竜の背の近衛騎士≪オーバーロード≫

渡貫とゐち

第1話



「生き返らせてあげよっか?」




 金色の髪が若干くすんで見える、十歳の少女を抱える軍衣を纏う青年に。


 黒いローブで体を覆った、とんがり帽子を目深に被った少女が笑いかけた。


 王宮の窓から見える町の景色は赤であったり朱色であったり、中には空に上がる黒色も見えた。数え切れない悲鳴が止まない。

 彼の背には徐々に活動範囲を広げて、遂には追いついた火の手があった。



「……任せても、いいんだな?」


「わたしが言うのもなんだけど、もうちょっと警戒したらどうなの? 大切なお姫様の死体を得体の知れない魔女に渡すなんて、このまま奪われて死体人形にでもされたらどうするのよ」


「そん時はお前を地の果てまで追って、俺の剣で斬り殺すだけだ」


 青年は今はなき剣を握り、見えない切っ先を魔女の眼前に向ける。

 片腕で抱える姫の死体を、一層強く抱きしめた。


「死にたくなけりゃ、姫サンを生き返らせろ」


「はいはい、しますよーだ。……失敗なんて、するもんですか……!」


 火の手が、やがて部屋を飲み込んだ。





 骨も残らず砂と化した死者曰く――、世界地図が描けないと言う。

 暗雲の中に紛れたような視界不良の先など到底分からず、敷き詰められた砂がどこまで歩いても足裏の感触に変化をもたらすことがない。


 聞こえるのは地響き。

 消えていく心音。

 太陽の光を通さない灰色の煙を突き破って下りてきた、まるで巨大な塔は遙か上空まで続いている。下ろされる塔は一つだけではない。あと三つだ。

 一つ目の塔が持ち上がり、やがて前方にて下ろされる。

 四つの塔はそうしてゆっくりと、前へ進んでいた。


 死者曰く、砂の大地が永遠に続くと言うのであれば、形に残すことは可能だろう。

 ただの渇いた紙を見せて、これが地図だと言っていいのであれば、の話だが。


 地図なのだから町で言うところの王宮や教会のような点在する施設を描き込まなければ地図とは言えないはずだ。世界で言うところの国がそれにあたる。……しかし。

 その国が常に動いているとなれば、一時的な情報だけを描き込んだ地図に意味はない。これから先の道筋も分からない、過去の軌跡も、目印のない死んだ大地では描くことが困難である。


 ゆえに、世界地図が描けなかったのだ――。



「――食い逃げだァ! そいつを捕まえてくれぇッッ!!」


 堂々とおこなわれた犯罪を目の前に、国の自警を担う騎士の反応は早かった。

 犯人は黒いローブで全身を覆い、特徴的なとんがり帽子を被っていたので特に目についたのだ。


 中年店主の目を欺いたのは良かったが、この酒場にはもう一人いる。

 一人娘が正体不明の余所者の怪しげな動きに気付いたのだ。娘の悲鳴に気付いた店主が叫ぶと同時、皿の上からたくさんの豆を落としたような音が鳴った。


「足んねえなら、次の飯の時に払う!」


 残った料理を慌てて口に含んだので、言葉は上手く伝わらなかったようだ。

 木製テーブルの上に持っている分の小銭をばらまき、店の左右非対称で歪んだ扉を開け放って食い逃げ犯の後を追う。

 左右を見て、人々の視線を頼りにすると、石造りの平坦な家の屋根を駆ける影が。


「あいつ……ッ」


「おい、ディンゴ!!」


 店から出てきた店主が「忘れもんだ!」と乱暴に投げ渡す。

 青色の鞘に収まる細い剣である。青年が受け取り、腰に差した。


「頼んだぞ!!」


 応えるよう、店に向けて軽く手を振り、店の傍に積まれていた酒樽を足場に屋根の上へ。

 凹凸の少ない屋根の上が一望できるため、すぐに相手を見つけられた。


 しかし、距離を離されてしまった上に、見えていた影が、ある場所で消えてしまった。

 屋根から下りたのだろう。

 複雑に入り組んだ町並みで、一度でも姿を見失ってしまうと探し出すのは困難だ。


 自警を担う騎士でさえそれは例外ではないが、彼の場合は事情が違う。

 出自も関係しているが、お利口ではなかったゆえに町の地理には詳しくなっている。


 ……犯罪者の方が道に詳しい、というのはおかしな話ではないかもしれない。

 普段、人が通らない道まで把握しているのは、普通の道が使えない理由があるからだ。

 人に見られたくないがために、そういう道を探しては選んで利用していると言える。


 彼もそうだった。

 だから、犯罪者が利用しそうな道にはあてがある。


「逃げられると思うなよ」




 背後を確認し、追ってくる気配がないことに安堵した黒ローブが壁に体重を預ける。

 うっ、と声を上げたのは、立ちこめる悪臭を吸い込んだからだ。


 黒ローブのおかげで日陰のこの場所で目立つことはないだろう……と思っていたが、人がいること自体が珍しいと思われてしまえば、結果は変わらない。


 道の先から現れた木皮のような肌をした老人が、道の端に落ちている物体を拾い上げては手に持つ容器に入れていく。悪臭の正体はその『物体』であった。

 固くなっているものがあれば、まだ指が沈むほど柔らかいものもあった。


「あんたにはきつい仕事だろう? いや、罰なのであればわしが言うのもなんだが」

「え……」

「そんな綺麗な手で掴むものじゃあない」


 手に泥をつけて、老人が黒ローブとすれ違う。

 老人が歩いた道の端にあった臭いの元凶が、綺麗に取り除かれていた。

 それでも残り香はあるので、一刻も早くこの場から出ようと道を変える。


 しかし同じことだ。日が当たる人通りの多い道は掃除が行き届いた綺麗な場所なのだが、たった少しずれた日陰の道に入るだけで、悪臭に包まれる。

 ぼとっ、とどこからか投げられた布袋が道の端に落とされた。

 袋越しならばまだマシな方だろう。

 人から出たそれがそのまま落とされることはなにも珍しいことではないのだ。


「なによ、これ……」


「人間のクソ溜めだ」


 声に気付いて背後を振り返ったが、遅かった。

 声の主から伸びた手が黒ローブを離さず、強く壁に叩きつけられ、息が吐き出された。


 腕によって首が壁に押し付けられ、足が宙に浮く。

 苦痛に表情を歪めるが、とんがり帽子のおかげで表情は見えない……。だから余裕を見せられる、と思ったが、衝撃でずれた帽子が左右に揺れながら地面に滑り落ちた。


「お前……」


 剣に手をかけていた青年の手がぴたりと止まる。


「――女か」


 ディンゴよりも年下の女の子。

 身軽な動き、手馴れた行動からまだ動ける年寄りかと思ったが、まだ幼い子供だとは。

 落ち着いた赤色の髪を、首の裏あたりで結び、二本の束を垂らしているようだ。

 ローブの中にしまい込んでいるので長さまでは分からないが。


 抵抗しない、と首を左右に振ったので、足を地面に着地させる。

 彼女は落ちた帽子を拾って軽く手の平ではたき、被り直した。


「この臭い……」

「言ったろ、クソの溜め場所だって」


 嫌悪感を示す少女の横顔を見て、ディンゴは違和感に気付いた。

 こうした狭い道に人の糞が落とされることは、この国では当たり前になっている。


 定期的に掃除をしているので悪臭がいつまでも残ったりはしないが、それに今日の臭いはまだきつくない方だ。

 ……鼻が麻痺しているのかもしれないが、この国の一般的な感覚から離れているとは思わない。

 嫌悪し過ぎている彼女の方が、この国では異端に見える。


「おい、お前――」


 少女に伸ばした手が、ローブを掴んだところで止まった。


「ん、ディンゴか? なにやってんだこんなとこで」


 同じ軍衣を身に纏う顔見知りの騎士が顔を出した。

 井戸から汲んだ水を容器に入れて持っているので、どうやらこの場所の掃除当番らしい。

 仕事としては嫌な役目だが、国にとって重要な『契約』であるため、半端な立場の人間には任せられない仕事になっている。

 ……のだが、嫌がる騎士が、金や人には言えないようなことを取引きして、庶民に手伝わせているのが暗黙のルールになっている。


 もちろん誰もがそうではない。

 いま現れた男は、自分で掃除をしようとしている。


「手伝ってくれんのかよ? いや、クサイお前を姫様の元へ送り出したとなったら、俺が罰を喰らうことになるな」


 冗談交じりだったが、手伝ってほしいのは本音らしい。ディンゴも通った道だ、今でこそこんな仕事を任せられる地位からは脱したが、離れた今でもつらさはよく分かる。

 だからこそ、手伝うのはご免だ。


「ちょうど良いな、こいつを――」


 掴んだローブが、気付けば軽くなっていた。

 振り返ればそこにいたはずの少女の姿がもう既になく、上空から、消し切れていない足音が聞こえてきた。


「あいつ!!」


「なんか取り込み中だったか? 悪いな。それにしてもお前、ここにいていいのか? 王宮がばたばたしてたんだが……ってことは、姫様に縁談の話があったって噂は本当みたいだな」


 お前は知ってたか? に応えもせず、瞬間でディンゴが駆け出した。




 向かい風を浴び、最も出世した仲間を見送った騎士の一人が、


「相変わらずお熱いねえ。姫様以外にはなに一つ興味がないあのスタンスは、近衛騎士としては最も向いているのかもしれないな」


 さて、と息を吐き、容器を置いて掃除を始める。


「あいつが女の子と一緒にいるなんて珍しいこともあるもんだ。……姫様よりは年が上に見えたし……あいつに限って……まあ、ねえな」





 この国を真上から見下ろせば綺麗な円形になっており、ディンゴが身を置く王宮は真ん中に位置している。

 凹凸の少ない石造りの住居が多い中、王宮だけは縦にも横にも広く作られていた。王宮だけが突出しており、そしてこの国、唯一の王族が住んでいる。


 短い昼休みを利用して酒場にいっていたディンゴは、もっと早く戻る予定でいたのだが、食い逃げ犯を追いかけている内に多くの時間を取られていたらしい。

 そのため戻る予定の時間が大幅にずれてしまっていた。


 真っ白な王宮の巨大な門を守る、左右に立つ騎士の内、片方が剣を抜く。


「遅い!!」


 おいおい、と片方の騎士が呆れた様子だが、止めもしないようだ。


「あのなあ、こっちにも事情があったんだ、いいから剣をしまえ」

「姫様の近衛騎士だという自覚が足りないのよ、だから平然と遅刻できる!」

「平然となんてしてねえよ、これでも焦ってんだから」


 町のはずれから全力疾走で戻ってきたため、軍衣の内側まで汗で湿っている。


「一人で休憩を取るからでしょ。誰かと……、わ、私とか誘えばいいじゃないっ」

「いや、お前は門番この仕事があるだろ」


 タイミングが合えば誘わないこともないが、仕事が被ってしまえば誘うはずもない。

 正論のはずなのに、幼馴染の少女はいつも通りにおかしなタイミングで不機嫌になる。


「お前、その癖、まだ直ってないのかよ……」

「断られることが分かっていても一度は誘うの!」

「分かってるなら誘わねえって。意味が分かんねえよ……」


 まともに取り合っていたら時間の無駄になる。そもそも遅刻をしているのだから一秒さえも惜しいのだ。遅刻を咎めておきながらこの場に拘束している幼馴染は、やはり分からない。


 すると、


「……ん?」


 門の中、太い柱に隠れているものの、顔だけをこっちに出して窺う幼女の姿が。

 ディンゴと目が合うと、小さな手を出して、こっちこっちと手招きしてくる。


 門の外だけでなく、庭に出ることさえも難しい立場のはずだが、いつものように監視の目を盗んで抜け出してきたのだろう。

 ディンゴがいなくてもここまで抜け出せてこれた成長速度の早さに感動を覚えたが……そうこうしている内に、あまり待たせても悪い。

 幼馴染の説教を聞き流して、門を開けて王宮の中へ。


「――結果はどうあれ一度は誘ってほしいのが気持ちっていうか、誘うのを建前に一日に一回くらいは話しかけてくれてもいいじゃないのあんた全然、家に帰ってこないんだか」

「エナ、もういないぞ」


 門の内側にいるディンゴに気付いた幼馴染が「はぁああああっ!?」と、門番でありながら持ち場を離れようと門に手をかける。


「――待ちなさいよ、ディンゴッ!」

「夜飯には誘ってやるよ。だからそれまで待っとけ」

「…………」


 急に黙ったエナに、気になったもう一人の門番がちらりと視線を移すと、


「……え、きゅ、急にそんなこと……よ、夜、え、え? な、なに着てこうかな……」


 乙女の顔をし、一人で悶え出したエナから一歩下がる。

 午後はまだ始まったばかりだ。

 夜までずっとこうなのか、と辟易する門番だった。




「どこいってたのよ役立たず、大事な時にいないなら、おまえがいる意味ないじゃない」

「すんません姫サン。んで、なにかあったんですか。そういや縁談がなんとか――」

「知ってるならなおさら早くこい!」


 スカートをたくし上げ、傷一つない白く細い足によって蹴られた。

 ディンゴが顔を俯かせなければ、向き合っても彼女の顔を見ることは叶わない。


 所々にしわが見える純白のドレス。長く、整えられた金色の髪も激しく動いたせいか乱れてしまっていた。王女が見たらなによりも優先して櫛を持ち出しそうだ。


「それで、どういった状況なので?」

「……あいつがきてるのよ」


 苦虫を噛み潰したような表情をしながら、あいつとなれば心当たりがある。

 どうやらこの反応を見るに、噂ではなく実際に縁談が持ち込まれたらしい。


「あいつに会わないように――」



「あっ、こんなところにいたのですか、アリス姫っ」



 ひっ!? と青ざめたお姫様が素早くディンゴの背に隠れた。

 服をつまんで、しかもその先の肌をつねりながら、まったく力を緩めてくれない。

 痛いと訴えても威嚇するのに夢中で聞き耳を持ってはくれなかった。


「おやおや、未だ人見知りは治らないようですね」


「「死ね」」


 と、声が揃ったが、相手にはディンゴの声しか聞こえなかったようだ。


「い、一国の王子に向かって死ねとはなんだッ、不敬罪で斬り捨ててもいいんだぞ!?」

「おっ、やるか? 再戦ならいつでも待ってるんだがな」


 ディンゴは腰に差した剣を指先で弾くと、今度は目の前の男が、ひっ!? と怯えた。

 見た目だけは良く、金色の鉄鎧を身に纏っているのだが、やはり根っからの騎士ではなく、向いてなさそうでも王子なのだろう。


 怯えることは劣等ではない。

 危機察知能力は人の上に立つ者が持つべき力だ。

 ……そういう意味では、素質がないわけではないらしい。

 少なくとも、身を守るために武器ではなく鎧を選ぶあたり、兵士には向いていないだろう。


「冗談だ、そもそもお前は剣を持ってねえじゃねえか」

「アリス姫を恐がらせてしまうため、持ってきてはいないのだ」


 小さな気遣いができる良い男だろう? とでも言いたげな流し目をしているが、現状、その気遣いが徒労に終わっていることを奴は気づけていなかった。


「ガチガチに鎧を着てるけど、喉元を裂いたら終わりよね」

「言うな姫サン。あいつはあいつで顔に自信があるから命が危なくても顔まで守ろうとはしねえんだよ、そういう信念がある奴は嫌いじゃねえ。あいつは嫌いだが」

「おい! こそこそと話しているでない! 私も混ぜたまえよ!」


 一歩、近づいてくる足音に気付いて、ディンゴが咄嗟に剣を握る。


「うっ」


「つーか、約束が違うぞ? お前と俺で一騎打ちをして、お前は負けたはずだ。金輪際、姫サンにちょっかいを出すなとウチの王から言われてるはずなんだがな」


「た、確かに……そうだ。今回はなにやら縁談を持ちかけたとそちらでは捉えているようだが、私としてはちょっかいを出しにきたつもりはなくてだな……。あ、アリス姫の好感度を上げたいがためにアピールをしにきてはならぬのか!?」


 ……かつて、ちょっかいを出すな、とは言ったが、諦めろとは言っていない。

 もし言っていたとしても、強引な方法ではなく、正面から堂々と会いにきたとなれば問答無用で追い返すというのはこちらの器が小さく映ってしまうだろう。


 実際、他国の王子がこうして訪れているのだ、お姫様の父親である国王が、理由は分からないが許可を出した、ということだ。


「無理強いはしない。アリス姫、誤解を解きたいので私と食事でも――」

「絶対に、やっ」


 べっ、と舌を出して、お姫様は王宮の中へ入ってしまう。拒絶されたことに傷心でもしているのかと思えば、他国の王子は胸を手で押さえて、その場でうずくまっている。


「くっ、可愛過ぎるだろう……!」

「良い大人が気持ち悪い反応すんなよ、年齢を考えろ」

「私はまだ一八なんだが!?」


 予想に反してまだ若い。ディンゴの一つ年上だったらしい。


「いや、歳を考えろ。姫サンはまだ一〇歳だぞ?」

「好きになったものは仕方がないだろう。たとえ倍以上の差があろうと、私は同じようにアリス姫を好きになっていたはずだ!」

「どっちにしろ気持ち悪い」


「……おまえがそれを言うのか」


 振り向けば、冷たい視線を向けてくるお姫様がいた。


「あれ、部屋に逃げ……戻ったのでは?」


「おまえがいつまで経っても追いかけてこないから戻ったんだっ! そしたら聞き捨てならない言葉が聞こえたから耳をうたがったぞ」

「なにがです?」

「おまえが! あの王子のことを気持ち悪いと言ったのが! だ!」


「アリス姫、私を庇ってくれて……!」

「おまえとは話してないわぁばかぁ!」


 怒涛の勢いで叫んだせいで、お姫様の息がぜえぜえと上がってしまっている。


「……姫サン、疲れません?」

「おまえぇ……ッ!」


 土の下から聞こえてきそうな声である。


「……なにをしておるか、お前たちは」


 と、王宮の大仰な扉が開き、顔を出したのはこの国の王……


 アリス姫の父親だった。



 耳まで繋がる顎髭。

 目立たない装飾を施した落ち着いた色のマントを羽織っている。

 竜が象られた持ち手の杖を握り、かつんっ、と自らの歩みを周囲へ知らせている。


「げっ、父上……」

「アリス、どうしてここにいる?」


 本来ならアリス姫はこの場にはいないはずだ。自室で勉強をしている時間である。

 しかし彼女の一カ所に留まれない性格ゆえに、人を欺き抜け出しているのだから、国王の怒りはごもっともであった。

 こういう姫様の監視もディンゴは担っているのだが、いつもならばまだしも、今日は目を離した時間が多かったし、自分のミスによる遅刻を国王に告げる――のもしたくはなかった。


 最悪、姫様の近衛騎士から除名されてしまう。

 元々、先代近衛騎士の推薦によりごり押しされた経緯であるため、国王はあまり快く思っていない。そのため、隙あらば除名しようとしてくるのだから油断ならない。


 そんなディンゴの内心を知ってか知らずか、なんにせよ姫様は最高の選択をした。


「あ、あの王子に無理やり誘われて……こ、恐かった……!」

「えぇ!? ちょ、無理やりに誘ってなどいませんよ、誤解です、お父様!」

「ほぉ。聞き捨てならぬな、誰がお父様か、クズ野郎」


 国王の杖が、王子の眼前に突きつけられる。


「国王ー、断頭台の準備しますかね?」

「頼もう」

「頼もう、ではないでしょう!? く、貴様、騎士の分際で……ッ!」


 王子に向けて軽く手を振り、ディンゴが姫様の小さな体を持ち上げた。

 肩と膝の裏を支える、最も相応しい人物のためのお姫様抱っこだ。


 すると、姫様が自分の胸を両手で防御している。

 年相応の、控えめ以下の胸だ。


「なに警戒してるんですか」

「信用ならないからだ」

「そんな相手を近衛騎士に置いて、今更……」


「仕事はできる、だから信頼はしている。でも、おまえがわたしを見る時の目も、たまに以上に恐い時があるからな?」

「へえ。あ、守ってるところ悪いですけど、胸なんて触りませんよ」

「どーだか」


「胸なんてないようなものですから、今まさに触れている肩だって胸となんら変わりないでしょうよ。つまり、俺にとっては姫サンの体の一部分に触れているだけで満足です」

「き、気持ち悪い! 下ろせ下ろせ、すぐに死ね!」


 じたばたともがくアリス姫だったが、その程度で振り解けるほどディンゴの拘束力は甘くはなかった。姫様を抱いたまま、予定通りに自室へ送り届ける。

 アリス姫の自室には、彼女をそのまま大人にまで成長させたような(とは言え、胸だけはどうなるか分からないが)容姿の女性が先んじて待っていた。


「あら、おかえりなさい。良かったわね、アリス。お兄ちゃんに抱っこしてもらえて」

「か、母様! ち、違うよ、あいつ、わたしの体をさり気なく揉んだりしてきて――」


「歩いた時の振動のせいでそう感じるだけなのでは?」

「じゃあ途中で呟いた『やっぱりないか』はなんだったんだこら」


 一応、確認した結果、成長期はまだらしかった。


「こら、アリス。そんな言葉遣いは、ダメよ」


 人差し指を唇に当て、優しく諭すアリスの母親――もとい、国の王女である。

 国王が他国の王子となにやら貿易の話をしている最中、その伴侶は子供のお勉強を見ているというのは、平和の象徴なのかもしれなかった。


「ディンゴもどう? 一緒に」

「いえ、俺は普通に騎士の仕事がありますし」


「それは残念。……あら、腰に巻いているその布はなに? オシャレなのかしら」

「ああ、これ……預かりものです」


 食い逃げ犯から奪ったローブなのだが、犯罪者を逃がしたまま放置しているとなると体裁が悪いので、咄嗟に嘘を吐いた。まあ、返す予定ではいるので嘘でもない。


「んー」


 アリス姫が寄ってきて、ローブを掴んで臭いを嗅ぎ始めた。持ち主を知っているからこそ激しく止めはしないが、外部の人間が持っていた物だ……綺麗とは言い難いだろう。

 顔をしかめた姫様だったが、嫌悪感よりも、なんだかむくれているようにも見える。


「……女のものだ」

「よく分かりましたね、女が身につけていたものですよ」

「え、奪っ、え……?」


 衣服、奪う、無理やり、と姫様の中で連想されたようで、むくれた顔も一瞬で消えて一気に嫌悪感が巻き返してきたようだ。


「さ、最低! おまえは遂にそこまで……!」

「あ、もしかして無理やり衣服を剥がしてきたとでも勘違いしてますか? しませんよ、もしもしなければならない状況に陥ったら、姫サンにします」

「おまえってもしかして、わたしの近衛騎士にいちばん相応しくない……?」


 にこにこ笑顔だった王女も、さすがに笑みのままでも苦笑いだった。



 だけど。


 ……病的なまでのアリスへの忠誠心が、今の地位まで登り詰めた彼の努力の源よね。



 王女は知っている。どんな状況で、どんな選択肢を突きつけられても、ディンゴだけは絶対にアリスを裏切らないと、信じることができる。

 だからこそ国王の反対を押し切ってでも、彼を近衛騎士にすることに賛成したのだから。


 慣れない野外活動、人との会話、様々な障害を乗り越えて――、

 多くの人々の、ディンゴへの支持を集めた。

 彼を陥れるような者がいれば、王女自らが率先して彼を守ると心に決めている。




 誰が分かっただろう――かつて町を騒がす悪ガキだったディンゴが、今ではこうして姫様の近衛騎士をしているだなんて、未来を。

 騎士としてまったく芽が出なかった、落ちこぼれだった彼の姿は、凡人以下にしか見えなかったはずだ。


 人は変わるものだ。

 そして、変えたのは、当時はまだ六歳になったばかりの、アリス姫なのだ。



 …つづく

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