3、赤髪の少女、アーシャ・ヴァーミリオン。
シンと静まり返った闘技場。歓声も、どよめきも、一切の音が消え失せた。
俺の圧倒的な勝利に、誰もが言葉を失ったのだろう。
客席では、あちこちで人々が呆然と立ち尽くしている。誰もが俺のことを「酔っぱらいの老人」としか見ていなかったはずだ。魔王討伐だの勇者だの、そんな昔話はとうに忘れ去られていた。それが一瞬で覆されたのだから、驚くのも当然か。
進行役の男も、口を開けたまま固まっている。俺はゆっくりと深い息を吐き、剣を鞘に収める。喝采なんて待つ気はない。第一王女の件で、俺にはやらなければいけないことが出来た。早く家に戻り、準備をしなければいけない。
――俺は通路に向かって歩き、闘技場を後にした。
街外れの一角、スラム街の入り口あたりに俺の住む建物がある。先代の聖女アリシアが死んだ数年後、俺は貴族街にあった家を追い出され、今にも崩れそうな古びたところで暮らしている。
家なんて酒を飲んだ後に眠れればどうでも良いから、問題は無かった。
がたついたドアを開け、狭苦しい部屋に足を踏み入れる。埃と、汗臭い匂いが漂う。荷物用の棚と、くたびれたベッドがあるだけの簡素な部屋だ。俺は少し休憩するため、ベッドに腰をかけた。
もう何年も封印していた「理力」を使ったため、身体中が痛んで軋んでくる。理力とは勇者にしか使えない異能であり、魔力とは性質が反するものだ。魔力は外気に漂う力を利用するが、理力とは身体の内だけに存在する力を利用する。
凄まじい力が溢れてくるが、その反動も大きい。若い頃に使い過ぎたため、今や俺の身体はボロボロだ。
そのとき、ドアが勢いよく開き、赤い髪をポニーテールにまとめた少女が飛び込んできた。第五騎士団の隊長、アーシャ・ヴァーミリオンだ。頬には汗が光り、肩で息をしている。
「先生、すごかったです! まさかあんなに強いなんて! 本当にスカッとしました!」
アーシャは瞳を輝かせ、興奮を抑えきれない様子で声を弾ませる。
「やっぱり先生は最強です!」
その表情を見て、俺は遠い日の記憶をたどっていた。彼女がまだ幼かった頃の出来事だ。
――十年以上前。
まだ酒に溺れる前の俺は、孤児院によく顔を出していた。国の予算不足で、孤児たちの暮らしは決して豊かではなかった。当時の聖女アリシアは心を痛め、私財を投じて子供たちの面倒を見ていた。俺も微力ながら手を貸し、子供たちと遊んだり、剣の手ほどきをしていた。
純真な子供たちは俺が勇者と知ると、「わあ、本物の勇者さまだ!」と目を輝かせて集まってきた。しかしいつも輪に入らず、ぽつんと立っている少女がいた。赤い髪を一つに結い、目つきが鋭い女の子だった。
アーシャ――。それが幼い頃の彼女だった。当時の彼女は、問題児として恐れられていた。男の子を泣かせるほどの喧嘩っ早さで、とにかく暴力的であり負けず嫌い。
「元気か?」と声をかけても、まともに返事など返してくれなかった。
ある日、彼女は突然やってきて、「決闘しろ!」と俺に叫んだ。その目は真剣そのものだ。
「お前を倒せば、英雄になれる。だから戦え!」
「おいおい、そんなことを誰に聞いたんだ?」
「うるさい! 私は誰にも負けたことがない! おまえにも勝つ!」
子供の戯言と思ったが、その真っ直ぐな瞳に嘘はなかった。
俺は彼女に木剣を渡した。
「お前は武器を持たないのか?」
手ぶらの俺に彼女は怒る。馬鹿にされたと思ったらしい。
「いいから、打ち込んでみろ。すぐに分かるさ」
挑発するように声をかけると、彼女は俺を激しく睨みつけ、木剣を構えた。彼女の剣には迷いがなかった。俺は思わず期待に胸を躍らせた――この子は絶対に強くなる。
「ああああああ!!!」
叫び声を上げながら剣を振りかざして向かってくる。俺は一歩横にズレて、大げさな足払いでかわした。彼女の体はくるりと宙を舞い、砂埃を上げて転がった。
「な、なに? いま何が……!?」
混乱する彼女が立ち上がり、再び襲いかかってくる。だが結果は同じ。何度挑んでも、彼女の体は宙を舞うだけだった。十回目を過ぎたあたりで、とうとう彼女は堪えきれなくなった。
「うあああん! ずるいよ! なにしてるのよ!」
体中砂まみれで、鼻水と涙でぐしゃぐしゃの顔。俺は思わず笑みをこぼし、その小さな体を優しく抱き寄せた。
「お前なら必ず強くなれる。俺が保証するよ」
驚いたように顔を上げた彼女の瞳には、涙の向こうに負けん気が燃えていた。
「絶対、いつかお前に勝ってみせる。だから……剣を教えて!」
――それが、俺がアーシャ・ヴァーミリオンに隠された素顔を見たときだった。
月日は流れ、彼女は本当に強くなった。
十九歳で第五騎士団の隊長を務めるまでに成長したのだから本物だ。あの生意気な少女が、今では「先生、最高です!」と笑顔で慕ってくれる。まったく人生とは面白いものだ。
懐かしい記憶に浸っていると、アーシャの表情が一変した。先ほどまでの喜びは消え、肩に力が入っている。
「大変なことになってます。今、先生が指名手配されているんです!」
「……はぁ? どういうことだ」
ベッドに放り投げてあったロングコートを手に取りながら問い返す。お尋ね者? 何の冗談だ。
「騎士団本部から通達があって、剣闘会でのイカサマ疑惑と……第一王女が行方不明と聞きました! さらに先生に、王女誘拐の容疑がかけられてるんです!」
「馬鹿な話だ……」
驚いて立ち上がろうとしたが、足元がふらつく。先ほどの疲労と、二日酔いの影響がまだ残っているようだ。アーシャは周囲を警戒するように見回し、声を落として続けた。
「とにかく今は危険です。早馬を用意したので逃げてください!」
「俺が王女を誘拐? 意味が分からないな……」
寝耳に水としか言いようがない。王族を誘拐するなど死刑になる重罪。
「急いでください! 私の命に代えても、先生を守ります。後で必ず追いかけますから、まずは安全な場所へ! 馬は外に準備してあります」
必死に訴えかけるアーシャに、俺は思わず泣きそうになる。昔、孤児院で涙を流していた少女が、こんなにも立派に育った。
「ありがとうな」
そう告げて、部屋の隅にある古びた棚へと向かう。隙間に手を入れ、誰にも見せずに保管していた一通の手紙を取り出した。かつて俺が愛した人――先代聖女アリシアから託された書簡だ。この手紙に触れると、不思議と胸が温かくなる。
手紙を腰の革袋に納め、静かに決意を固める。アーシャが「早く行きましょう!」と促す中、コートを羽織って外に出る。だが俺の体は、アーシャとは逆の方向を向いていた。
「先生? 外への門はあっちですよ?」
困惑するアーシャに、俺は苦笑いをする。彼女の頭を軽く叩きながら、投げやりな調子で言った。
「悪いが、寄り道させてくれ」
「えぇ!? 先生は王女誘拐の容疑者なんですよ? そんな余裕は――」
「分かっている。だが、俺は逃げるわけにはいかない。やらなければならないことがある」
アーシャは息を飲み、俺の顔をじっと見つめた。心配性の彼女は、危険な行動を止めたいのだろう。
「やらなくちゃいけないことって、なんですか!」
「王城に行く。そして国王と話をつける」
「指名手配されてるんですよ? すぐに捕まってしまいます!」
例え俺が捕まったとしても、国王は俺と話すだろう。なぜなら俺とあいつには宿命がある。それに王女の居場所もだいたいの検討がつく。
俺は彼女を救い出すためなら、この命を投げ出す覚悟がある。
すると赤い髪をなびかせ、アーシャ・ヴァーミリオンが俺の前に立ちはだかった。
両手を広げて、必死に進路を塞ぐ。
「先生……行かないでください!」
その瞳には今にもこぼれ落ちそうな涙が溜まっている。
「すまないな、俺は行かねばならない」
「まさか死ぬつもりですか!」
俺を引き止めようとする姿に、胸が締め付けられる。だがかつては勇者と呼ばれた俺も、今は酒に溺れた五十歳の初老だ。そろそろ幕引きの時期かもしれないと、どこかで覚悟を決めていた。そのときがやってきただけだ。
「ありがとう、アーシャ。最後まで俺の味方でいてくれたのは、お前だけだった」
心からの感謝を込めて伝えた。自暴自棄になり酒浸りの生活を送っても、周囲から白い目で見られても、この子だけは一途な信頼を寄せ続けてくれた。
「そんな……! まるで二度と戻ってこないみたいな言い方です! やめてください!」
アーシャの声が震え、頬を涙が伝う。
――すると彼女は腰の剣を抜いて構えた。
「この命に代えても止めます! 剣も、生きる意味も、すべて先生から教わりました。何もなかった孤児の私に、全てを与えてくれたのが先生なんです! こんなの……耐えられません!」
叫びながら、アーシャは肩で大きく息をする。剣先は小刻みに揺れているが、その構えに隙はほとんどない。覚悟を決めた弟子の姿。初めて出会った頃は、ただの生意気な泣き虫。それが今や騎士団隊長として、技も心も立派に成長した。
自分に娘がいたら、こんな気持ちになるのだろうかと微笑んでしまう。
「アーシャ……悪いな」
彼女を軽く見ているわけじゃない。むしろ誇らしく思う。こんな老いぼれを本気で心配してくれるなんて、俺にはもったいない。だが、一歩も引くつもりはない。俺は剣に手をかけることもせず、ただ前へと歩み出す。
アーシャの剣先が俺の胸元へ当たるとき、彼女は叫んだ。
「先生……! 本当に……行かせたくないんです!」
「分かっている。お前は俺の、最高の弟子だ」
自然と出た言葉に、アーシャの目から大粒の涙があふれる。
彼女は力なく剣を下ろし、そのまま地面に崩れ落ちるように座り込んだ。
「……うっ、ああああああああっ……!」
悲痛な声が響く。胸が締め付けられるが、もう引き返せない。
アーシャの赤い髪が震えるのを横目に、俺は前へと歩いた。
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