第7章:静寂の館 ~忘れられた記憶の囁き~
梅雨の長雨がようやく途切れ、神戸の街にかすかな晴れ間がのぞき始めた早朝。粟生(あお)は三田(さんだ)との合流場所である図書館の脇道にひっそりと立っていた。いつもは灰色の雲が垂れこめるだけだった空に、薄青い色が混じり、六甲山の稜線がわずかにくっきりと見える。だが、それが不思議と、静寂な薄闇をいっそう強く浮き立たせているようにも感じられた。
昨日までの暗号解読によって、古い洋館だった時代から連なる**地下の奥深く**に、さらに隠された空間がある確度が高まった。加えて、盗まれた文献の一部が隠し部屋に集められているらしき兆候もあり、犯人がそこを拠点に何かを企んでいる可能性が高い――そう判断した粟生たちは、もう一度「暗号が示す通路」を徹底的に探索することを決意したのだ。
時計が8時を回った頃、やや寝不足の面持ちで三田が合流する。
「おはようございます……昨夜は少し寝て、体力を整えました。準備は大丈夫です。」
言葉の端々に疲労は滲むものの、三田の瞳には決意の炎が宿っていた。粟生はそれを確認し、小さくうなずく。
「今日は日下部さんも警備員を調整してくれている。開館前の時間帯に、館の“奥深い区画”に入ってある程度下見をしたいらしい。完全に調べるには人手も要るが、まずは足がかりを掴まないとな。」
表の正面玄関とは別に、職員専用の通用口から館内へ入る。まだ利用者はゼロに等しいため、ロビーは静まりかえっていた。建物全体が朝の空気に包まれ、冷たい光がステンドグラスをかすかに透過している。いつもは感じる近未来的な要素も、この時間だけは幽玄な雰囲気に圧倒されていた。
間もなく日下部(くさかべ)美緒(みお)や警備担当の職員数名が合流し、「では行きましょう」と短く言葉を交わす。昨夜の打ち合わせどおり、旧館の地下通路を抜け、まだ完全には調べ切れていない“奥の区画”へ足を踏み入れる手はずだ。
地下階段を下りると、そこはすでに何度も訪れた薄暗い通路。だが今回はさらなる奥――普段は立ち入りを規制している領域に入るため、重厚な鉄扉の鍵を開けて進む。職員でさえ滅多に使わない扉だけに、錆びついたキーを回すのに苦戦するが、やがてキーが噛み合い、扉がギギッと低い音を立てて開く。
「ここが……防空壕として転用されていたらしい場所につながる階段です。ずっと封鎖してたんですが、地震の際に多少崩れていたのを簡易補修して……でも正直、詳細は誰も把握してないんです。」
日下部が複雑そうに言う。その表情には、長年放置していた負い目や、この空間に秘められた謎への警戒がにじんでいる。続いて、懐中電灯を片手に、先頭をゆっくり歩き始める。
そこは石造りの階段が緩やかに下へ続いており、湿気を含んだ空気が頬を撫でた。壁には当時の漆喰や古いレンガがむき出しで、所々に補修跡が残る。まるで時間が止まった遺跡のようだ――ここが本当に図書館の地下なのかと疑いたくなるほど、不自然に“古の雰囲気”を帯びていた。
「暗号が示す場所とは、まさにこんなイメージなんでしょうか……。あの恋人たちは、この石段を夜な夜な下って、逢瀬を育んだのかもしれませんね。」
三田が低い声で呟く。その言葉に、粟生は胸の奥がざわめく。「明治期の恋人たちが、この暗く狭い通路をドキドキしながら歩いていた」と想像すると、そこに儚いロマンを感じると同時に、社会から排斥された悲劇的な運命を思わずにいられない。
しばらく下ると、石の通路が左右に分岐しているのが分かった。左は鉄製の柵で塞がれ、右はさらに奥へ続く細い道。「どちらに進むべきか?」と迷うが、ひとまず柵を外せるか試みると、錆びついた南京錠がかかっていて簡単には開かない。
「数字の羅列があったじゃないですか、“3-6-5”とか“7-0-2”とか。あれは左右の分岐を示す度数を表しているんじゃないか――昨夜はそう推測したけれど……。」
三田がタブレットの画面を睨む。実際の地図や図面と重ねると、ここで左右どちらへ行くかが分かるかもしれないが、暗号が完全に解けたわけではない。迷っていると、警備員が「試しに右側を進みませんか」と提案した。
「うん、左は柵があって鍵が開かない以上、今は難しい。まず右の道を探索しよう。」
粟生は頷き、先頭に立って右へ足を向ける。三田、日下部、そしてもう一人の警備員が後に続く。足下の石畳は磨り減り、ところによっては苔のようなものがしっとりとこびりついている。何度も懐中電灯をかざしながら、慎重に歩を進める。
やがて、通路が開けた場所に出る。ここは先日、隠し部屋の入り口が見つかった一帯とは違う角度からアプローチしているらしく、壁の造作も少し異なっている。しんとした暗闇が広がる中で、わずかに木の扉が立てかけられているのが見えた。
「扉だ……。しかも木製? ずいぶん古いんじゃ……?」
三田が恐る恐る手を伸ばす。見ると扉はかなり朽ちかけていて、押すとギシギシと音がして隙間が開いた。舞い上がる埃にみんな目を細めながら、光を差し込む。
「おお……こっちはまた別の空間か……。」
日下部が感嘆の声を漏らす。そこは先日見つけた隠し部屋よりも広く、床にはタイルが敷かれているのがぼんやりと確認できる。天井は低めだが、まぎれもなく部屋の形をしている。
「行ってみましょう。」
粟生が意を決し、足を踏み入れる。三田と警備員が後に続く。埃まみれの空気が鼻を突くが、そこまでカビ臭くはない。どうやら空間自体はある程度の乾燥を保っているらしく、奥には棚のようなものがいくつか見える。
照らしてみると、木製の棚が3つ並び、そのうちの一つには黄ばんだ書簡や紙束が積まれていた。まさに長年放置された遺物――ここが“洋館時代の名残”と言われても納得できる光景だ。粟生は慎重に手袋をはめ、埃を払って一冊一冊を覗き込みはじめる。
「あ……これ、明治期の古い日記っぽいですよ。しかも見覚えのある蔵書印が滲んでる……やはり当館のものだ。ということは、盗まれていた文献かもしれない!」
三田が興奮気味に声を上げる。日下部も懐中電灯を当てて覗き込むと、「確かに……タイトルがかすれて読めませんが、図書館のラベルの跡がある。まさか、ここに隠されていたのか……」と呟く。
粟生は奥の棚にも目を走らせる。破れた紙束が散乱しているのが見え、その一部に例の“象形文字”が描かれたページが挟まっているのを発見した。どうやら古文書の原本らしい。
「こっちには、暗号入りの古文書がごっそりあるようだ……。一体、いつからここに……。」
確かに、館で盗難された資料の一部と思われる。だが同時に、犯人がここで何らかの作業をしていた形跡もあるのかもしれない。
「皆さん、見てください。ほら、足元に何か光を反射するものが……。」
警備員が床を照らすと、そこには金属製の小さなピンやクリップのようなものが散らばっていた。加えて、最近落とされたばかりと思われる小さな懐中電灯まで転がっている。
「やはり誰かが先に来て、ここで文献を物色したんだろう。少なくとも昨夜あたりか……。」
粟生は心の中で警鐘を鳴らす。もし犯人がまだ近くに潜んでいるとしたら、この地下空間で対峙することになるかもしれない。だが、周囲に人影はない。
「とにかく、ここで見つけた文献を回収しよう。今は無理でも、あとでしっかり調査して、必要があれば封鎖して管理しないと……。」
日下部が、驚きと安堵が混ざったような声で言う。失われたものが部分的にでも見つかったのは一歩前進だし、事件解決の手掛かりになるかもしれない。
さらに探索を進めると、部屋の奥には古い机と椅子が置かれ、写真や手紙と思しき紙が散乱していた。三田が慎重に拾い上げると、そこにはモノクロ写真で和服の日本人女性と洋装の外国人男性が仲睦まじく並んでいる姿が写っていた。背景には神戸港らしき風景が見える。当時の居留地かもしれない。
「こんな写真が……。彼らの恋の軌跡が、これほど生々しく残っているなんて……。」
三田の声が震える。まるで自分の過去の失敗と重ねるかのように、彼の瞳は潤んでいた。粟生も言葉を失い、そっとその写真を拝見する。幸福そうに微笑む二人の姿が、暗く湿った地下空間の中に浮かび上がり、どこか幽霊じみた哀れさをも帯びている。
その隣には、暗号入りの古文書が数冊置かれ、ページが開いた状態になっていた。まさに誰かが読みかけのようだ。粟生はめくりながら見てみると、蔓模様や象形文字の連なりがあり、そこに数字やアルファベットが書き込まれている。まさに先日から研究してきた“運命の印”の総本山とも言えそうだ。
(犯人はここで暗号を読み解きながら、必要な部分だけ持ち出しているのか……。)
粟生は鳥肌を立てながら、机の隅に視線を移す。そこには誰かがつけたメモらしきメモ帳があり、走り書きされた数字が並んでいた。読み取りにくいが、“2-1-4-7”、“12-3-6-9”等、見覚えのある並び。
「もしかしてこれは、犯人が解析中だったメモか……。」
呟くと、三田が青ざめた表情で頷く。「でしょうね。図書館が集めた暗号を、ここで……。」
ほどなくして、粟生たちは回収可能な文献や道具をまとめ、隣のスペースを探そうとする。ところが、その先にはさらに扉が2つあり、一方は完全に崩れかけ、もう一方は頑丈な錠前がかけられている。警備員が試しに開けようとするが、錠前はまったく反応せず、時間がかかりそうだ。
「ここまで来て……さらに奥があるとは。」
日下部が唇を噛む。もし犯人が鍵を開ける手段を持っているなら、そこへ自由に出入りできるだろうし、あるいは別のルートがあるのかもしれない。
「手分けして探索してもいいですが、崩落の危険もありそうですね。ちょっと安易には進めないな……。」
結局、ここでの発見は大量の古文書や写真、メモ帳に留まった。一旦撤収を決め、入り口の扉に簡易的な封鎖を施す。そうしないと、犯人に再び戻られたら困るからだ。日下部や警備員は本格的な調査体制を整えたいと話し合い、上層部にも報告する意向を示す。
「しかし、これは大きいですよ。盗まれた文献が確実にここに集められているって分かったわけですから。」
粟生が少し安堵の息をつくと、三田も「ええ、あとは犯人を押さえれば……」と頷く。しかし、その表情には複雑な感情が宿っている。過去の恋の記録が、こんな形で地下に封印されていたという事実。さらに、犯人がその記録を再び暴こうとしている――すべてが結びついて、胸に痛みを呼び起こすのだろう。
地上に戻ったのは昼を過ぎた頃だった。埃まみれになった服を払いつつ、二人は司書室へ向かう。道中で三田がぽつりと声を出す。
「粟生さん、あの地下空間に入ったとき、不思議な静寂を感じませんでしたか? まるで過去の記憶が何層にも積もっていて、微かに囁いているような……。“やっと見つけてくれた”みたいに……。」
その言葉に、粟生は内心で深く同意する。確かにあの場所は、喧騒から切り離された不思議な静けさを漂わせていた。何世代も前に生きた人々が、そこで愛を囁き、やがて忘れられていった――その声を聞くような感覚。
「同感だ。あの部屋はまるで“忘れられた記憶”の塊だった。写真や手紙を見てると、彼らの息遣いがまだ残っている気がして……。」
この妙なロマンティシズムは、神戸という港町の異国情緒や、山と海に挟まれた地理も後押ししているのだろう。三田は目を伏せながら、心の奥底に渦巻く想いを噛みしめているように見えた。
午後になると、さっそく回収した文献の一部をアーカイブ室で確認する作業が始まる。ボロボロに崩れた書物は専門家による修復が必要だが、とりあえず概要を把握するために、きわめて慎重にページをめくる。粟生と三田も手分けして、暗号記号や、当時の恋人たちに関する具体的な記述を探す。
「ありました、このページ……。蔓模様や波の記号だけじゃなく、写真に写っていたあの二人の名前が出ています。“エドワード・M”と“恵(めぐみ)”って書かれている。どうやら大正初期の頃、一度駆け落ちを試みたらしいです。“家族から猛反対された”という一文が……。」
三田が震える声で読み上げる。間違いなく、身分違いや国籍差を超えた恋愛だったのだろう。粟生はページを覗き込む。そこにはかすれた筆跡で、「夜の港から船で逃げようとしたが失敗」といった内容が綴られているのが分かる。読み進めるうちに、二人がどれほど悲痛な思いで葛藤していたかが伝わってきて、胸が締めつけられる。
「これは……ただの昔のラブストーリーに留まらないな。実際に封印されなければならなかったほどのスキャンダルがあったのかもしれない。もしこの事実が表に出れば、当時の有力家や社会的にも大問題になっただろうし……。」
粟生が低い声で漏らす。三田は目を潤ませながらページをそっと閉じた。
「こういう資料が、今になって盗まれ、地下に集められていた。犯人はこの二人の記録を含む“封印された恋”をすべて掘り起こそうとしているんですね……。」
同時に、二人は暗号の意図をさらに強く実感する。当時の恋人たちは暗号を使って逢瀬を重ね、逃亡を企てていたのだ。ところが途中で何らかの理由で頓挫し、記録が散逸したか、あるいは故意に隠された。敗北の歴史が地下に封じ込められたのだろうか。
夜になって、また館が閉館の時刻を迎える。粟生と三田は、引き続き地下の監視や巡回を続けることにしたが、今夜は特に何の動きもなく時間が過ぎていく。時折、警備員から「異常なし」の報告が入り、深夜の巡回も虚しく終わる気配が漂う。
アーカイブ室に戻り、二人で報告用のメモを整理していると、三田がふと口を開く。
「粟生さん……僕、あの地下で見た写真が頭から離れないんです。あんなに幸せそうな顔をしていたのに、どうして社会に認められない恋だったんでしょうね。自分たちで暗号を駆使してまで会わないといけなかったなんて……。」
その問いに、粟生は視線を落として答える。
「身分や国籍の壁ってのは、時代背景からして想像を絶する圧力だったんだろうな。今の感覚じゃ考えられないほど、家や社会の支配力が大きかった。だからこそ、この図書館に古文書の形で残った記録が、彼らの精一杯の叫びだったんじゃないか。」
三田は何も言わず、黙ったまま資料を抱きしめるかのようにして俯いた。彼の心には“救えなかった恋文”の記憶が蘇っているに違いない。粟生はそっと肩に手を置き、
「だけど、俺たちは今こうして、その声を拾い上げてる。犯人が悪用しようとしているなら阻止できるし、本来の価値を世に伝えることもできる。何のために我々がいるか……答えははっきりしてると思うんだ。」
静かな空気の中で、三田は震える声で「はい……」と返す。これまで遠回りしてきたが、ようやく“過去の封印”と対峙する覚悟が湧いてきたのだろう。
と、そのとき、館内放送から控えめな警告音が流れた。深夜の非常アナウンスではなく、館内メンテナンスの合図らしい。粟生は腕時計を見て、小さく舌打ちする。「そろそろこの時間か……今日はこれで仕上げだな。」
こうして、第7章の夜が終わる。地上では静寂を破るような大きな事件は起きなかったが、粟生と三田は“忘れられた記憶”が宿る地下空間で、明治期の恋人たちの痕跡を目の当たりにし、新たな文献を手に入れることに成功した。そして、その中に**事件を解くカギとなる“本格的な暗号メッセージ”**が隠されていることを確信したのである。
もっとも、部屋には犯人らしき人物が先に訪れた形跡もあり、緊張感は高まる一方だ。近いうちに犯人が大きく動くのではないか――そんな予感が、二人を焦らせる。同時に、かつての恋人たちの悲劇と想いが、まるで地下の空気に染み付いたように呼吸している。
静かに幕を下ろす館の通路を歩きながら、三田は心の奥でつぶやく。
「いつか、この地下に眠っていた恋を、正しく救い出せる日は来るんだろうか……。」
粟生はその言葉に応えず、ただ隣に寄り添うようにして歩く。忘れられた記憶の囁きは、まだ終わらない。むしろ、これからが本番なのだろう――暗号の謎が深まるほど、事件と過去の恋が混ざり合い、さらなる真実を迫ってくる予感がする。
夜明け前の神戸の街に、また雨雲がやってきた。館を出ると、遠くから霧のような雨が線を引いて落ち、坂道をひそやかに濡らし始める。夜のロマンを伴って眠りにつく町並みに、かつての恋人たちの吐息がまだ彷徨っているかのようだった。
次なる章では、二人が見つけた“本格的な暗号メッセージ”と、その意味する場所や時間が浮上し、物語はさらに大きく動き出す――。
(第7章・了)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます