拝啓、向こうの現実へ ―特務機関の英雄は、いかにして世界を見捨てたか。―

陶花ゆうの

プロローグ

 さて、どこから話せばいいんでしょうね?

 ――スタートから? わかりました。


 じゃあ、あのときから。


 廊下の空気が罅割れるのに出遭ったところから。


 自伝小説っぽく、劇的に、ですか?

 ――困ったな。でもわかりました。


 


 じゃあ、始めます。





□□□





 空気に、罅が入る。


 さながら、その空気がガラスと化したように。


 ぽかん、とした俺はただただ瞬きする。

 真顔で首を傾げてしまった。


 空中を伝播した白い罅割れが一面に走り――割れる。音もなく。


 砕け散った空気は、仄かに光る白い欠片となってひらひらと舞い落ちて、――が見える。


 向こう側なんてないはずなのに。

 どんな繊細なホログラムでも追い着かないだろうリアルさで。


 その向こうにいるのは、一人の人間だ。

 年齢や性別はわからない。

 わかるはずがない。

 全身真っ黒の――なんというのか、野戦服というのがいちばん近いかも知れない――物々しい格好に、頭部には黒いヘルメット。

 フェイスガードも真っ黒で、見えるのはそこに映っている、茫然とした俺たち自身の間抜け顔だけ。


 空気を砕いた穴をくぐり抜けてきたその人物が、ヘルメットをかぶった頭をきょろきょろと動かして、周囲を観察する。


 怪奇現象にしては、妙にその動きが事務的だ――まるで工事現場の安全確認みたいだ、と、現実逃避じみて思う。



 相手がきょろきょろしているあいだに、異常なことが起こっているこの場から逃げ出せばいいと思うだろ?

 わかってはいるんだ、でも足が動かない。


 糊付けされたように廊下に張りついていて、なんなら瞬きも出来ていない。

 心臓がどきどきと脈打っているのはわかるが、これが何かの演出である可能性も捨て切れていなくて混乱する。


 声を出してみようとするが、この数秒のあいだに喉は乾涸びていて、声が出なかった。


 正体不明の黒づくめの人物が、どうやらこちらを見た。

 その身体が障害物になって、空気に開いた穴の向こう側は見えないが、どうやら向こうが真っ暗だということはわかる。


 俺はただただ唖然としているが、隣にいる親友はそうではないらしい――ひ、と、喉の奥で声が漏れたのが聞こえてきた。


 黒づくめの人物が、素早くその場で足踏みをした。

 足踏みというか、とんとん、と、靴の踵で床を叩くような仕草――


 ――今度は、白い罅割れが、廊下に走った。

 廊下から、壁に拡がる。

 天井に拡がる。


 そばにある教室のドアに拡がる。


「――あ」


 やっと声が出たが、俺の声だったのか隣にいる親友の声だったのかはわからない。



 ――俺たちの目の前で、ぐにゃ、と、



 何かのMVの演出のように、まるでここが合わせ鏡に映った、延々と続く廊下のようで――その廊下が、蛇腹の如くにねじれたようで。


 何かの幻覚ではないことははっきりわかった、なぜなら――


 ――廊下がうねったことに合わせて、俺たちの足許が実際に動き、ものの見事にその場ですっ転んだからだ。


「――――っ!」


 強かに尻をぶつけた痛みで正気が戻る。

 戻った正気がこの事態を拒否する。


 の能力でも、こんな芸当できっこないのだ。


 足許がうねる。

 突然、安全バーなしでジェットコースターに乗せられたよう。


 落ち込んだ足許で倒れた俺たちは、続いて勢いよく上に向かって放り投げられ、そしてうねりながらこちらを圧し潰さんとする天井とお目見えすることになる。



 俺は叫んだ。

 ぎゃあ、だか、うわあ、だか、とにかく言葉になってはいなかったが叫んだ。



 わけがわからないがこれだけは言える。


 というか現実逃避した俺の思考が真っ先に考えたことはこれだった。



 ――いきなり記憶喪失になった挙句、こんな目に遭うとか、俺の親友かわいそう過ぎる。











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