放課後のキャンバスに描く、君との未来

ゆうきちひろ

第1話 出会い

1. 放課後の部室

 春の黄金色の光が窓ガラスを通り抜ける美術部の部室。舞い上がる埃の粒子が琥珀のように輝き、光の筋が静謐な空間に目に見える道を描き出していた。校舎の北側の隅に位置するこの部室は、運動部の活気ある掛け声や喧騒が遠くから聞こえるものの、別世界のような静けさに包まれている。


 私が鉛筆を走らせると、その繊細な音だけが古びた木製の机に広げられたスケッチブックから響いた。窓からの光に照らされたキャンバスに向かうと、時計の針の音さえ忘れてしまうほどの没頭感が訪れる――この部室は、私にとって唯一の聖域だった。


 私――吉野彩にとって、この美術部の部室は特別な場所だった。絵の具の香りと木の温もりが混ざり合う空気。壁に並べられた先輩たちの作品。それらは春の柔らかな光に照らされ、まるで美術館の展示物のように厳かな存在感を放っていた。他の部員たちは広い美術教室を使っているため、ここには滅多に来ない。そのためこの場所は、日常の喧騒から解放され、自分だけの世界に没頭することができる、私にとっての聖域になっていた。

 

 外の世界では私はいつも影のような存在。クラスでも私は空気のような存在だった。今の高校生活は、SNSやスマートフォンが当たり前の時代。昼休みになるとみんなはグループを作って楽しそうにお弁当を広げながら、最新のアプリの話や動画サイトの話題で盛り上がる。私はいつも窓際の席でスケッチブックを開く。デジタルな交流が主流の世界で、私はアナログな絵の世界に生きていた。

 

「吉野さん、今日も絵を描いてるの?」何気なく声をかけられることはある。


 でも、会話はそれだけ。私が返事をする前に話しかけた子はすぐに別の友達とスマートフォンの画面を見ながら笑い合う。クラスの多くの生徒はSNSに夢中で、デジタルな世界で繋がることを好むけれど、私はただ、鉛筆を走らせる。一筆一筆が私にとっては息づかいのように自然で、時に言葉よりも雄弁に心を表現できる手段だった。デジタル時代の喧騒から離れた、アナログな絵の世界が本当の居場所だった。


 筆を走らせる手を止め、描きかけの桜の木を見つめる。まだ蕾が固く閉じた状態の桜を描くのは難しい。花が開いた姿を想像しながら、今の姿を正確に捉える。そのバランスが難しい。


(もう数週間もすれば、この木も満開になるのかな……)

 

 ふと、そんなことを考えながら窓の外を見た。校舎の裏手に一本だけ立つ桜の木は、他の木々より少し早く蕾を膨らませ始めていた。毎日少しずつ変化する木の姿を観察するのが、ここ数週間の私の日課だった。


「……もう少し影を深く……枝の交わる部分に陰影を……」

 

 ほとんど息づかいのような小さな独り言を漏らしながら、私は筆先に意識を集中させる。まだ満開には程遠いが、冬の眠りから目覚めたようにこぶりな蕾がところどころで淡いピンク色を覗かせ始めている。


 幼い頃から絵を描くことが好きだった。

 父は美術大学出身の美術教師で、家には常に画材が揃っていた。休日に美術館を巡り、父から「上手に描くことよりも、自分の心を正直に表現することが大切だ」と教わったことが、今の私の原点になっている。


 そんな父は三年前に他界し、今は母と二人暮らし。闘病中、私は父のベッドサイドで毎日絵を描き続けた。葬儀の日には父の笑顔を描いた――言葉では表せない悲しみを、色と線に変換することでしか、私は感情を処理できなかったから。


 父の死は私を無口にし、人との距離を作ったが、同時に絵の中に感情を込める力を与えてくれた。美咲が私の絵に惹かれたのは、その無言の感情表現を感じ取ったからなのかもしれない。


 クラスでも、あまり目立たない存在。人と深く関わることが苦手で、休み時間も一人でスケッチブックを開いていることが多い。そんな私をクラスメイトたちは不思議そうな目で見つめることもあったが、私自身はそれが嫌というわけではなかった。絵を描いている時だけはいつも心が穏やかになれる。鉛筆が紙の上を滑る感触、徐々に形づくられていく線と影。その世界は静かで安全な私だけのものだった。


「すごい……」

 

 突然の声に、私はびくっと肩を震わせた。まるで、静かな水面に小石が投げ込まれたように、私の内側に波紋が広がる。没頭していた世界から現実に引き戻される感覚は水面から急に引き上げられるようで呼吸すら浅くなる。鉛筆の先が紙の上で滑り、意図しない線を描いてしまう。


 振り返ると、そこにはクラスの中心的人物――クラスカースト上位の美咲が立っていた。彼女は少し息を切らし、頬を紅潮させていた。まるで走ってきたかのように。いつもは友人たちに囲まれ、廊下や教室で華やかに笑う彼女がなぜこんな場所に? 驚きのあまり、私は言葉を失った。


 彼女は鮮やかなヘアピンで留めた髪を揺らし、制服の第一ボタンを少し緩めた姿で立っていた。ブラウスの胸元には学年章が光り、爽やかな柑橘系の香りが部屋に広がる。その姿は春の日差しのように明るく、私の描く絵の世界とは対照的だった。


「吉野彩ちゃんだよね? 美術部だった聞いてたけど、こんなに上手だったなんて知らなかった!」

 

 美咲は明るい笑顔を浮かべ、私のスケッチブックを覗き込む。彼女の吐く息が私の頬に触れ、思わず身体が強張る。彼女は学校でも人気者で友人も多い。スポーツも勉強も万能で、いつも笑顔を絶やさない。そんな彼女に名前を呼ばれることすら意外で、正直、こうして二人きりで話すのは初めてだった。


「あの、邪魔だったらごめんね」


 美咲は少し申し訳なさそうに続けた。

 

「でも、どうしても彩ちゃんの絵を見てみたくて……噂で聞いてたから」


(噂? 私の絵のことを誰かが話題にしているなんて。そんなことがあるんだろうか?)


 混乱する私の表情を見て、美咲は慌てて付け加えた。


「あっ、いい意味の噂だよ!  佐藤先生が美術室で彩ちゃんの絵を褒めてて……それにずっと気になってたの。いつも休み時間、一人で絵を描いてるでしょ?  私、ああいう風に何かに夢中になれる人って、すごく素敵だなって思ってたんだ」

「あ……ありがとう」


 私は小さく答え、再びスケッチブックに視線を戻した。会話を続ける自信がなかった。人と目を合わせるのが苦手な私は、相手が美咲のように輝いている存在だと、なおさら言葉に詰まってしまう。


「こんなに静かなところで絵を描いてるんだね。なんかすごく集中できる感じがする」


 美咲はそう言うと、私の隣の椅子に座った。彼女の動きには迷いがなく、まるで長い間この部室に通っていたかのような自然さがあった。彼女が発する柑橘系の香りが、絵具の匂いに混ざり、部室の空気を少し変えた。


「ねえ、私も絵を描いてみたいな。ここで見ててもいい?」


 突然の申し出に私は思わず目を見開いた。


「えっ……?」


 心の中で「どうして?」という問いが渦巻いた。なぜ美咲のような人気者が私のような目立たない存在と時間を過ごしたいと思うのか。それは不思議でならなかった。


 「私、あんまり絵とか得意じゃないけど、興味はあるの。だから、彩ちゃんがどんな風に描いてるのか見てみたくて」


 彼女の言葉はまっすぐで嘘がない。だけど、どうして美咲が? 私とは接点のない世界の人だと思っていたのに――。


「……別に……いいけど」


 私が答えると、美咲はぱっと笑顔になった。


「やった! じゃあ、お邪魔しまーす!」


 私は内心戸惑いながらも、彼女が椅子を寄せる音を聞いていた。


2. 初めてのスケッチ

 美咲は興味津々といった様子で部室にある道具を眺めていた。


「へえ、同じ色なのにこんなにたくさんあるんだね。彩ちゃんはこれ全部使うの?」

「うん。絵の具も色鉛筆も、画材によって描き方が変わるから……」

「そっかぁ……じゃあ、私も何か描いてみようかな?」

「美咲さん……スケッチブック、使う?」


 私は少し迷ったあと、予備のスケッチブックを差し出した。


「ありがとう! じゃあ、私も彩ちゃんみたいに桜の木を描いてみようかな」


 美咲は嬉しそうに受け取る。

 

「それと、『美咲』って呼んでいいよ」

「えっ、なら私も『彩』で……」

「ううん、彩ちゃんは『彩ちゃん』がいい」


 美咲はにっこり微笑むと、鉛筆を手に取って見よう見まねで線を引き始めた。

 しかし、すぐに首をかしげる。


「うわぁ、すっごく難しい……でも楽しい!」

 

 私は彼女のスケッチをちらりと見て、少し考えた後、鉛筆を手に取った。


「……こうやって、まず全体の形を捉えるの。細かい部分は後から」


 私は机の端にあった画用紙に軽く線を引きながら説明する。美咲はそれを見て、「なるほど」とうなずいた。


 「彩ちゃん、すごいね。ちゃんと考えながら描くんだ」

 「そうかな……?」

 「うん、尊敬しちゃう。私、もうちょっと練習してみる!」


 彼女はそう言って、再び鉛筆を走らせた。


3. 放課後の約束

 その日、美咲は最後まで部室に残ってスケッチを続けた。


「うーん、やっぱり難しい……でも楽しい!」


 彼女は笑いながら、まだ未完成のスケッチを眺める。


 「ねえ、彩ちゃん。明日もここに来てもいい?」


 私は驚いて彼女を見た。


「……えっ?」

「私、もっと絵を描いてみたいし、彩ちゃんと話すのも楽しいから!」


 私は一瞬、返事に詰まる。誰かと一緒に絵を描くのは初めてだった。でも――。


「……いいよ」


 私がそう答えると、美咲は嬉しそうに笑った。


「やったぁ! じゃあ、また明日ね!」

 

 彼女はスケッチブックを抱えて元気よく部室を後にした。


 部室のドアが閉まるか閉まらないかのうちに、顧問の佐藤先生が顔を覗かせた。

 

「吉野さん、今日も残ってたの?  あら、他にも誰かいたみたいね?」

「……美咲さんです」

「高橋さん? 珍しいわね。あの子、美術に興味を持ってたのかしら?」

 

 私は小さく頷いた。佐藤先生は意外そうな表情を浮かべる。

 

「彼女はクラスでも人気者だから、あなたとは対照的ね。でも、絵を通して心を開くのは素敵なこと。吉野さんも少しずつ周りと関わってみるといいわ」

「……はい」


 佐藤先生は私の肩に優しく手を置いた。


「吉野さん、あなたのお父さんとは美大の同期だったのよ」


 佐藤先生は窓辺に立ち、遠くを見つめながら静かに語り始めた。

 

「彼は才能があった。でも、それ以上に絵に対する情熱があった人だった」

 

 彩は驚いて顔を上げた。父と先生の関係を知らなかったからだ。


「あの頃は二人とも若くて……芽が出なかったけどね」


 先生は微笑んだ。

 

「それで私たちが選んだのは教師の道。こうして次世代を育てる道。結局二人とも、芸術の道から離れなかった」

「父は夢を諦めたんですか?」

「いいえ、それ以上の夢を掴んだのよ」


 先生は彩の目をまっすぐ見た。

 

「あなたと一緒に絵を描いたって、彼はいつも楽しそうに話すの。そして『娘は将来素晴らしい画家になる』とも言っていたわ」

 

 私は驚いて顔を上げた。父が私のことをそう話していたなんて――。

 

「あなたの絵には、お父さんに似た繊細さがある。でも、まだ何かが足りない気がするの」

「何か……ですか?」

「それはね、あなた自身が見つけるものよ」


 先生は微笑んだ。

 

「高橋さんとの出会いがその手がかりになるかもしれないわね」


 先生がいなくなった後も、私は静かな部室中で机の上のスケッチを見つめていた。

 

 ――放課後の部室に、彼女がいる。

 それがなんだかとても不思議で、そして少しだけ嬉しく感じられた。

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