第4話「一人もいない市民」
「うへぇ……」
岩棚から下を見つめて思わず口から変な声が漏れる。岩棚の下には樹海が広がっている。そして、その樹海までの距離は軽く百メートルはあるように見えた。底に繋がるのは、崖に張り付いた縄梯子。さっき風で私を宙に放り出したあれである。
「みぞれ様から先に降りていただければ」
「さいですか……」
ここで止まっていても埒<らち>が開かない。私は観念して縄梯子に足をかけた。決して寒くはないのに、凍えそうなほどの悪寒に包まれる。まだ先は長い。ここで止まっているわけにはいかない。私は少しずつ梯子を降り始めた。
幸いだったのは、命綱がないことでむしろ集中力が高まったことだった。降りて行く最中にさっきまでの悪寒は治<おさま>り、代わりに縄がどれだけ軋んでいるか、次はどこに足をかけたら良いかがわかるようになった。
会話はない。おそらく、初心者である私の集中を乱すまいということなのだろう。けれど、それを気まずく感じる暇もなく、私は地面に足をついた。
そこで、疲れがどっとやってきた。頭が熱い。集中のし過ぎで脳の一部がものすごく疲れているような気がする。
「どうしました?」
「なんでもないよ。行こう」
私はあえて笑ってそう言った。岬は疑問を覚えることなく、私を先導し始めた。目の前には鬱蒼とした森が広がっている。
「道は私に任せてください」
「頼もしいね」
実際、彼女はこの道を歩き慣れているようで、獣道のように細い道を足を止めることなく進んでいった。
ある程度進んでから、ふと、この森にはさっきの竜のような生物は住んでいないのかと疑問に思った。蝶々が飛んでいたり土の上にミミズがいたりはするが、超常的な生き物の気配ない。
「この森にはどんな動物が住んでるの?」
「動物ですか」、と前を歩く彼女は足を止めた。歩きながらでもいいのに、わざわざ私に注目して止まって考えてくれる。律儀だ、
「象徴的な動物は、多分狼です」
「こわぁ〜」
「ここ海の国には獅子が住んでいないので、動物の象徴は狼なんです」
なるほど。アフリカのような場所ではないらしい。といっても、私は地理がてんでダメなのでアフリカ以外にライオンが棲息している地域を知らないだけだ。インドやアメリカにはいるのかもしれない。
道を歩いていると、ふと地を這うように低い掠れた声のようなものが薄らと聞こえて、この森に住まう怪物だろうかと岬に問うてみたが、そんなものはおりませんと一蹴されてしまった。
彼女はその後、一通りこの森の生態について説明してくれた。特に何の変哲もない話で、ウサギだとかキツツキだとかが暮らしているそうだ。
しかし、そうなると尚更<なおさら>さっきの竜の存在がよく分からなくなってくる。目視したわけではないが、あれは竜の咆哮だった。私の知っているどんな動物とも違う耳を覆いたくなるような大声が空からやってきたのだ。目には見えないだけで、あの風も竜の羽ばたきが起こしているのだと私は確信していた。
てっきり、彼女の体験している世界にいる動物や現象が私の目には他の生物に映るのかと思ったが、そう単純ではないらしい。
「おっ」
考えながら歩を進めていると、だんだんと森が開けてきて、平地が見えた。
「あ……?」
「見えましたか」
彼女が振り向く。木漏れ日が影を作って彼女の鼻を高く見せた。
「あれが私たちの家から一番近い街、『高空城』です。小高い丘に作られた星形の要塞で、中に街があります」
「ちょっと待ってね、聞こえない?」
「何がですか……?」
「なんか、異音がするじゃん。『ぬちゃ、ぬちゃ』って」
「いえ……? すみません」
岬は分かりやすく困惑していた。目をパチパチと開けたり閉じたりし、無意味に辺りを見回し、私の表情を見て硬直していた。一方の私も硬直していた。あの異音は恐らくあの要塞から出ている。
「けど、なんだろうこの違和感」
これが竜と同じで私にしか聞こえていない生物の音なのだとすれば、竜とイカやタコではずいぶんと状況が異なる。竜は水の化身と聞くし、風や雨の神というのも連想しやすい。現実の雲にあたるものが竜に見えているのかもしれない。
しかし、要塞はそういう自然現象や天災とは全く違う。ただの人工物だ。
「ヘイ岬、今どんな服着てる?」
「えっ、わ、わたし?」
「そう。ユー」
なんと翻訳されているのか興味があるがそれは置いておくとして。
「私は今白い大きめの白いシャツに紺色のパンツを履いています。それが私たち一族の女としての正装だから……」
「うんうん、私の見えてるものと変わらないね」
「はい」と岬は肩を落とした。その動作はよく分からなかったが、とにかく人工物がイコールで生物になっているわけでもなければ、生物が人工物になっているわけでもないのを確認できた。まさか生物を纏っているとは思っていなかったが、一応の確認は大切だ。
「んー……よくわからん。とにかく行ってみようか。例の伝染病が流行ってるっていう街に」
岬が肩の前で手を波のように左右させる。私たちは互いに首を捻りながら街まで歩いて行った。
街の側には馬車の車部分のようなものが置かれていて、そこには穀物がいくらか入っていた。岬は車の積荷を見て少し物憂げな顔をした後、右を向いた。
「ここが門です。音は聞こえますか」
「聞こえるというか……多分触られてる。触感はないけど、後がすごく近い」
私は顔の周りだけは触られないようにと手で空を払いのけ、じりじりと後ろに下がった。
「この要塞は怪物の仮宿、ということなのでしょうか……?」
「そう……なのかなぁ」
タコやイカがこんなところに住むかは分からない。いや、棲んでいるという考えをやめよう。竜が雨雲と風の化身なら、ここにいる生き物も何かの化身だ。それを探るのは、私にしかできない特別なことだ。
岬が私の顔と門を見比べて、
「私にはただの厳<いかめ>しくて古い城門に見えます」
と言った。
「いかめし……イカ飯……」
そう呟くと彼女は「は?」と聞き返すことはしなかったものの、ぽかんとした様子だった。
翻訳の問題に違いない。
彼女は私からの返答がないと知ると、恐る恐る城門に近づき、門を開けた。ガラガラという重いものが地面に擦れる際の音がする。
「門は施錠されていません。今内側から施錠すると誰も入れなくなってしまうので」
そう言って、岬は怪物の体内に入っていった。程なくして、私もそれに続いた。
そこに入って初めて見た光景は、私が想像する伝統的なヨーロッパの市街と何ら変わらないものだった。
石畳が敷かれ、目線の先には広場があり、そこから左に道が続いている。その大きな道の両脇に、オレンジ色をした四角形の、均等に窓が配置された煉瓦造りで二階建ての家屋が立ち並んでいた。しかし、私はそれを異質な光景だと思った。
「岬っち、この国、この世界には多分宗教があると思うんだけど、今日は何か特別な日なの?例えば、みんなが家にこもって神様とか、先祖とかに祈りを捧げる、みたいなさ」
岬が振り向く。肘を曲げて胸の肋あたりにあった手のひらを素早く下におろした。そして、口を開いた。
「いいえ。ですが、みぞれ様が仰りたいたいことはわかります。今日が特別な日だから誰も出てこないのだと、そう問いたいのでしょう……それは、違います」
彼女はうなだれた。
「さっき、家でこの街では病が蔓延していると……そう言いましたね。ですが、それは控えめな表現だったかもしれません」
岬は少し歩いて広場の中心に行った。そして、住宅街の方に目を向けた。その横顔が印象的だった。
「この街、40戸の家族は全員が伝染病に感染しています」
ぴしゃり、彼女は言い放った。私は膝から崩れ落ちた。家々の数々、晴天の昼間、一人もいない市民。街の様子はこの結果を物語っていたのだ。
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