第10話 嫌いでいい
「……先生、この菅田将暉似の男が、円香ちゃんの元担当編集、水野さんよ」
「えっ、この方が……?」
休診日の青樹医院には、円香と青樹先生と都、そして都にずぶ濡れにされた水野がいた。
水野は青樹先生から借りた灰色のスウェットの上下を着ている。先程は気が付かなかったが、顔は真っ赤だ。一通り泣いて落ち着いたのか、今は静かにしている。
ピピッと電子音が鳴る。
水野は脇に差した細長いものを抜き取った。
「体温はどうですか?」
「……38度2分あります」
「ああ、やはり熱がありますね。念のため、インフルエンザの検査をしましょうか。……幸島さん、席を外してもらえますか?」
「は、はい!」
円香は慌てて診察室を出る。
(なんでこんなことに……)
半年間かけてやっていた改稿作業が、出版見送りによって無に帰した。円香は誰かに話を聞いてもらいたいと思い、都に連絡を取った。
まさか、それがこんなことになるとは。
「水野さんは僕が車で送っていきます」
「すみません……」
マスクをした水野の目はとろんとしている。都が水をかけてすぐにこうなるとは思えない。もともと、体調が悪かったのだろうか。
検査結果はインフルエンザではなかったらしい。
「日曜日なのに……体調悪いのにどうして出歩いてたの?」
「仕事です……」
「休めない事情があるのかもしれないけど、無理は駄目よ? ……あと、水かけてごめんなさいね」
都は深く頭を下げる。水野は首を横に振った。
「いえ……」
「さぁ、水野さん行きましょうか。途中で近くの大型薬局に寄りましょう。薬を受け取らないと」
青樹医院に、円香と都が残される。急展開に円香が立ち尽くしていると、隣からくぅと何かが鳴る音がした。
見ると、都がお腹をさすっている。
「……お腹空いたわね。冷凍庫にドーナツがあるから、食べる?」
「食べます!」
二人で食堂に行き、円香はヤカンに水を入れるとコンロにかけた。都は冷凍庫の中段からラップ包みにしたドーナツを取り出すと、電子レンジの中にいれる。
「……はぁ、体調崩してる男の子にグラスの水かけちゃった。駄目ね、おばさんは怒りっぽくて」
都は天を仰ぐと、ため息をつく。
「……都さん、ありがとうございます。最低ですけど、なんかスカッとしました。水野さんって、すごく仕事ができる人で、正しいことしか言わないんですよ。でも、私は水野さんがずっと苦手で、嫌いでした……」
自分の気持ちを吐き出すと、びっくりするほど胸が軽くなった。水野は優秀な編集者で、間違ったことは言わない。そんな彼を嫌う自分はきっと小説家になれないだろうと考えていた。
「あの子……マイケルプリンスくんだっけ? 第一印象から私も嫌だなって思ったわよ。可愛くてイケメンだけど、こっちを見る目がなーんか人を馬鹿にした感じだったわ。あんなの、嫌いでいいの!」
嫌いでいいとはっきり言い切る都に、円香は目に涙を浮かべる。泣きたい気分ではないのに、頬に熱いものが滴り落ちる。急いで、手の甲で拭った。
「ありがとう、都さん……! 水野さんのこと、嫌いでいいって言ってもらえて、すごく気持ちが楽になりました」
「もー、円香ちゃんは真面目なんだから。さっ、ドーナツ食べよ!」
「はい……っ!」
この後二人で食べたドーナツは、甘くてしょっぱかった。
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