第12話 プロローグ

 一人の偏屈でとても高名な科学者がいた。

「知識は天に至る翼であると言う言葉があるが、私はそうは思わないね。何故なら天などないからだ」

 彼の名は八神慧。研究の対象は宇宙物理学を中心に、脳科学や情報工学など多岐にわたり、それぞれの分野で成果を出している傑物だ。八神博士と親しまれている彼は、その名にそぐわず一貫した無神論者であった。

「私は大抵のことには満足している。子どもの頃知りたかったことは今ではそのほとんどを知ることができた。だが、唯一耐えられないことがある。それは私の苗字だ」

 科学者の多くが神の存在を信じている事実に呆れていた八神博士は、その人生のほとんどを宇宙の真理の解明及び神の不在の証明に費やした。晩年、八神博士は無神論者の集い『ヴェリタス』を作り、種々の宗教を批評するようになった。

「宗教があるから争いが起こる」

 晩年の八神博士は常に何かと闘っているかのようであった。八神博士は平和主義者でもあり、その著書には『平和の物理学』や『永遠平和のためのたったひとつの冴えたやりかた』等があるが、それらを通して一貫して主張していることがある。宗教とは人生を生きる上での根本の教えであり、宗教が異なれば偏見や差別が生まれるのは必然だということだ。偏見や差別は無知から生まれる。宗教が幾つもあれば、一つ一つに対する理解が乏しくなる。人は知らないもの、わからないものに恐怖心や不安感を抱く。結果、争いが起こるのだ。

「私は世界を平和にする方法を知っているよ。簡単な話だ。地球上から宗教を消せばいいのだ」

 このような発言をあらゆる方面で発信していた八神博士は、有神論者や宗教を信仰している者たちから大いに批判された。巷では八神博士の作った組織『ヴェリタス』は世界征服を目論んでいるというデマが流れるようになった。無論、そんなことは決してなかったが、良くも悪くも八神博士は世界中から注目を浴びていた。そんな八神博士が2022/5/24に亡くなった。享年77歳だった。世間は無神論者の筆頭である八神博士の死に関心を寄せた。果たして無神論者はどのように己の死を受け入れるのかと。

「そうか。わたしは間違っていたんだな。神はいたよ、由美。お前にまた会えるんだな」

 これは今際の時に八神博士が話した言葉を、彼の死を看取った彼の娘が記録したものだ。八神博士の娘は大学時代に死生学を専攻していたので、実の父のお迎え現象に真摯に向き合い、より多くの情報を引き出し、記録することにしたのだった。八神博士が「神はいた」と言ったことで世間は波打った。ある者は八神博士の娘がでっち上げた嘘だと言い、ある者はやはり神はいたと満足気に首肯した。『ヴェリタス』に属する学者たちが一番動揺したに違いない。彼らが今まで信じてきたことが根本から覆るのだから。だが、事はこれだけでは終わらなかった。八神博士が話した内容には続きがある。

「向こうは素晴らしい! 早く迎えに来てくれ、由美!」

 由美とは八神博士の妻の名前だった。由美は既に6年前に亡くなっていた。八神博士の娘が「お母さんがいるの?」と尋ねたが「ああ。だが、ここにはいないよ」と答えただけだった。

「じゃあどこにいるの?」

「素晴らしい場所だよ。見えないのかい?」

「うん。見えない」

「そうか。いや……。そうか」

「お父さん。何か伝えたいことはある? 言い残したこととか?」

「そうだな。この世界は望まぬ牢獄だが、思い悩む必要はないということだ。必ず平等に時は流れる。ん? そうか、時流だ! それが鍵なんだ! 時流などないんだ! 全て妄想だ! いや、この世界が虚構なのだ!」

「お父さん。大丈夫?」

「いつどこでかは忘れてしまったが、確かにわたしは読んだんだ! 『あぁ、美妙な人生の謎、ついにわたしはお前を見つけた、あぁ、ついにわたしはそのすべての秘密を知る』と」

 それから先、八神博士は支離滅裂な言葉を喋るだけだった。荷物が届くだの、飛行機に乗らなくてはならないだの。他にも数字に関して幾つか発言していた。

「この世界には1、2、3から始まって70や80までちゃんとあるんだなと分かったんだ」

「8はレムニスケート、6は9」

「3は神の数字」

「7th。この世界の名前」

 それが何を意味するのか誰にもわからない。そのはずだった。だが、面白いことに彼は死ぬ間際にこんな事を言った。

「わたしが死んだ後、すぐにわたしを名乗る者が現れるだろう。それがわたしだ。だからよろしくしてやってくれ」

 果たして、八神博士を名乗る者はたくさん現れた。だが、その中に一人だけ死に際に八神博士が娘と作った合言葉を知っていた人物がいた。後に世界を大きく変えることになるその少女の名前は朝山七海。どこにでもいる普通の女子高校生だった。


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