第17話
思わず足を止める奏太に少し遅れ、小夜も立ち止まった。
振動は比較的ゆっくり、等間隔に刻まれていて、構えたがこちらに近づいては来ないようだった。
また、耳を澄ますと、甲高い声が、先生こっちこっち、と呼び掛けているのを耳が拾う。
2つを掛け合わせた奏太の脳裏に、子供達が、先生の手を引き、連れて行く光景が思い浮かぶ。
ただし、この振動がもし先生の足音だとすると、誘導されている先生は恐ろしく重量があり、そして最悪の場合その手は、子供達が届く位置にはない。
これだけ離れていてこの振動の時点で、先生の定義に収まる存在ではない。
奏太は目を凝らして声の方を見極めようとしたが、いくら本棚が低いとはいえあまりに遠すぎて、何となく何かが動いている、ような気もする、という程度にしか把握ができない。
そういえば、子供達は先生を呼びに行ったのだから、この後先生はさっき奏太達が読み聞かせをした場所に導かれるということだが、会うべき相手がその場にいなかったらどうなるのか、怒り狂って大変なことになったりするんじゃないか、という奏太の焦りが、的外れではなかったことは、後で証明された。
「離れた。急ぎましょう」
返事を聞かずに小夜がぱっと進路を変えて、振動の発生源、何となく何かが動いている方へと走り出した。
走ると言っても足音をあまり立てないように、本棚では身体を隠せないので心持ち上体を屈め気味の小夜に従い、奏太は後を追う。
正確には、次第に左方へと動いていく発生源が、移動を開始した場所、起点を目指しているようだ。
ゆえに、動く何かは、奏太達からは徐々に離れるベクトルにはいるが、奏太達の方が速いため、背面ではあるが輪郭が、大きさが徐々にはっきりして来る。
背は、比較的天井の高いこの書庫もとい閲覧室にあって、毛のない頭は接触しそうに見える。
裸の上半身、腰布、裸足、剥き出しの腕は何か不整形な長いものを持っている。
子供達は、その前後で飛んだり跳ねたりしながら、先生こっちと誘導を続けているようだが、奏太のイメージに従うと、あれを先生とは決して呼ばない。
あれもトラップなのだろうが、見つかったらやばいじゃ済まない、と必死に足を進める。
地下4階を思い出すほどに息が切れて来た頃、本棚がない代わりに、子供用の背の低い曲線の長椅子が、ぐるりと円形に並んだ場所が見えて来た。
直径は10mくらいのそこは、本来は子供達が椅子や床に座って思い思いの本を読むスペースなのだろう。
ただ、今はその中央には何故か本が小山に、雑に積んであり、上に行けば行くほど拉げている。
そして、中心には火口のような窪みがあり、淵にタラップの先端が見えた。
「まさか、あれが階段?」
「うーん、階段というか、降り口というか」
他の階のように、普通の建造物の階段ではなくタラップで降りていく穴が、壁際ではない位置にあること、穴を取り囲む本が折れ曲がっていること、ここは恐らく"先生"が最初にいた場所であること。
つまり、あの化け物が降り口を塞いでいて、それをどかせる鍵が子供達の要求だったということか。
そう尋ねると、小夜は頷いて、「最初は違ってたらどうしようって思ったんですが、合ってて良かったです」と答えた。
事後ではなく、現在進行中のうちに答え合わせができたことに十分に喜ぶ間もなく、小夜に
「戻って来る前に降りましょう」
と促される。
いつの間にか、地響きのような床経由の振動は止まっており、代わりに雄叫びのような不気味な低音が、空気を震わせた。
奏太はギリギリセーフ、と身震いをして、「はい」と後に続いた。
正確には続こうとした。
前進する動作が、まるでそのままゴムにでものめり込んだように、同じ幅で元の位置に押し戻された。
もう一度試しても同じで、何かに妨げられて前進できない。
思わず後ずさると、1歩は下がれたが、2歩目は押し戻される。
周囲を見回した奏太は、自分の四方に半透明の丸い柱が建っていることに気が付いた。
四か所の上端も柱で繋がっており、まるで箱を被せられた中に立っている。
「何だこれ!?」
本を踏んで上がっていくのに躊躇していた小夜が振り向いたが、何心ない表情はたちまち憤りに変わった。
「ちょっと、何してるんですか!」
小夜の視線の先、奏太は自身の後ろへ首を巡らすと、しばらく静かだった茶髪が、開いた本を片手にニヤニヤと、汚く癇に障る笑いを再開していた。
「いやーおっつー。あの化け物どうやってどかすかなって困ってたんだよねー。ガキの本読みなんかだるくてやってらんねーって思ったら、それが答えだったとはね。クッソ長え話の読み上げごくろーさん」
悪い予感が当たった、やっぱり裏があった、と奏太は歯噛みした。
攻略方法が分からないと言っていたのは二枚舌で、"先生"の存在と、ここに陣取っているのを移動させる必要があるのを知っていて、自分達には黙っていたということだ。
メキメキと本をさらに踏み潰しながら小山を上がった茶髪に、小夜は抑えた声でぴしゃりと
「そうですか。何でもいいので晴山さんのこと解放してもらえますか。急いでいるので」
と要求した。
奏太は引き返して来る"先生"のことを思い出し、焦りが急激に膨れ上がる。
何とかしてこれから脱出しないと、どこかに隙間はないかと探すが、柱は床にぴったりとくっついた状態で立ち上がっている。
「晴山?あ、こいつの名前か。えー嫌だなー何のためにこいつのこと拘束したと思ってんの」
「……何のためですか」
小夜の抑揚のない問いに、したり顔の茶髪は2人を見下ろしながら、笑みをさらに深くして要求を突きつけた。
「ここで今すぐリタイア宣言して?」
小夜ちゃんと、あとてめーもな。
奏太にはゴミを見るような一瞥をくれた茶髪は、ねっとりと髪を掻き上げた。
「この階だけ同行OKって言ったの小夜ちゃんでしょ。7階ってここで終わりだし。だから俺もここで解散したいわけ。このまま小夜ちゃんに先に進まれると困るんだよね。最終攻略者って無制限だって言っときながら1日1人じゃん?」
「最初から、こういうつもりだったんですか」
「いやいや、小夜ちゃんだけなら止めっかなーって悩んでたけど、ちょうどその情弱がコバンザメしてたからラッキーって計画変更。別にルール違反ではないっしょ、危害は加えてねーもん。出し抜く系って割と良くあるじゃん、この企画展示」
彼方から咆哮の残響が聞こえ、数値の見えないカウントダウンが始まった。
さっきまでとは比べものにならないほどの振動が、速度を持って近づいてくる。
「ほら早くしろよ。あの化け物が戻って来たらどうなるかなー。その檻そんなに耐久性ないんだよねー」
茶髪は檻、と表現したが、柱数が4本しかないため、檻ではなく直方体と言った方が実際に近い。
鼻デブは巨大木槌だったが、茶髪は数学らしい本により、立体を具現化できるようだ。
奏太はますます焦って突破口を探すが見つからない。
早くしろ、という要求に、小夜は口を閉ざしたままだ。
そうしているうちに先生の、苔色をした皮膚が、はっきりと像を結ぶようになってきた。
先生は、ゲームに登場する、いわゆるオークの風貌をしていた。
幾本もの針が刺さった棍棒を振り回しながら、怒りの形相で突進してくる化け物を、せんせー足はやーい、と子供達が歓声を上げながら追いかけている。
後ろ姿だけでも、明らかに人外の身なりに怖気を振るっていたが、襲い来る正面と相対すると恐怖が倍加して迫り上がる。
小夜はまだ動かない。
開いた本を手に茶髪を凝視したまま、リタイアを宣言しそうな気配はない。
宣言が遅れれば解除も遅れ、逃げ遅れる未来が待つ。
いや、そもそも宣言しても、この足止めが解除されるとは限らない。
リタイアすれば解除するとは、あの茶髪は一言も言ってはいなかった。
言っていないのを盾に、あの男ならそういう卑劣に走り兼ねない。
(来てる来てる……!)
「おら、とっととリタイアしろやあ!死にてーのか!」
あと30秒で到達される、そのタイミングで、茶髪がとうとう脅迫の声を荒らげた。
現れた本性にはしかし焦りが滲んでいる。
リタイアは嫌だ、拒みたい気持ちは強かったが、痛めた腕、その原因、実態化したトラップが本棚と本を薙ぎ払う威力、意識のない塾講師、鼻デブをゴミのように片付けたセキュリティロボットが、次々に思い浮かび、
(ダメだ、待ってられない)
奏太は英和辞典を抱えて、受理番号を叫ぼうとした。
しかし、声を張り上げる前に、小夜が制止するように左手を挙げ、奏太の口を噤ませる。
状況は、今すぐリタイアして間に合うかどうかという段階だったが、小夜の横顔には、リタイアの意思は欠片もなかった。
奏太、茶髪、襲来する先生という名の化け物、楽し気にそれを追いかける子供達、この広大な地下7階の中で、小夜だけが静かだった。
オークが凶器を振るい、自分達を叩き潰す未来には無頓着かのように、黙って状況の刻々の変化を眺めている。
あと10歩で棍棒の間合いに3人が入る、そこでとうとう茶髪が痺れを切らし
「クソどもが!」
と絶叫した。
異形でも怒りの形相と分かるオークは、心持ち茶髪の方に注意を引かれているように思われた。
直後、奏太を捕らえる直方体がふっと消える。
茶髪が解除したのだと奏太が認識するのと同時に、その茶髪は本の頂から飛び降りようとしながら、「何でこっちに来んだよ!そっちのゴミに行けや!」と悲鳴交じりに怒鳴った。
言葉を理解しないのか制止の効果はなかった上に、騒がしい方を排除すべき標的に定めたのか、走るオークの顔は完全に茶髪を向いた。
逃げ切れないと思ったのか、茶髪はその場に留まるべく本を改めて踏んで足場を確保しながら、数学書を翳して、オークに向かって何かを唱えた。
立体が、一気に、オークの全身を飲み込む大きさに展開する。
が、オークが前進すると立体はビ、と伸びてから風船が破裂するように消滅し、あの程度では足止めにもならないことが即座に証明された。
「あ、ゆいちゃんのことけったおにいちゃんだー」
「せんせー、あの人けった人だよー」
着いてきた子供達、あれだけ走って来たのに息も切れていない先頭の数人が、一斉に茶髪を指さして告げ口を発する。
奏太と小夜がこの階に到着するまでに、茶髪も読み聞かせをせがまれたのだろう。
相手が本物の子供ではない、トラップだと分かっていても、別に危害を加えてきたわけではない子供を蹴るとは何て奴だと、読み聞かせを一生懸命聞いてくれた顔を奏太は思い出す。
「このクソガキ!!!」
ロックオンされた茶髪の、憎しみを帯びた罵倒を、咆吼が押し潰した。
とうとうこの、円形広場に戻ってきた先生は容赦なく棍棒を振り上げる。
しかしその振り上げは、天井にぶつからないようにという知恵があるのか、それは横薙をする角度だった。
針山のようなそれを力いっぱい振り抜けば、茶髪だけでなく、奏太と小夜にも危害が及ぶ軌道を走ることが、容易に予想できた。
その時小夜が、漱石全集(二)をパタッと閉じた。
そして、片手で挟むように持った本を自分の頭上に上げたかと思うと、膝の下まで、一気に振り下ろした。
それが何の動作で、何が起こったのかのか最初は分からなかった。
小夜はその場で本を振り上げ、下ろしただけだ、ハエでも叩くように。
にもかかわらず、奏太の目の前で、先生と呼ばれる化け物は、頭部を猛烈に殴打されたかのように前のめりになった。
次いで、断末魔の呻きを零し、上体が泳いだ。
傾いたオークは、重力の加速度を得て、床へと急激に。
「ぎゃああああっ!」
茶髪の絶叫が、巨体の下敷きになったところで、今度こそ押し潰されて静かになった。
一呼吸置いて棍棒が、本棚を何台も破壊し、針が本を幾冊も串刺しにして、やっと力を失った。
どうやったかは置いておいて、十中八九、もとい確実に、小夜が、本の力で物理的に、オークを捻じ伏せたのだ。
ついでに茶髪も。
最終攻略常連の証明を垣間見た気持ちで唖然とする奏太の周囲では、追い着いてきたのも含めて子供達が、
「あーあ、やられちゃったー」
「せんせいよわーい」
「おねーちゃんつよーい」
「本よみへたなのにおねーちゃんつよーい」
と楽しげに戯れ始めていた。
小夜は、憤懣やるかたないと言いたげに、全集の表面を、手で何度も払っていた。
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