したい。姉さんも来るって言ってた?」
「ああ、来るよ。少しぎこちなかったけど、時間を作ってくれるみたいだ」と答えると、琢磨が小さく息をついた。
「良かった。姉さんとも最近は連絡も減ってたからさ。父さんから話してみて正解だったよ。俺もさ、母さんがいた頃みたいに、みんなで集まりたいって思ってたんだ」
その言葉に、優子の面影が重なる。
「お前がそう言ってくれるなら、かけて良かったよ」と返すと、琢磨が軽く笑った。「母さんのためにも、みんなで集まろう。俺、早めに着くようにするから。仕事終わりにそのまま行くよ」。
「気をつけて来いよ。今年は雪の日が多いから」と淳一が言うと、琢磨が
「うん、大丈夫。三回忌は三月だろ。日にち決めないと。父さんも無理しないでね」と返した。
電話を切った後、淳一はソファに腰を下ろした。琢磨の声が、優子の優しさを思い起こさせる。佳子とは違う、彼の穏やかな気遣いが、家族を繋ぐ細い糸のように感じられた。だが、その糸はあまりにも脆く、いつ切れてもおかしくない。淳一は手を膝に置き、目を閉じた。琢磨と佳子。二人が小さな頃、優子が台所で夕飯を作り、佳子が『お母さん、大根もっと入れて!』と笑い、琢磨が小さな手で箸を握っていた。あの頃、家族は一つだった。だが、優子の病が分かってからは、仕事に逃げるように家を空け、彼女の最期に間に合わなかった。あの日の後悔が、佳子の冷たい視線と、琢磨の遠慮がちな声を生んだのだ。
ふと、仏壇の前に置かれた優子の遺影が目に入った。淳一は立ち上がり、そっと近づいた。遺影の優子は、変わらぬ笑顔でこちらを見つめている。写真の横には、彼女が使っていた緑のショールが畳まれて置かれている。佳子が母の形見として大切にしていたものだ。淳一はショールを手に取り、その柔らかな感触を指で確かめた。優子が『これ、佳子に似合うわね』と笑いながら編んでいた姿が、目の前に浮かぶ。あの冬の日、佳子が『お母さんと一緒に編みたい!』と毛糸を手に持ってきたのを思い出す。だが、優子の病が悪化し、ショールは彼女一人で編み上げられた。淳一はその時も仕事で不在だった。佳子がそのショールを手に取ることもなく、冷たく背を向けたのは、自分のせいだ。
部屋の隅に置かれたアルバムを手に取った。埃を払い、ページを開くと、家族の写真が目に飛び込む。沖縄旅行の時のものだ。佳子が『雲の上って、本当にあるんだね!』と目を輝かせ、琢磨が優子の膝で眠っている。優子が『ちょっと欠けたシーサーが味になるわ』と笑ったあの夏。淳一は写真を指でなぞり、喉の奥が熱くなった。
次のページには、家族で雪だるまを作った冬の写真。佳子が『父さん、手伝ってよ!』と呼び、琢磨が小さな手袋をはめた手で雪を丸めていた。優子が『冷たいから気をつけてね』と笑った声が、今でも耳に残る。小学校の運動会、クリスマスや正月。だが、子供が大きくなるにつれ、家族の写真も撮る機会が少なくなった。優子の病が分かってからは、写真を撮る余裕すらなかった。彼女が胃がんと診断され、みるみるうちに弱っていく姿を、ただ見ているしかなかった。佳子が『お父さんを待ってたのに』と泣き、淳一が何も言えずに立ち尽くしたあの瞬間が、今でも胸を抉る。
アルバムを閉じ、淳一は仏壇の前に座った。線香に火をつけ、煙が細く立ち上るのを見つめる。
『優子、もうすぐ三回忌だよ。佳子も琢磨も来てくれる。少しぎこちないけど、こうやって集まれる』
心の中で呟くと、遺影の優子が『頑張ってるわね』と微笑んでいる気がした。だが、その笑顔に答えられない自分がいる。あの時、もっと傍にいれば。仕事ではなく、家族を選んでいれば。後悔が、線香の煙と共に部屋に広がった。優子が最後に言った『あなたが元気でいてくれれば』が、胸に重く響く。あの言葉を守るためにも、三回忌を家族で迎えたい。
窓の外を見ると、雪が勢いを増していた。風が吹き、雪が舞い上がる様子が、まるで家族の距離を映しているようだ。佳子との電話で感じた微かな希望が、琢磨の気遣いで少し強くなった。だが、それでも、家族が一つだった頃には戻れない。淳一は湯呑を手に取り、冷めたお茶を一口飲んだ。渋い味が口に広がり、孤独感を一層深めた。優子がいた頃は、こんな夜でも温かい味噌汁がテーブルに並び、家族の笑い声が響いていた。今はただ、静寂と後悔だけが残る。
ふと、テーブルの上の手袋に目が留まった。あの少女の笑顔が、なぜか心に浮かぶ。知らない誰かが気にかけてくれた小さな出来事が、凍りついた日常に微かな風を吹き込んだ。佳子に電話をかけ、琢磨と話した今夜。その一歩が、三回忌で家族を繋ぐきっかけになるかもしれない。淳一は湯呑を置き、仏壇に向かって小さく呟いた。
「もう少し頑張ってみるよ、優子。佳子と琢磨のために」
その言葉が、静かな部屋に溶けていく。
時計の針が午後十一時を回った。淳一は立ち上がり、電気を消した。暗闇の中で、仏壇の線香の火が小さく揺れている。窓の外では、雪が降り続き、すべてを白く包み込んでいた。明日への小さな一歩が、静かに近づいている気がした。
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