第5話『青の季節』
三月に入り、久保鳳来のアトリエの窓からは、少しずつ春の気配が感じられるようになっていた。庭の梅の木には、小さな白い花が咲き始めていた。
鳳来は窓際に立ち、その光景を眺めていた。春は彼女の最も好きな季節だった。すべてが生まれ変わる季節。新しい命が芽吹く季節。
しかし今年の春は、彼女にとって特別な意味を持っていた。来月の個展が、おそらく彼女の最後の大規模な展示になるだろうと感じていたからだ。体力の衰えは否めず、大きなキャンバスに向かうことが、以前よりも困難になっていた。
鳳来はため息をつき、制作中の作品に目を向けた。「生と死の狭間」は、少しずつ形になってきていた。中央の白い光を中心に、様々な色彩が渦を巻いていた。
扉が開き、桜子が入ってきた。
「おはようございます、先生」
「ああ、桜子さん。おはよう」
鳳来は微笑みながら振り返った。
「今日は座っていただいてもいいですか? 肖像画の続きを」
「ええ、もちろん」
鳳来は昨日までの疲れを感じていたが、それを表に出さないようにした。桜子の肖像画は、彼女にとって重要なプロジェクトだった。
桜子は椅子に座り、前回と同じポーズをとった。鳳来はイーゼルを準備し、油彩を始めた。鉛筆のスケッチを元に、色彩を加えていく。最初に基本的な肌の色を塗り、徐々に陰影をつけていった。
「青い服が似合うわね、桜子さん」
鳳来は筆を動かしながら言った。桜子は淡い青のブラウスを着ていた。
「ありがとうございます。先生もいつも青がお似合いです」
「そうかしら? 私はいつも黒か灰色ばかり着ているわ」
「でも、先生の絵には美しい青がたくさんありますよね」
鳳来はうなずいた。
「ええ、青は特別な色よ。確かに私の絵の中で最も多く使う色かもしれないわ」
しばらく二人は静かに過ごした。鳳来は集中して描き、桜子はじっとポーズを保っていた。午前の光が部屋を満たし、時間がゆっくりと流れていった。
「少し休憩しましょう」
一時間ほど経ったところで、鳳来は筆を置いた。桜子は伸びをして、肩の凝りをほぐした。
「青について話していたわね」
鳳来は窓際に歩み寄りながら言った。
「私の人生には、"青の季節"があったの」
「青の季節?」
「ええ、三十代後半から四十代前半にかけてね。ほとんどすべての作品に青を使っていた時期があったの」
鳳来は遠い目をした。
「なぜですか?」
「あの頃、私は深い喪失感の中にいたの。父が亡くなり、そのすぐ後に親友も失った。世界が青く染まって見えたわ」
桜子は黙ってうなずいた。
「でも不思議なことに、その"青の季節"に描いた作品が、私のキャリアの転機になったの。批評家たちは私の青の使い方を絶賛してくれた」
鳳来は少し皮肉な笑みを浮かべた。
「皮肉なものね。最も苦しかった時期に、最も評価される作品が生まれるなんて」
「芸術とはそういうものかもしれませんね」
桜子の言葉に、鳳来は深くうなずいた。
「そうね。苦しみや喜び、すべての感情が作品に昇華されるの。だからこそ、芸術家は自分の人生を誠実に生きなければならないわ」
休憩の後、二人は再び肖像画の制作を続けた。鳳来は桜子の目の色に特に注意を払っていた。茶色の瞳に、微妙な光の反射を描き込んでいく。
「桜子さん、あなたはどんな色が好きなの?」
「私ですか? そうですね……緑が好きです」
「緑? 意外ね。あなたの作品には緑があまり使われていないわ」
桜子は少し照れたように微笑んだ。
「描くのと好きなのは違うかもしれません。緑は安らぎを感じるけど、表現したいのは別の感情かも」
「なるほど。それも芸術家の矛盾ね」
鳳来は桜子の髪の陰影を描きながら、自分自身の創作について考えていた。人はなぜ絵を描くのか。何を表現しようとするのか。
「先生、個展の準備はいかがですか?」
桜子の質問に、鳳来はため息をついた。
「まだまだよ。もっと描かなければならないわ。でも時間が足りない」
「無理しないでくださいね」
「無理なんてしていないわ。これが私の仕事なんだから」
鳳来の声には、少し強さが混じっていた。彼女は決して弱音を吐きたくなかった。特に桜子の前では。
午後になり、光の角度が変わってきた。鳳来は今日のセッションを終えることにした。
「今日はここまでにしましょう。また明日続けるわ」
桜子は立ち上がり、鳳来の描いた肖像画を見た。まだ完成には遠かったが、確かに桜子の面影が浮かび上がっていた。特に目の表情が生き生きとしていた。
「素敵です……」
桜子の声には感動が滲んでいた。
「まだまだよ。肖像画は難しいの。特に親しい人のね」
鳳来はキャンバスにかけていた布を戻した。肖像画は完成するまで、本人以外には見せたくなかった。
桜子が別室に移動した後、鳳来は再び窓際に立った。庭の梅の花が風に揺れていた。白い花びらが一枚、風に乗って舞い落ちる。
鳳来は思わず、その光景をスケッチブックに描き留めた。簡単な線だけのスケッチだったが、花びらの儚さが捉えられていた。
その日の夕方、鳳来は珍しく外出することにした。近くの小さな画材店に行きたかったのだ。桜子に車を出してもらうことも考えたが、一人で歩きたい気分だった。
帽子をかぶり、薄手のコートを羽織って、鳳来は家を出た。三月の空気はまだ冷たかったが、確かに春の気配が混じっていた。
ゆっくりと歩きながら、鳳来は周囲の風景を観察した。街路樹の枝先には、小さな芽が膨らみ始めていた。商店の軒先には、春の装飾が飾られ始めていた。
画材店に到着すると、店主の山田さんが笑顔で迎えてくれた。七十代の山田さんは、鳳来の古くからの知り合いだった。
「久保さん、久しぶり! 元気そうで何よりだ」
「ありがとう、山田さん。あなたも元気そうね」
二人は久しぶりの再会を喜び合った。
「例の青の絵の具、入荷したよ」
山田さんは棚から小さな絵の具のチューブを取り出した。それは鳳来が特に好んで使う、フランス製の青の絵の具だった。
「ああ、ありがとう。ちょうど切らしていたの」
鳳来はその絵の具と、いくつかの筆、そして新しいキャンバスを購入した。
「次の個展に向けて制作中なんだろう?」
「ええ、もうすぐよ」
「楽しみにしているよ。久保さんの青の使い方は特別だからね」
山田さんの言葉に、鳳来は微笑んだ。
「青の季節は過ぎたわ。でも、青は私の絵の中に常にあるでしょうね」
帰り道、鳳来は少し遠回りして、小さな公園に立ち寄った。そこでベンチに座り、夕暮れの空を見上げた。
空は徐々に青から紫、そして赤へと変わっていった。鳳来はその色の変化を見つめながら、自分の人生の色彩について考えていた。
青の季節から、赤の季節、そして金の季節……。人生の各段階は、それぞれ異なる色彩を持っていた。今、彼女はどんな季節にいるのだろうか。
それは「光の季節」かもしれない、と鳳来は思った。死を意識し始めた今、彼女の中では光への関心が強まっていた。キャンバスの中央に描いた白い放射状の光は、その表れだったのかもしれない。
日が暮れ始め、鳳来は立ち上がった。帰り道、彼女はスマートフォンの着信に気づいた。桜子からだった。
「先生、今どこですか? 心配していました」
「ごめんなさい、桜子さん。画材店に行って、少し公園で休んでいたの」
「今から迎えに行きます。どこの公園ですか?」
鳳来は公園の名前を告げ、桜子を待つことにした。少し歩き疲れていたので、ありがたい申し出だった。
十分ほどで、桜子の車が公園の入り口に到着した。
「先生、一人でお出かけになるなんて……」
桜子の声には心配が滲んでいた。
「大丈夫よ。まだそんなに弱っていないわ」
鳳来は笑いながら車に乗り込んだ。
「でも、迎えに来てくれてありがとう」
帰り道、二人は静かに車窓の風景を眺めていた。
「先生、今日は何を買ったんですか?」
「青の絵の具よ。特別なブルー」
鳳来は買い物袋を開け、絵の具のチューブを取り出した。
「これは私の"青の季節"から使っている絵の具なの。もう四十年以上、同じメーカーのものを使っているわ」
桜子はチラリとそれを見て、うなずいた。
「個展の新作に使うんですね」
「ええ。あの中央の光の周りに、この青を置きたいの」
家に到着すると、鳳来はすぐにアトリエに向かった。新しい絵の具と筆を手に、彼女は再び大きなキャンバスの前に立った。
中央の白い光の周りに、彼女は新しく買った青の絵の具を置き始めた。深く、豊かな青。それは海の底のような色だった。
鳳来は筆を動かしながら、「青の季節」の日々を思い出していた。悲しみと喪失の中で、彼女は青に救われた。青は彼女の悲しみを包み込み、昇華してくれた。
今、彼女は再び青を必要としていた。死に向き合うための青。光と闇の境界を描くための青。
夜が更けていき、鳳来は制作に没頭した。外は静まり返り、時間はゆっくりと流れていった。窓の外では、満月が静かに空を照らしていた。
鳳来は筆を止め、窓の外を見た。月明かりに照らされた庭は、青く輝いていた。まるで彼女の「青の季節」の絵のように。
「やはり、この青は特別な色ね」
鳳来は小さく呟いた。そして再び筆を取り、月明かりの中、彼女は青の世界を描き続けた。
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