第7話『娘たちの時』
四月中旬の土曜日、久保鳳来のアトリエは普段とは違う賑わいを見せていた。桜子の主催する若手女性画家のワークショップが開かれていたのだ。鳳来は窓際の椅子に座り、六人の若い女性たちが熱心に制作する様子を見守っていた。
「先生、皆さんに少しアドバイスをいただけませんか?」
桜子が鳳来に声をかけた。
「ええ、もちろん」
鳳来はゆっくりと立ち上がり、一人一人の作品を見て回った。それぞれが異なるスタイルと主題で描いており、若い世代の多様性に鳳来は感心していた。
「沙織さん、あなたの作品はとても力強いわ。でも、もう少し余白を意識するといいかもしれないわね」
田中沙織は、前回の食事会でも会った若手彫刻家だった。今日は平面作品に挑戦している。
「ありがとうございます。余白ですね……」
沙織は真剣にうなずいた。
次に、鳳来は若い女性の作品の前で立ち止まった。二十代前半の長谷川椿という女性で、繊細なタッチの風景画を描いていた。
「椿さん、あなたの感性は素晴らしいわ。特に光の捉え方が独特ね」
「本当ですか? ありがとうございます!」
椿の目が輝いた。彼女は美術大学の学生で、桜子の紹介で今回のワークショップに参加していた。
鳳来は一人一人に丁寧なアドバイスを与えながら、自分自身の若い頃を思い出していた。彼女も同じように、先輩画家たちの言葉に勇気づけられ、時に厳しい批評に涙したこともあった。
「皆さん、素晴らしい才能をお持ちですね。これからが楽しみです」
鳳来がワークショップの参加者全員に向けて言うと、若い女性たちは一斉に頭を下げた。
「先生のお話を聞けて、本当に光栄です」
沙織が代表して言った。
ワークショップは昼食を挟んで、夕方まで続いた。若い女性たちの情熱と創造力に触れ、鳳来自身も刺激を受けていた。
夕方になり、参加者たちが帰った後、鳳来と桜子はアトリエを片付けながら話をした。
「若い人たちは素晴らしいわね。特に椿さんは才能があるわ」
鳳来は率直に評価した。
「はい、彼女はこれからきっと大きく成長すると思います」
桜子も同意した。
「今日は楽しかったわ。若い世代と交流する機会はあまりないから」
鳳来は窓際に座り、夕暮れの空を見上げた。
「先生、彼女たちにとっても、今日は特別な日になったと思います。女性画家の先駆者である先生に直接指導していただけるなんて」
桜子の言葉に、鳳来は少し照れたように微笑んだ。
「私なんかよりも、もっと偉大な先駆者はたくさんいるわ。村上先生をはじめとして」
「でも、先生も紛れもない先駆者です。特に女性の視点からの抽象表現において」
鳳来は黙ってうなずいた。彼女は自分の功績を誇るタイプではなかったが、女性画家の地位向上に貢献できたことは、密かな誇りだった。
「桜子さん、あなたはこの先、どうしたいの?」
突然の質問に、桜子は少し戸惑った様子を見せた。
「どうしたいというと……」
「あなたの将来よ。いつまでも私の助手をしているつもりなの?」
鳳来の声には優しさと厳しさが混じっていた。
「私は……」
桜子は言葉を探した。
「先生のそばにいることが、私の喜びです」
「それはわかっているわ。でも、あなたにはあなた自身の道があるはず。才能もあるのに」
桜子は黙って俯いた。
「彼女たちを見ていて思ったの。あなたも彼女たちのように、自分の道を進むべきだって」
鳳来は窓から差し込む夕日の光を見つめた。
「先生……」
「いつまでも私に頼っていては、本当の意味での成長はないわ。村上先生も私にそう言ったの。"いつかは自分の翼で飛ばなければならない"って」
桜子は静かにうなずいた。
「わかりました。でも、先生の個展が終わるまでは、そばにいさせてください」
「ええ、もちろん」
鳳来は微笑んだ。
夕日が沈み、アトリエは徐々に薄暗くなっていった。桜子は明かりをつけ、二人は夕食の準備を始めた。
「今日は私が作りますね」
桜子が言うと、鳳来はうなずいた。
「ありがとう。少し疲れたわ」
鳳来は居間のソファに座り、目を閉じた。若い世代との交流は楽しかったが、体力を消耗した。八十四歳の体は、以前のようには回復しない。
しばらくして、桜子が夕食を運んできた。シンプルだが栄養バランスの取れた料理だった。
「いただきます」
二人は静かに食事を始めた。
「桜子さん、あなたは教えるのが上手ね。今日のワークショップも素晴らしかったわ」
「ありがとうございます。でも、先生ほどではありません」
「いいえ、あなたには特別な才能があるわ。人の可能性を引き出す力よ」
鳳来の言葉に、桜子は照れたように微笑んだ。
「いつか、あなた自身の教室を開くといいわ」
「教室ですか?」
「ええ。特に若い女性画家たちのための。まだまだ女性が芸術の道で生きていくのは難しいでしょう? 私たちの時代より良くなったとはいえ」
桜子は真剣に考え込む様子を見せた。
「それはいい考えかもしれません……」
「村上先生が私たちにしてくれたように、あなたが次の世代を育てるのよ。それがアートの連鎖よ」
鳳来の目には、遠い未来を見るような輝きがあった。
食事の後、二人はアトリエに戻り、今日のワークショップの成果を見直した。若い女性たちの作品には、それぞれの個性と可能性が表れていた。
「彼女たちは"娘たち"のようね」
鳳来は柔らかく言った。
「娘たち?」
「ええ。私の芸術の娘たち。あなたもそうよ。私の芸術の大切な娘」
鳳来の言葉に、桜子は感動して目を潤ませた。
「先生……」
「芸術とは、生命を生み出すことに似ているわ。作品は私たちの分身であり、影響を受けた人々は精神的な子どもたちよ」
鳳来は若い女性たちの作品を一つ一つ丁寧に壁に飾った。明日、彼女たちが戻ってきた時に見られるように。
「明日も楽しみね」
鳳来は満足そうに言った。
「はい。皆さん、今日のアドバイスを活かして、さらに良い作品を描いてくると思います」
夜が更けていき、桜子は帰る支度を始めた。
「先生、今日はゆっくり休んでくださいね」
「ええ、ありがとう。明日また会いましょう」
桜子が去った後、鳳来は一人アトリエに残り、若い女性たちの作品をもう一度見つめた。そこには未来があった。彼女自身には残された時間が少ないことを知っていたが、これらの若い魂たちが芸術の灯を絶やさずに続けていくことを信じていた。
「私の時代は終わりに近づいているけれど、彼女たちの時代はこれから……」
鳳来は小さく呟いた。そして静かに明かりを消し、自分の寝室へと向かった。
その夜、彼女は長い夢を見た。村上先生や、かつての仲間たち、そして若い女性画家たちが、大きなキャンバスの前に集まっている夢。皆で一つの絵を描き、それが美しい光の渦となっていく。その中心には、小さな種が埋まっていた。新しい命の象徴。
翌朝、鳳来は早くに目覚めた。夢の余韻が残っていた。身体の疲れは感じたものの、心は不思議と軽かった。
彼女はアトリエに向かい、昨日の若い女性たちの作品を再度見た。朝の光の中で、それらの作品は昨日とは違って見えた。より生き生きと、より可能性に満ちているように。
鳳来は自分のスケッチブックを取り出し、夢で見た光の渦を描き始めた。中心の種から放射状に広がる光。それは彼女の「生と死の狭間」とは異なる、より希望に満ちた表現だった。
「これが私の新しいテーマかもしれないわ」
鳳来は呟いた。「生命の連鎖」。芸術を通して繋がる魂の物語。
桜子が到着する前に、鳳来はそのスケッチをほぼ完成させていた。朝の光の中で、彼女の創造力は冴えわたっていた。
一日が始まり、再び若い女性たちがアトリエに集まってきた。彼女たちの目には、昨日よりも強い決意が宿っていた。鳳来のアドバイスを胸に、一晩かけて自分の作品について考えてきたのだろう。
鳳来は椿に近づいた。
「椿さん、昨日考えていたことをスケッチに描いてみたわ。あなたにも見てほしいの」
鳳来は自分のスケッチブックを開き、「生命の連鎖」のデッサンを見せた。
「すごい……」
椿の目が輝いた。
「これは私の次のテーマよ。若い世代へのバトンの受け渡し。あなたたちへの期待を込めているの」
椿はじっとそのスケッチを見つめ、深くうなずいた。
「私も、先生のように、次の世代に何かを残せる画家になりたいです」
「あなたならきっとなれるわ。才能はあるもの。大切なのは諦めないこと」
鳳来は椿の肩に手を置いた。その温かな接触は、言葉以上の励ましとなった。
ワークショップは二日目も熱気に包まれた。若い女性たちは鳳来と桜子のアドバイスを受けながら、自分の表現を磨いていった。時折、彼女たちの間で笑い声が聞こえたり、真剣な議論が交わされたりした。
夕方になり、ワークショップが終わる頃、鳳来は全員を集めて最後の言葉を贈った。
「皆さん、この二日間、私も多くを学びました。若い皆さんのエネルギーと情熱は、私に新しいインスピレーションを与えてくれました」
鳳来は一人一人の顔を見回した。
「芸術家として生きるのは簡単ではありません。特に女性としては。でも、皆さんには才能があり、そして何より熱意がある。それさえあれば、必ず道は開けます」
若い女性たちは静かにうなずいた。
「私たちの世代から皆さんへ。バトンを受け取ってください。そして、いつか皆さんから次の世代へ。それが芸術の美しさです」
鳳来の言葉に、若い女性たちは感動して拍手を送った。
別れの時、彼女たちは一人一人、鳳来に深く感謝の言葉を述べた。特に椿は、最後まで鳳来のそばにいて、様々な質問をしていた。
「先生、またお会いできますか?」
椿が尋ねると、鳳来は微笑んだ。
「ええ、来月の個展にも来てくれるかしら?」
「もちろんです! 絶対に行きます」
椿の目は輝いていた。
若い女性たちが全員帰った後、アトリエには再び静けさが戻った。鳳来は疲れを感じながらも、満たされた気持ちだった。
「素晴らしいワークショップでしたね」
桜子が言った。
「ええ、本当に。あの子たちには未来がある」
鳳来は窓際に座り、夕暮れの空を見上げた。
「特に椿さんね。彼女には特別な何かがあるわ」
「はい、私もそう思います」
桜子はしばらく考えた後、決意を込めた声で言った。
「先生、私、教室を開こうと思います。先生がおっしゃったように」
鳳来は嬉しそうにうなずいた。
「それは素晴らしいわ。あなたなら、きっといい先生になれるわ」
「先生のような先生にはなれませんが、精一杯頑張ります」
鳳来は桜子の手を取った。
「あなたはあなたの道を行けばいいの。私の真似をする必要はないわ」
桜子はうなずき、鳳来の手をしっかりと握り返した。
その握手には、芸術のバトンの受け渡しという意味が込められていた。鳳来はそれを感じ、安堵の笑みを浮かべた。
「さて、明日からは個展の準備に集中しましょう。もう時間がないわ」
「はい、頑張りましょう」
二人は明日からの計画を話し合った。作品の選定、配置、照明の調整など、細かな点まで議論した。
夜が更けていき、桜子は帰る支度を始めた。
「先生、今日はお疲れ様でした。ゆっくり休んでくださいね」
「ええ、ありがとう。あなたも休みなさい」
桜子が去った後、鳳来は再び「生命の連鎖」のスケッチを見つめた。そこには彼女の新たな希望が表現されていた。
鳳来は椅子に座り、目を閉じた。今日の若い女性たちとの交流を思い出しながら、彼女は自分の芸術の旅を振り返った。長い道のりだったが、それは決して孤独な旅ではなかった。先輩たちに導かれ、仲間たちと支え合い、そして今、若い世代に何かを残せる立場になっている。
「芸術は終わらない」
鳳来は小さく呟いた。自分の命には限りがあっても、芸術は永遠に続いていく。彼女の魂の一部は、作品を通じて、そして影響を受けた人々を通じて、生き続けるだろう。
その思いは、彼女に平安をもたらした。アトリエの窓から見える星空を見上げながら、鳳来は静かに微笑んだ。
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