「真央?」

 「……そんなの、姉ちゃんは、悪くない……。」

 呻くように言って、真央は確かに涙の雫を落とした。テーブルに散った、透明で丸い雫を見て、貴子はほとんど反射で真央の肩を引き寄せていた。

 「……ありがとう。」

 それ以上、言葉が続かない。自分まで泣いては仕方がないと思うから、泣きはしない。10歳で、母が血を吐いた夜にパニックで泣き叫んで以来、涙を流したことはなかった。

 「ありがとうね、真央。」

 育ちがいい空気感をそこかしこに残しながら、15歳から売春を続けている真央。彼にだって、幸せな過去はないのだろうに、こうやってひとのために泣いたりする。やっぱり彼は、若い。若くて、うつくしい。

 しばらく貴子の胸に抱かれて肩を震わせた後、指先で涙を拭った真央は、照れたように少し笑った。貴子も笑い返し、二人でシチューを食べる。

 「弟さんとは、会ってるの?」

 真央が器用にスプーンを操りながら、わずかに躊躇いの色がある口調で訊いた。貴子は苦笑し、曖昧に首を振った。

 「大学入学が決まったときに会って以来よ。……もう、一年近く会ってないのかな。」

 「……どうして?」

 「……弟が会いたがらないし、私も、ね。」

 「姉ちゃんも?」

 「観音通りにいるって、弟は知らないの。」

 「……そうなの?」

 「うん。子どもの頃は、適当に誤魔化してたけど、今仕事の話とか訊かれたら、もう誤魔化しきれないと思う。」

 貴子は心持ち俯いて、冷めかけたシチューをすくう。

 「……言ったら、だめなの?」

 「うん?」

 「観音通りにいるって。……弟さんだって、大人でしょ?」

 そう言った真央は、真剣な目をしていた。そんな目をする真央を見たことがなかったので、貴子は彼を直視できずに下を向いた。

 「……知られたくない。弟だけには。」 

 「でも、」

 「知られたくないの。」

 「……。」

 売春をしていることを、誰に知られても構わない。こうやってひとりで生き延びてきたのだと、胸は張れないまでも、言い切ることはできる。でも、弟は違う。父も母も失った弟に、姉まで失わせたくはない。そのためなら貴子は、どんな嘘でもつける。

 「……不思議ね。」

 思わずつぶやくと、真央が首を傾げて貴子の方を向いた。貴子は真央の肩を撫でながら、泣きたい気持ちで言葉を接いだ。

 「弟の側にいるために施設を出て、売春してお金も作った。それなのに、どんどん弟が遠くなっていくみたい。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る