十年目の真実と三ヶ月分の積み重ね⑥

 気ままな選書に没頭していると、見慣れた影が視界に入ってくる。十年。追ってきた姿だ。意図して見ていた時間も多い。

 配架をしている穂架さんと出くわすのは、普通のことだった。図書館通いを再開してからも何度か経験している。曖昧な笑みと稚拙な挨拶が定型となっていた。

 穂架さんはこれまでと同じように微笑んでいる。司書としての仕事と言えばそれまでかもしれない。けれど、穂架さんがそういう区切りで俺を扱っていないことは知っている。手前味噌ではない。不安も疑問もなかった。


「またいっぱい持ってるね」

「夏休み前の館内整理で二十冊までOKになってるんで」

「そうはいっても、休みは一週間なんだけどね」


 いつもは二週間十冊。館内整理だからって、この冊数にする理屈はあまりないだろう。穂架さんが言う通り、そうはいっても感はある。

 ただし、それは俺たちのような書痴には例外だ。十冊借りたって、二週間も持つはずもない。長くても一週間だ。毎日通うことにあぐらを掻いて、日々数冊ずつ借りる形式を取っている。文葉も同じようなものだ。


「借りられるときは借りたくなっちゃうんですよね」

「好きだよねぇ、章人くんは。本当に」

「そりゃ、そうでしょう。十年通ってるんですから」


 途中、迷走もした。本を求めて来ていたが、穂架さんに会うことが目的になっているような。そんな迷走で突っ走ったりもしていた。

 それは自分からぶち壊して、穂架さんにピリオドを打たれている。帰結したのだと、こうして会話するたびに実感していた。

 これもそのうちに日常になり、文葉へ割り振られるものが増えていくのだろう。こんな日がくると思っていなかった。同時に、どこかで思ってもいたのだろう。無自覚であっただけで。その曖昧になっていた境界線が文葉が現れて鮮明になった。

 かくして、俺は今清々しい気持ちで、憧れのお姉さんと会話することができている。これは、とんでもなく理想的な幕切れだ。いや、幕切れにならなかったことが素晴らしい。

 文葉がいなければ、俺はきっと穂架さんへの感情を正しく認識も消化もしきれなかったはずだ。だから、感謝している。けれど、それが好きになった理由かと言われるとそんなことはない。

 そうした思いやりのある性格だって含まれている。そうして積み上げていったものだ。微々たる層しかないかもしれない。穂架さんとは比べるべくもないだろう。

 それでも、文葉と積み重ねた時間が特別であることは揺るぎない。対等で穏やかで楽しい時間。自分と歩調と相性の合う相手。

 美しい子だと思う。心根から仕草まで。満遍なく、可愛い。

 後ろ暗さなどなく、こう和やかに思えるようになるために、穂架さんとの一幕を演じることは必要だっただろう。二つを恬然と扱うために。

 こうなると、やけくその発端になったことさえ、文葉のおかげと言ってもいいくらいだった。

 まぁ、これは後付けにしかならないが。


「そんなに経ってたんだよね」

「なんですか、それ」

「見くびっていたなぁと思って」


 零される苦笑には同意できる。

 見くびられていたとまで露悪的に思ってはいない。だが、子ども扱いを受けていたのは真実だろう。俺の成長と穂架さんが描いていた成長には差があったはずだ。


「小さな子だって思ってたわけじゃないよ? 声変わりしたり身長抜かれたりしたしね。ちゃんと分かってたつもりだったんだけど、素っ頓狂な見通しを押し付けようとしちゃうし」

「ああ、いや……」


 喉を痛めるような焦げを感じる。渋面を繕えもしなかった。煮え切らない、返事とも呼べない相槌に、穂架さんが要領を得ない顔をする。

 こんな馬鹿正直な反応をするつもりはなかった。俺は穂架さん相手に感情を抑え込むことに慣れているつもりだったのに。もうすっかり不精になっている。嵩を増やして見せようとしていた分が萎んでしまったからだろうか。

 穂架さんの怪訝は消えることはない。俺は痛恨を噛み締めて、勢い口にした言葉の続きを探した。


「穂架さんの観察眼は、そこまで的外れじゃなかったと思いますよ」


 俺は一生、穂架さんには敵わない。

 何より、先に思わせぶりにも聞こえる否定を口走ったのは自分だ。構ってちゃんのようなやり口は好ましくない。


「……なるほどね」


 どこかに罪悪感はあった。

 告白した直後で、この変わり身だ。悪感情を抱かれたり呆れられたりされると思っていた。

 けれど、穂架さんはさらりと相槌を打つ。その目が横に流れたのを追って、ぶつかった人影に眉が下がった。

 本棚を物色する文葉の横顔は真剣で楽しそうだ。目を眇めていたのは無意識だった。穂架さんがそれを横目に見ていることにも、気がつかない。


「可愛い子だよね」

「……そうですね」


 やっぱり、罪悪感はほのかにあった。

 けれど、頷いた瞬間にひと心地がつく。ただ相槌を打っただけに過ぎない。ただ、それができたことが俺には重要な意味があった。

 穂架さんに文葉のことを認められる。これ以上ない自分の感情の言質だ。

 穂架さんは少し目を見開いてから、にんまりと企みを持った猫のように笑ってこちらを見る。


「今度は否定しないんだね」

「みっともないのは卒業したいんで」


 穂架さんへの恋心を拗らせて、煩雑な坩堝に落ちていた。そこに注ぎ込まれた一筋の光は、この上なく眩しい。だから、目を眇めるのが癖になっている。

 話題に上っているとは気がついていない文葉がこちらに気がついた。俺たちの姿に足を止める気遣いの表層化に苦笑する。文葉らしい足運びだ。

 どうするつもりか迷っているのを見ていたら、穂架さんの手のひらがとんと俺の背を押した。力なんて入っていない。軽く小さな衝撃だ。

 けれど、油断していた俺は前方へとたたらを踏む。

 穂架さんから文葉のほうへ。穂架さんがそれを狙ったのかどうかは分からない。ただ、その予期せぬ一歩は、確実な一歩だった。


「頑張って。応援しているから」


 背中にかけられた声が、真っ直ぐに胸に染みる。どこまでも穂架さんには敵わない。俺たちのやり取りに、前方の文葉がフクロウのように首を傾げていた。


「それじゃあね」

「あ、はい。ありがとうございます」


 それは離れるという意思表示でしかなかっただろう。穂架さんが離れていく。俺は慌てて後方を振り仰いで答えた。

 けれど、離れていくその後ろ姿を追いかけることはもうない。代わりとばかりに、前方に正対して文葉の元へと向かう。文葉は状況を理解できておらず、大きな瞳を瞬いていた。


「どうしたの?」

「どうもしないよ」

「……振られたけど、実は意識してもらえるようになったとか朗報ある?」

「ない」


 文葉との出会いがなければ、自分の感情を見極めることができずに、そんな期待を寄せて七転八倒していたことだろう。こんなにも爽やかな気持ちで否定をしていなかったはずだ。


「まったく?」

「まったく。今まで通りだよ」

「ふーん? じゃあ、別に気を遣わなくていいんだね?」

「……ああ、そういうことか」


 文葉が側面にぶつかるのは、隣にいることが多いし、手に本を抱えていることも多いからだろうと思っていた。

 けれど、それだけじゃない。

 以前なら、文葉は一定の距離感を保っていた。試験期間中。学習室において気が抜けてしまっていた経緯はあれど、根本的には守られていたのだ。

 それが崩壊した。穂架さんに振られてから、遠慮をなくしたのだろう。納得していると、文葉からは、気がついてなかったの? とばかりの視線が投げられた。


「文葉の自由だよ」

「よーし。じゃあ、これまでの分じゃれてやろう」

「おい」


 文葉はまだ、単行本を一冊と文庫本を二冊しか持っていない。それを片腕で抱え、もう一方で俺の腕へ絡みついてきた。

 こっちは既に十冊以上を手にしている。文葉の動きを制することも難しい。しがみついてくる肉体が腕を包み込んでくる。その物体に思いを馳せたら負けだろう。

 シャンプーの花の香りが鼻腔をいっぱいにする至近距離で、文葉はしてやったりとばかりに笑っていた。俺が狼狽するのを見込んでいる顔つきは可愛いけれど、腑に落ちない。


「あのなぁ……」

「自由なんでしょ?」

「俺で遊ぶなよ」

「そこは同志のよしみで」

「こんなよしみは聞いたことがない」

「嫌いじゃないくせに」


 探り合いのない応酬は、戯れ言だ。文葉の指摘にも深い意味もなければ、冗談に過ぎない。そのくせ、図星を突いてくるのだから、たまったものではなかった。

 だが、取り繕うという技巧において、俺はそれなりに一家言がある。


「そっちだろ?」


 切り返した俺に、文葉は頬を膨らませた。


「なんか章人くんが生意気になった」

「背伸びしなくて済むようになったから」


 完全武装し続けていたわけではない。それでも、解放されたのは気持ちだけの話ではなかったのだろう。

 こうして、文葉とくだらない軽口を叩く時間が心地良くて、愛おしい。

 その感慨を俺が失恋の感傷に浸っているとでも思ったのか。文葉の眉が小さく下がった。そして、するりと首筋に頭を寄せてくる。本があるので密着しているわけではない。けれど、腕は捕まえられたままなので絡み合っている。脳みそに火がくべられたようだった。


「あや……」

「章人くんの自由にしていいんだからね?」


 肌を撫でる吐息に背筋が震える。

 はぁーっと腹の底から深いため息が零れた。そうして放熱しなければ、とてもじゃないが冷静でいられない。

 この子はもう少し、自分の魅力に自覚的になるべきだ。

 発言だけなら、俺の流用でしかない。けれど、立ち振る舞いと合わせると、暗示的な破壊力が急増する。

 深い吐息の果てに、俺は文葉の頭のてっぺんに頬を乗せるように身体を傾けて寄り添った。自分でも、こんな大胆なスキンシップが取れるやつだとは知らなかった。

 やっぱり、穂架さんは憧れの相手で、文葉は気持ちを寄せる相手だったのかもしれない。


「文葉に遠慮なんてしないよ」

「じゃあ、あたしの我が儘も聞いてね」

「はいはい」

「あ、本気にしてないな?」

「文葉が気遣い屋なのは知ってるから」

「あちこち振り回してるの忘れてない?」

「俺だって好きで付き合ってるよ」


 すんなりと口端に乗せることができることには一驚しかなかった。

 文葉は行間を読むこと優れているが、こういう剥き身な言葉を勘繰るほど無粋でもない。楽しそうに笑われて、どこまで本気で伝わっているのかは分からなかった。けれど、純粋な好意が伝わっているのは分かる。

 それが分かれば十分だった。


「それじゃ、またどこか行こう? 図書館巡りもよくない?」

「そうだな。ひとまず、この一週間どうするか考えよう」

「これの手続きするほうが先じゃない?」


 身を離した文葉が、胸に抱えた本を指先で示す。まったくもってその通りだ。手が塞がって、文葉の行動に自由に仕返すこともできない。頷くと、文葉は軽い足取りで先を進んでいく。

 俺はあくせくせずに、その後ろ姿を追いかけた。

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