第一章

任地へ

 明晰夢という言葉がある。

 それは睡眠中に夢を見ているとき、それが夢だと自覚している状態を指すそうだ。ならば、これは明晰夢ということになる。


 彼女は一瞬にして、それが夢だと気付いたからだ。

 何度も見た夢。そして、それは夢であると同時に彼女の記憶でもあった。


 夢の中の幼い彼女は、一人の女性に目を向けていた。その女性は長身で、腰に届くほど長い髪を持ち、飾り気がないワンピースを着ている。その髪も、そのワンピースも、どちらもミルクのように真っ白だった。


 その女性に対して、親しみや慕わしさを持っていたことは憶えている。

 しかし、それ以外が分からない。その女性とどのような経緯で会ったか。その女性は何者だったか。何もかもが思い出せない。


 どこかに思い出すヒントはないか。彼女は夢を観察していった。

 しかし、夢は途中で終わってしまう。いつも最後まで見ることができなかった。


「ん……」


 こもったような声が洩れる。

 ヒメナ・ガルメンディアは、夢から醒めた。


 比較的、背が低くて小柄な少女だ。瞳は虹彩がエメラルドのような緑。髪は深海のような青で、アシンメトリーのボブカット。丸首シャツを着て、ショートパンツを穿いている。シャツとパンツは、ともにライトグレーで揃えられていた。


 ヒメナは、壁にもたれていた身体を起こす。すこしして、うたた寝をしていたことに気付いた。続けて、座っているのが自室の座り慣れた椅子でないことも気付く。


 ヒメナは頭を働かせ、現状を把握しようとした。

 前方には、木でできた壁が見える。しかし、左方右方には窓があった。窓の景色は絶えず移り変わっている。座っているシートからは、跳ねるような衝撃が伝わってきた。耳を澄ますと、パカパカという軽快な音が聞こえてくる。


 これらにより思い出す。ヒメナは、馬車に乗っていたのだった。


 やっと頭が冴えてきた。馬車に乗っていたわけは瞬時に思い出せる。

 ヒメナはいま、レルマに向かっていたのだ。


 レルマとは、オルティス大陸にあるバルレラ王国の東に位置する城塞都市である。そして、ヒメナが生まれ育った故郷でもあった。


 だが故郷だからと言って、帰省が目的というわけではない。レルマに向かっていたのは、就職のためだ。


 ヒメナはレルマを離れ、王都の学園に通っていた。学園は今年で卒業となり、働き始めることになったのだが、その勤務先がレルマだったのである。


「おーい、嬢ちゃん。起きてるか?」


 ふいに御者の声が前方から飛んでくる。


「見えてきたぞ。ぼちぼち降りる準備してくれ」


 ヒメナは窓際に寄り、外を覗く。

 巨大な城壁が見えた。ヒメナはすぐに分かる。それは、幼少期に何度も内側から見た城壁。


 ちょうどよいタイミングで目覚めたらしい。ヒメナはレルマに帰ってこられたようだ。


 馬車が城門前の小砦に着く。御者が看守に通行証を見せてから、馬車は小砦を潜り、築城橋を渡る。そして寒く、薄暗い城門塔を抜けると、視界が一気に広がった。


 石畳が敷き詰められ、広狭さまざまな道によって区切られた、縦長かつ赤い瓦屋根の家々が立ち並ぶ景色が目に飛び込んでくる。

 ヒメナの胸にぶわっと懐かしさが噴き出した。


 中央広場まで進むと、御者から促される。ヒメナは馬車を降りた。

 石畳の感触を味わうように立ち、周囲をぐるりと見回していく。肉屋も、鍛冶屋も、縫製店も残っている。


 街が変わっていないことを、ヒメナは嬉しく感じていた。

 だが、御者は真逆の感想を持ったらしい。


「この街も随分、変わったもんだなぁ」


 ヒメナは小首を傾げる。


「レルマに来たのは十二年ぶりだが、店が倍以上に増えた。あのときとは活気が比べものになんねぇよ」


 話す御者を見つめながら、ヒメナは納得した。

 比べる時期が異なっていたらしい。十二年前と言うと、が終結したばかりだ。ならば、御者がそう思うことも無理はなかった。


 一八年前からの六年間、このオルティス大陸でくり広げられていた戦争があった。

 それが〈魔女戦争〉だ。


 まず魔女とは、別次元に存在する異形──悪魔という存在と契約を、その手段が記された〈魔書ましょ〉を用いて交わした女性を指す。


 悪魔は、体内で生成した〈魔素まそ〉を基として魔術という超常的な力を行使できた。また、人間の女性が有する血肉や魂を食らうことを好んだ。魔女となった女性は、それらを代償として差し出すことで魔素を享受でき、そして自身も魔術を行使できるようになった。


 魔女は、魔術をもっぱら殺人や強盗などの犯罪行為に用いた。各国は〝魔女狩り〟と称して、魔女の摘発、収監、処罰を続けてきたが、魔女および彼女らが起こした事件は増加の一途を辿り、四半世紀前ほどから取り締まりが追いつかなくなる。そして、ついに魔女は彼女たちだけの国である〈魔女領国まじょりょうごく〉を興した。


 魔女戦争は、魔女領国と、人間率いる諸国によって結成された連合軍が衝突したものだった。連合軍は多くの犠牲を払いながらも、なんとか勝利を掴む。


 終戦後、魔女領国は解体され、魔女は一人残らず火刑に処された。そして魔書全六百六十六冊はすべて接収され、大陸のどこかにあるという禁書庫で厳重に保管されることになったのだった。


「レルマだけじゃないが、終戦後の都市はどこもひどかった」


 御者は、顔を苦々しげに歪める。


「息苦しいぐらいに空気が澱んでたぜ。いや、戦時中はもっとひどかったな。空気が張り詰めて痛ぇぐらいだった」


 決して誇張ではないだろう。ヒメナは他にも何人かから戦時中のエピソードを聞いたことがあったが、みな御者と似たような感想を語っていた。


「あんなんはもう御免だ。魔女に限らず、悪ぃやつらは早めに捕まえてくれよ」


 御者が頼むように告げる。その言葉は、ヒメナがレルマでどんな職業に就くかを知っていたからこそ出たのだろう。


 ヒメナはこのレルマで、騎士になる予定だった。

 騎士とは、国ないし都市の安全と秩序を守ることを職分とする者を指す。具体的には、犯罪の捜査、暴動の鎮圧、人民の保護、外敵の排除などだ。


 ヒメナは背筋を伸ばし、右手で作った拳で胸を叩く。


「ご安心ください。王国の平和と安全は、我々騎士が守ります」


「頼もしいじゃねぇか。じゃ、よろしくな」


 御者は、ふっ、と鼻を鳴らしてから、さきほどまで座っていた台に戻る。そして、やってきた方向とは逆へ馬車を牽いて去っていった。


 ヒメナも中央広場から離れ、西の方角に延びた大通りを進む。

 しばらくして、足を止めた。目の前には、獅子の紋章が描かれた旗を尖塔の先に立てた屋舎がある。その紋章の獅子は、バルレラ王国の王下騎士団を象徴したものだ。


 ここはヒメナの勤め先になる、王下騎士団レルマ支部の騎士舎だった。


 ヒメナは戸を開き、騎士舎に足を踏み入れる。

 すると、詰めるようにして並べられた椅子と机、その机に雑然と積まれた書類、壁にでかでかと貼られているレルマの地図などが、目に飛び込んできた。


 人の姿はない。

 時刻は、夜に差しかかった夕方だ。比較的、人が少ない時間ではある。それでも、無人ということはないはずだ。騎士舎に鍵が掛かっていなかったことからも、やはり誰かしらはいると思われる。


 ヒメナは怪訝に思いながら、騎士舎をうろうろと歩く。その途中、足に妙な感触を覚えた。

 何か踏みつけたかと思った直後だ。濁ったような声が響く。


「んが」


 ヒメナはぎょっとして、跳び退いた。

 視線を下に向ける。床に寝転がっている男がいた。


 その瞳は湖のように青い。その髪は茶色で、群生する海藻のような天然パーマだった。鼻下、顎、頬には無精髭が生えている。身に付けている、スリットネックのシャツと長丈のパンツは、どちらも薄汚れていた。


 ヒメナははっとする。男もごしごしと寝惚け眼を擦り、ヒメナを見てはっとした。


「──驚いた、ヒメナちゃんか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る