『時間技師と消えたクロノス』
志乃原七海
第1話。消えた時計と、失われた記憶
:消えた時計と、失われた記憶
古時計屋「時の囁き」。その薄暗い店内で、店主のエドワード・アッシュビーは、ただ一人、古い懐中時計の滑らかな金属面を磨いていた。街外れの寂れた通りに佇むこの店に、めったに客は来ない。それでも、エドワードはこの孤独な営みを愛していた。幾世代もの時を刻んできた古時計たちが放つ、過ぎ去った時間への静かな郷愁こそが、彼の心を捉え、日々の淡々とした営みに彩りを与えていたのだ。彼の指先が触れるのは、単なる歯車やゼンマイではない。それは、それぞれの持ち主が刻んだ人生の一部であり、まぎれもない時の痕跡だった。
ある雨の冷たい午後、一人の女性が店のドアベルを鳴らした。真珠のネックレスが仄かに光り、黒のロングコートがその細い体を包む。上品な佇まいの中に、しかし、深い悲しみが影を落としていた。その美貌とは裏腹に、彼女の瞳に宿る寂寥が、店内の古時計たちの静けさにも似ていた。彼女は震える声で、祖母の遺品だという懐中時計の修理を依頼した。それは、象牙の繊細なケースに収められ、内部には職人技が光る精巧な機構。そして、文字盤には、まるで時間と共に色褪せたかのような、微かな薔薇の模様が描かれていた。一目で、並々ならぬ価値を持つアンティークだと分かった。
「この時計には…大切な思い出が詰まっているんです」
そう呟く彼女の言葉に、エドワードは胸の奥に何かを感じ取った。それは単なる懐かしさや感傷とは違う。拭いきれない喪失感、そして、何か隠された秘密を抱えているような、複雑で張り詰めた感情だった。エドワードは静かに時計を受け取り、その精巧な内部を丹念に調べ始めた。長年の時を経てもなお、その機構は息づいていたが、いくつかの部品には確かに摩耗が見られた。
数日後、修理を終えたエドワードは、女性に連絡を取ろうとした。しかし、彼女は名刺も電話番号も、何も残していなかった。まるで最初から、この店に立ち寄った痕跡すら残すつもりはなかったかのように、彼女はただ静かに店を去り、雨の街の雑踏の中へと消えていったのだ。エドワードは、彼女の最後の言葉「大切な思い出が詰まっているんです」を何度も反芻した。その言葉に込められた意味が、ただの感傷ではない、もっと深く、重いものであるように感じられてならなかった。
それから数週間が経った頃、エドワードは、背筋が凍るような事実に気づいた。修理を終え、ショーケースの一番良い場所に置いておいたはずの、あの象牙の懐中時計が、忽然と姿を消していたのだ。彼は店の隅々まで探し回った。ショーケースの中、棚の上、引き出しの奥。しかし、どこにも見つからない。まるで最初から存在しなかったかのように、時計は影も形もなかった。彼は警察に連絡しようとしたが、あの女性に関する情報が皆無であることに気づき、躊躇した。説明できるのは、見ず知らずの女性に預けられ、修理後に消えた、持ち主不明のアンティーク時計のことだけ。警察が本腰を入れて捜査してくれる可能性は限りなく低かった。
この時計の消失は、単なる盗難ではない。エドワードは直感的にそう感じていた。あの女性は一体何者だったのか?そして、なぜ、修理を終えた時計が消えなければならなかったのか?彼女の言葉、「大切な思い出」とは何だったのか?不可解な謎に囚われたエドワードは、独自に調査を始めることにした。彼は店の古い帳簿を引っ張り出し、過去の修理記録や客の情報を手当たり次第に調べ始めた。しかし、あの女性に繋がりそうな情報は、微塵も見つからなかった。まるで、彼女がこの世に存在しない人間であるかのように。
ある夜遅く、埃を被った古い修理記録を整理していたエドワードは、一冊の使い古された日記を見つけた。それは、かつてこの「時の囁き」を守っていた彼の祖父が記したものだった。日記のページをめくるうち、エドワードは奇妙な記述に目を留めた。それは、祖父が若い頃、ある女性から「不思議な懐中時計」を預かったという記述だった。その女性は、時計の中に「何か大切なもの」を隠しており、それが誰にも見つからないようにしてほしいと祖父に託したらしい。そして、時計を預けた後、その女性は忽然と姿を消した、と記されていた。
エドワードの背筋に、冷たいものが這い上がった。祖父の日記に登場する、あの謎めいた女性と、最近店を訪れたあの女性は…同一人物ではないだろうか?そして、消えた懐中時計に隠されていた「大切なもの」とは、一体何だったのか?運命の糸に導かれるように、エドワードは、この連鎖する謎を解き明かすため、祖父の足跡を辿ることを決意した。それは、時を超え、彼の祖父の過去、そして彼の家族の歴史に隠された、想像を絶する真実へと繋がる、長く険しい旅の始まりだった。
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