My eyes adored you

白雪紫

第1話 ひとみ

My eyes adored you

Though I never laid a hand on you

My eyes adored you

Like a million miles away from me

You couldn’t see how I adored you

So close, so close and yet so far



 ゴトン、ゴトン、と遠くで何かが鳴っている。それに揺れているような気もする。左耳辺りが少しだけ痛いなぁ、とぼんやり思いながらも、一定のリズムと揺れが心地よくて動くのがもったいない。

 ああ、でも、もうそろそろ起きなくては。夜が明けきらないうちに始まる夜課に遅れてしまう。遅れると、たぶん叱られてしまう。そして言われてしまう。やはり、あなたにはまだ、と。だから、絶対に遅れられない。やや丈の短いトゥニカと白いベールを身に着けて、この部屋から出なくては――

 重い瞼をゆるゆる開くと、忙しく移り変わる景色が目に飛び込んできた。吐息で少し曇った窓ガラスの向こうで、初夏のにぎやかな街並みがあっという間に過ぎていく。

 窓にぴったりくっついていた左耳は、やっぱり少し痛い。久しぶりに身に着けた普通のワンピースにも、身体がなじまない。きちんと洗ってハンガーにかけられていたそれは清潔でいい匂いがするのに、まるでよその家みたいに落ち着かない。いつものゆったりしたトゥニカとは着心地がまったく違うせいだろう。

 こうして電車に乗るのは久しぶりだった。正確に言えば、つい3日前も函館から電車と新幹線を乗り継いで横浜に向かったけれど、あの時は隣にラクロア先生がいた。久々の外の世界に呆然とするわたしの傍に、ただ黙って座っていてくれた。

 ひとりで電車に乗るのは、実に1年と3か月ぶりなのだった。中学の卒業式を終えて、その足で電車に飛び乗ったあの日から1年と3カ月。

 いま、何時だろう。あいにく時計の類は持たないから、ひとりだと困ってしまう。函館での規則正しい日々は、壁にかかった時計通りに正確に過ぎていた。いま、何時だろう、と考える余地などなかった。

 とてもお腹がすいている。目が覚めた理由も、おそらく空腹のせいだろう。もうそういう時間に違いないと判断して、傍らのかばんに手を伸ばす。古びた茶色い旅行かばん。あの小さな町を離れたときから、わたしとずっと一緒にいたかばんの一番上からおにぎりの入った巾着袋を取り出した。

 膝の上にのせて、手を合わせ目を閉じる。幸い、この車両はひと気がなくてがらんとしてる。

「父よ、あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。わたしたちの主イエス・キリストによって」

 小さな声で祈って、十字を切った。アーメン。

『ちゃんと食べるんだよ。お腹がすいたままでは、つまらないことを考えてしまうから』

 ラクロア先生の言葉を思い出しながら、おにぎりにかぶりついた。しっとりした海苔とちょうどいい塩加減のごはんがとてもおいしくて、あっという間に一つ食べ終わってしまった。丁寧にほぐしてある鮭も柔らかくて、後味がすごくいい。二つ目を袋から出して、アルミホイルをはがす。こちらは、胡麻とおかかの混ぜご飯が海苔で巻いてあった。やっぱり丁寧で心のこもった味がした。

 お腹が膨れると、ほっとした。さっきと同じように手を合わせ、食後のお祈りをして十字を切った。

 巾着袋には、ほかにフィルムに包まれたマダレナが三つ入っていた。函館を出るときにセシリア院長が持たせてくれたお土産だった。観光客向けに院内で作っているもので、売店では人気があるそうだ。形がいびつで売り物にならないものを、箱にたくさん詰めて持たせてくれたのだった。ラクロア先生と教会の皆さんに、と。

 ラクロア先生はおにぎりと一緒にそのマダレナを入れてくれていた。おやつに、という意味だろう。長野に着くまでにはまだずいぶんかかる。あとで食べることにして巾着袋を閉じ、かばんにしまった。水筒を取り出して、お茶を飲む。

 久しぶりの自由な時間で、途方に暮れてしまう。何をしていいかわからない。何を考えていいかわからない。ラクロア先生が言う『つまらないこと』の意味も、考えるのが億劫だというよりは、そもそも、頭に何も浮かんでこないのだった。移り変わる景色に知らず知らず高揚する気分も、自分自身の心の動きとは思えず、遙か遠くにあるように思えてしまう。

 お祈り、労働、黙想、読書、そして聖歌の唱和。黒のベールを被った先輩姉妹たちの歌声を耳に、オルガンを弾く。

 自由な時間がほとんどない毎日はやすらかだった。真っ白だった。わたしの髪を覆っていた白いベールのように。その白さに慣れてただただ穏やかな心持ちになれたなら、いつか黒いベールを被ることができる。先輩姉妹たちが被る黒いベール。あと何年経ったら、被ることができるだろうか。早くそうなればいい。

 温かいお茶がのどを通ると、少しだけ落ち着いた。久しぶりに飲んだ薄紅葵うすべにあおいのお茶だ。綺麗な青い色で、レモンを絞るとピンク色になる。今はレモンがないから、カップ代わりの水筒の蓋の中は青いままだった。お花のいい香りを吸い込んで、ゆっくりとお茶を飲む。横浜で暮らしていた頃にラクロア先生がよく淹れてくれたこのお茶は、さっきのマダレナには合うかもしれない。

 小さなころの遠足みたいだ。おにぎり、水筒、そしておやつ。昔は、チェルシーをおやつに持って行ったっけ。

 チェルシーは帰ってから美也子ちゃんにあげたいから、少しとっておくのが決まりだった。

 ありがとう、ひとみちゃん。でも、お兄ちゃんの分は? と美也子ちゃんに訊かれて、わたしはこう答えたのだった。

 聡史くんは、甘いものは好きじゃないんだよ、と。


 お隣に住んでいた聡史くんは、いつもいつも本ばかり読んでいた。分厚くて難しそうな本を、放っておけば1時間でも2時間でも読み耽る。もちろん、ずっと黙ったままだ。聞こえるのは、ページを繰る音だけ。話しかけると邪魔になるから、わたしも黙っている。でも、ちっとも退屈ではなかった。本に夢中な眼鏡の横顔を見ていると、なんだか落ち着いたのだった。

 妹の美也子ちゃんの話だと、聡史くんは学校でとても成績がいいらしい。大学では教会のことを勉強するつもりだ、と前に教えてくれた。

『きょうかいのなにをべんきょうするの?』と尋ねると、うーん、と少し考えてから、聡史くんはこう言った。

『教会のね、歴史を勉強するんだよ』

『おもしろいの?』

『うん。ひとみちゃんも、お父さんやお母さんと教会に通っているでしょう?お祈りしたり、讃美歌を歌ったりするあの場所にはね、いろいろな歴史があるんだよ。いろんな人が、いろんな風に神様について考えて、神様の教えを広めようとした。いろんな方法で神様に近づこうとした。そういうあれこれを、僕は勉強したいんだ』

 夕暮れ時の公園でぶらんこに乗りながら、わたしは聡史くんの話を聞いていた。静かな声が、心地よかった。よくわからないことも多いけれど、そうやって話しているのを見ているのは好きだった。

『だいがくは、とおい?』

『ううん。ここから通える。試験に受かれば、の話だけど』

『うかるよ。さとしくん、あたまいいもん』

『ありがとう。あ、もうこんな時間か』

 聡史くんがベンチから立ち上がった。学校帰りだから、白いシャツに黒いズボンの制服姿だった。かばんを開けて、持っていた分厚い本をしまう。

『そろそろ帰らないと。お父さんとお母さんが心配するよ』

『うん。わかった』

 本当は残念だけど、聡史くんを困らせたくないから素直にぶらんこからおりて、ベンチのそばまで行く。

『ピアノのれんしゅう、しなくちゃ』

『窓、開けていいからね。暑いでしょう、あの部屋』

『でも、さとしくん、べんきょうするでしょう?』

『うん。ピアノを聴きながら勉強するよ。今ひとみちゃんが練習してる曲、好きだから』

 確か、あの時わたしはバッハのメヌエットを練習していた。まだ5歳だったわたしにも、とても綺麗な曲だということだけはわかった。そして、それを作曲したバッハがすごい人だということも。

『バッハはね、教会音楽をたくさん作曲したんだよ』

『きょうかいおんがく?』

『教会で奏でられる、神様に感謝する音楽だよ』

『かみさま……』

 神様がどういう存在なのかは、まだ全然わかっていなかった。お父さんとお母さんと一緒にお祈りして、教会の礼拝に出て、讃美歌を歌う。そういうあれこれは不思議と嫌いではなかったけれど、神様に感謝する、という言葉の意味するところが、まだ幼かったわたしに理解できようはずもなかった。

『さとしくんは、バッハがすきなの?』と尋ねると、聡史くんはわたしをじっと見た。もちろん、身長が全然違うから、遙か上から見下ろされていた。聡史くんは高校生で、17歳だった。

 おもむろに、聡史くんは膝を折って屈んでくれた。わたしと目線を合わせるために。茜色に染まった聡史くんの顔が、なんだかとても素敵に見えた。ただのガリ勉、だなんて美也子ちゃんは言うけれど、そんなことはない。

 眼鏡の奥で、すうっと目が細くなる。

『好きだよ』

 もちろん、バッハが、だ。

 でも、あのとき——5歳だったわたしは、たぶん目をぱちくりさせて聡史くんの顔を見ていたのだと思う。

 好きだよ、という言葉がなんだか嬉しかった。もう一度言ってほしい、とわたしは漠然と思っていた。あのときは、なぜそんなふうに思ったかはわからなかった。

 でも、今ならわかる。

 たぶん、あのときわたしは恋に落ちたのだ、と。


 びゅうっと唐突な衝撃のあと、窓の外が暗くなってようやく我に返った。トンネルに入った、と気づくのに少し時間がかかった。ゆっくり思考が引き戻されて、自然とため息がこぼれた。

 何を考えていいのかわからないはずだったのに、結局行きつくところは同じだ。これが最後だ、と1年3カ月前に決めたはずなのに。

 ひとりになるとちっともやすらかになれない自分に、呆れてしまう。水筒の蓋の中ですっかり冷めてしまった薄紅葵のお茶を飲み干して、わたしはラクロア先生のことを考えた。

『ちゃんと食べるんだよ。お腹がすいたままでは、つまらないことを考えてしまうから』

 今朝、そう言ってさっきの巾着袋を渡してくれた先生は、いつものように穏やかだった。

 つまらないこと? 一体なんだろう、と今朝はわからなかった。あれこれ考える余地などもうないのに、と。

 本当は横浜にだって戻るつもりはなかった。やすらかで真っ白な毎日から離れるつもりはなかった。これまでどおり、これからも、ずっとあの静けさの中で暮らすつもりでいた。

『気持ちは変わらないそうだね。セシリア院長から伺ったよ』

 ラクロア先生が函館に来てくれたとき、久しぶりに会えてうれしかった半面、少しだけ怖くもあった。せっかく何も考えずにいられたのに、と。先生にはどれだけ感謝してもし尽せないはずなのに、まだ会いたくはなかった、とこっそり思ってしまった。

『有期誓願に入ったら、原則ここからは出られない。それでもいいのかな?』

『なぜ出ていく必要があるのでしょう? こんなに幸せなのに』

 そう答えたわたしを、ラクロア先生の碧い目がじっと見つめていた。

『本当にそう思うのかな?』

『どうしてそんなことを訊くのですか? 先生は神父様なのに』

『神父である以前に、あなたの保護者でもあるからだよ』

 保護者、という言葉に心がちくっと傷んだ。

 父母を亡くしたわたしを引き取って育ててくれたのは、ラクロア先生にほかならない。

 お父さんとお母さんの代わりになれるとは思っていないけれど、せめてあなたが大人になるまでは、あなたを見守るつもりだよ。もちろん、神様はどこにいても見守っていてくださるけれどねーーあの夏の日に、がらんとした居間で聞いた静かな声が鮮やかに蘇る。

『……すみません、生意気なことを言いました』

 理不尽に意固地になった自分が恥ずかしくて、いたたまれなくなる。小さな面会室でテーブル越しに向かい合う先生に、わたしは頭を下げた。

『いいんだよ』と優しく首を振ってから、ひとみさん、とラクロア先生がわたしを呼んだ。久しぶりにそう呼ばれて、驚いて顔を上げた。 

 ルドヴィカ、ではなく、ひとみ。

『最後のおせっかいだと思って、聞いてほしい。一度、横浜に戻っておいで。セシリア院長には許可をいただいている』

『横浜に?』

『今日すぐ発とう。横浜でゆっくり休んで、それから行きたいところへ行っておいで。会いたい人に会っておいで』

 心残りがないように、とラクロア先生の唇が動く。

 行きたいところ、会いたい人、心残り。

 今の自分とは全く関係がないと思っていたそんな言葉たちに、なぜか心がざわざわさせられる。また怖くなった。せっかく何も考えずにいられたのに、と。

 いや、違う。ラクロア先生に心を見透かされているようで、わたしは怖かったのだ。

 先生が言う「つまらないこと」は、わたしがそうだと思いたがっている「つまらないこと」ではない。

 本当はわかっているのに、わかりたくない。

 あの分厚い扉の向こうでは思い出すこともなかった幼い日々と、あのひとのこと。

 今のわたしには手が届かない。だから、閉じ込めて開かずにいた。「つまらないこと」だと。

 水筒に蓋をしてかばんにしまって、わたしは目を閉じた。幸い、まだトンネルの中だ。お腹がいっぱいのうちに眠りに就いてしまおう。またつまらないことを考えしまう前に。

 そう言い聞かせて瞼を閉じると、再びあの声がした。好きだよ、と。眼鏡の奥ですうっと細くなる綺麗な目。

 分厚い扉の一歩外に出ると、世界はまるで違う。怖かったのは、それに気づくことでもあった。

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