第25話 肉欲
上手くいかなかった? 冗談だろ?
困惑が焦りを産み、焦りが恐怖を助長する。
(不味い! 不味いっ! 不味いっっ!)
頭の中が恐怖に痺れて何も考えられなくなりそうだった。
弾かれたように足をばたつかせる。
全身にありったけの力を込めてもがく。
異形の姿になっても変わらず華奢なプリシラの体躯。どこにそんな力があるんだ。
俺は身動き一つできずに、再び迫ってくるプリシラの顔をなす術なく眺める。
(喰われるっ!)
耳元に獣じみた息遣いが聞こえる。
これから襲うだろう激痛に俺は身体を硬ばらせた。
でも、伝わってきたのは違う感覚だった。
背筋がゾワリとするような、ねっとりとした感触が喰い破られた肩の傷を這う。
その感触は首筋を這うように耳に達して--。
「テッド……」
その声を聞いた。
思わず目を見開いた。
甘い響きすら含んだプリシラの声。
唐突に、プリシラは身を起こした。
「あぁぁ、テッド、テッドテッドテッドぉ!!」
何が起きたのか、すぐには分からなかった。
熱に浮かされたように俺の名を呼びながら、身悶えるように身体を揺らすプリシラに視線が釘付けになる。
困惑と恐怖の入り混じった視線の先で、ようやく何が起きたのかが、いやーー何が起きようとしているのかがわかった。
黒とも茶とも言えない獣毛に覆われたプリシラの体がびくりと身体を震わせる。
その身体が一瞬膨れ上がったかと思うと、みるみるうちに獣毛が抜け落ちて白い肌に戻っていく。
その凶悪な両腕を除いて。
相変わらず両肩を掴んで押し倒されたままの俺の目の前で、プリシラの身体が元に戻っていく。
もともと焼け焦げていた衣服はとうに無くなってしまっていて、プリシラの白い肌が露わになる。細い脚、華奢な腰、それにささやかな膨らみも。
(上手く……いったのか?)
そう思った。
けれど--。
「テッド、テッドが欲しい! 欲しい欲しい欲しい!!」
再び俺を見たプリシラの目には未だ狂気が宿っていた。
プリシラの顔がまた近づく。
鼻を鳴らして俺の匂いを嗅ぎ、そしてまたあのねっとりとした感触が首筋を襲う。
さっきはそれが何かわからなかった。けど今はわかる。
プリシラの舌が、俺の肌を這っている。
「やめろっ! プリシーーんぐっ!」
なんだかよく分からない、頭が混乱して上手く理解できない。けどこんなのはダメだ。そう思って声を上げようとした。けどそれも遮られた。
(なんだよ……なんだよこれっ!)
唇に触れる柔らかな感触。
目の前いっぱいにプリシラの顔がある。
キスをしてる。
激しく、奪い取ろうとするような口付け。
プリシラの舌が口の中に入ってきて、蹂躙される。
頭が真っ白になる。
(なんだ、何だこれ。何がどうなった?)
どうして良いかも分からないまま、されるがままになった俺から、ようやくプリシラの顔が離れて行く。
口元から滴って糸を引く唾液が、酷く
遅れ馳せに、肩を掴むプリシラの腕から力が抜けている事に気づく。
これなら腕が動く。
動かそうとすれば悲鳴をあげる両腕に力を込めて、プリシラに手を伸ばそうとした。
けれど、それも途中で遮られた。
床から起き上がりかけた半身がまた床に叩きつけられる。
今度は胸だ。胸に置かれたプリシラの左腕が体重をかけて俺を起きられないようにしていた。
(何をしてる? 何がしたいんだ?)
混乱した頭で必死に考える。
そうしているうちに、プリシラは腕に体重をかけたままズリズリと後ずさっていく。
そして、俺はギョッとして身をよじった。
「欲しい、欲しいのテッド。あなたをちょうだい」
恍惚とした表情でうわ言のように繰り返しながら、プリシラの右手が俺の下半身を這う。指が太ももを這い、ベルトに手をかける。
俺だってガキじゃない。その意味ぐらいはわかる。
「やめろプリシラ! 何やってんだ!」
「私のモノになって、テッド。全部、全部欲しいの。あなたの全部。何もかも!」
必死の叫びもプリシラに届かない。
熱に浮かされたように上気した顔が、妖艶に俺を見下ろしている。
「いい加減にっ!」
さっきよりも力が弱まってる。
これなら振りほどける。そう考えて、俺は勢いよく身体を起こした。
それは上手くいった。だけどーー。
「私のモノに、お願い。それがダメなら……死んでっ!」
それは速かった。目にも留まらぬほど。
防ぐ間も無く、プリシラの異形化した両手が俺の首を絞めた。
「私以外の誰のモノにもならないように!」
途端に息がつまる。
意識が遠のく。
どうにか振りほどこうと、プリシラの腕を掴んだ。それでも、ビクともしない。
万策尽きたか、そう思ったその時だった。
不意に首を絞める力が弱まった。
霞む目を凝らして見たプリシラの顔はひどく狼狽して見えた。
「……いや……違う。……私……」
聞こえるのはか細くうわずった声。
それから--。
「いやぁぁぁぁぁっ! 私……何を……? 嫌……私テッドをっ! 違うっ違うっ違うっ!」
突然の悲鳴。
でも確かに、それはプリシラの声。
俺の知っているプリシラの。
飛びのくように俺から離れたプリシラの目には狂気は見えない。
(戻った? いや、でも--)
プリシラは壁際で頭を抱えて苦しんでいるように見えた。
どうにか立ち上がり、おそろおそるプリシラに呼びかけた。
「プリシラ……?」
「来ないでテッド! 私…私っ!!」
叫ぶような拒絶。
どうにも様子が変だ。
だがどうしたらいい?
迷っている間に、プリシラにまた異変が起きる。
プリシラの力無く立つその裸体が、黒い霧に包まれていく
また異形化し始めているんだ。
ここまでしてようやく戻ったのに。
(無駄なのか、やっぱり何をしても……)
疲れ切った体と心が、何もかも諦めてしまいそうになる。
何をしてるんだ、俺は。プリシラを救うと言いながら、その実プリシラを追い詰めて苦しめているだけじゃないのかと。
「テッド……、テッドォォォっ!」
朦朧とし始めた意識の中で、俺はまたプリシラの叫び声を聞いた。
どうしようもなく足が
頭を抱えてうずくまるプリシラを前にして、俺は立っている事すら覚束ない。
「プリシラ……」
また、恐る恐るその名を呼んだ。
途端に、弾かれる様にプリシラが飛びかかってくる。
その目には、一瞬垣間見えた理性はカケラもない。
鋭い獣の爪が、何度も空を切る。
気を抜けば崩れ落ちそうな足腰に鞭打って、必死で避けた。
それでも避けきれずにまた傷を増やしながら、俺はプリシラの爪の届かない所まで後ずさる。
酷く乱れた息をどうにか整えようと空気を求めて喘ぐ。ヒューヒューと情けない息遣いが妙に大きく聞こえる。
(どうにか態勢を立て直して……)
朦朧とする頭でそう考えた矢先だ。
耳障りな金属音が鼓膜を震わせる。それにパラパラと何かがこぼれ落ちる音。
何度も、何度も何度も。その度に全身から冷や汗が噴き出すようだった。
そしてついに、ガシャンと何かが石敷きの床に落ちた。
それに続く鎖を引きずる不穏な音に、俺はその意味を直感的に理解した。
風が吹いた。そんな気がする。
いや、気のせいなんかじゃない。
派手に頰が裂け、血が吹き出して初めて、そこがもう安全じゃないと思い知る。
プリシラの右腕から垂れ下がる鎖は、もう壁に縫い止められていない。
(まただ。また……聞こえる)
鎖の揺れる音が何度も響いて反響する。
そしてガシャリと、重い金属音が響いた。
それがどういう事か、もう考えるまでもない。俺にはもう逃げ場がなくなった。そういう事だ。
ダメだ。次の一撃はもう避けられない。
そう思った。
黒い霧を纏ったプリシラの動きが酷くゆっくりと見える。
両腕を振りかぶり、獣の様な前傾姿勢で向かってくる。
直感が教える。首だ。
首を狙ってる。
仕留める気なんだと、そう理解した。
だけど同時に、俺は見たんだ。
唸り声を上げながら駆けてくるプリシラのその頬を涙が伝っているのを。
俺の中で何かが弾けて、何もかもが鮮明に見える。
強烈な衝撃を受けて、鉄格子に叩きつけられる。
肺の空気が押し出されて、息が吸えない。
それでも--。
俺の両手は、プリシラの腕をしっかりと掴んでいた。
「……捕まえたぞ、プリシラ!」
吼える。
あらん限りの声で。
掴んだプリシラの腕は、信じられないほどの力で俺の首を絞めようと空を掴む。
一瞬でも力を緩めたら、俺は首を折られて死ぬだろう。
こんなにもプリシラは俺を殺そうとしている。それなのに--。
「……して、テッ……ド……おね……がい……こ……して……」
泣いている。
狂気に歪んだ口元が、死を懇願している。
あの日みたいに。
まったく、まったく冗談じゃない。
そんなのはもう、クソ喰らえだ。
限界だった、もう我慢ならなかった。
だから叫ぶ。
「……うるせぇよ。お前の言うことなんか! 泣いて頼まれたって、何も聞いてやるもんか! まっぴらだ! もう沢山だ! 俺はお前にっ--」
生きていて欲しかったんだ。
あの時も、今も、プリシラ。お前に生きていて欲しい。
だから--!
「腕なら替えがあるっ! 切り落とせテッド君っ! やるんだっ!!」
鉄格子の向こうから背に受けた教授の怒鳴り声に頭がハッキリとする。
やるべき事が理解できる。
そうだ、やれる事はまだある。このちっぽけな手に、まだプリシラを救う手立てがある。
それが例え俺の独り善がりだったとしても、もう構うもんか。
身体の中の呪いの力に呼び掛ける。
俺の身体がどうなってもいい。そう思った瞬間に、それは簡単に溢れ出し、俺に力をくれる。
全身を痛みが走る。骨まで呪いが染み込んで、ミシミシと軋む。呪いが身体の内側から俺を蝕んでいくのがわかる。
でも、支払うことになる代償の事なんか、今はどうだってよかった。
俺の両腕が、いびつに隆起するのがわかる。
掴んでそこに繋ぎ止めるのがやっとだったプリシラの腕を、力任せにねじ上げる。
獣の様な咆哮が耳をつんざいた。
けど構うもんか。
「恨んでくれていい! それでも俺はっ! プリシラっ!」
一瞬の出来事だった。
力任せに腕を振り払う。姿勢を崩したプリシラのその両肩に両の手刀を叩き込む。
肌を貫き、肉を裂き、骨を断つ感触が手に伝わる。
獣の腕が宙を舞い、べチャリと水っぽい音を立てて地に落ちる。
その瞬間、纏わりつく様にプリシラを覆っていた呪いの気配が霧散していくのがわかった。
糸の切れた操り人形のように、プリシラの身体がゆらりとゆれて崩れ落ちる。
彼女の血で染まった両腕で、俺はその華奢な身体を抱きしめた。
「テッド君! プリシラ!」
勢いよく音を立てて開く鉄格子。
気怠げにもたげた視線の先で教授が何か言っている。
教授は纏っていた白衣を脱いで、プリシラの肩にかけた。
(やった……のか? 上手くやれたのか?)
俺はプリシラを--。
わからない。わからないけど。
酷く疲れていて。立ち上がる事はおろか、もう声を出すことも出来ない。
霞む視界の奥で、教授が何か言っている。
いつのまにか、俺を取り囲むマルクの、それに弟妹達の顔。
泣き出しそうな、いや、泣いているのか。
泣くなよ。
だって俺はプリシラを--。
助けたんだから。
酷く眠くて、目も開けていられない。
視界が黒く塗りつぶされて、俺はそのまま意識を手放した。
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