月夜に還る猫
ソコニ
第1話 月夜のペットショップ
「また残業ですか?」
社内チャットに表示された上司からのメッセージに、高梨詩織はため息をついた。窓の外は、すでに暗くなっていた。季節は春。日が長くなってきているはずなのに、空はすっかり藍色に染まっている。
「すみません、承知しました」
簡潔に返信を送り、詩織は肩を落とす。今日はこれで三日連続の残業だ。週末返上で取り組んでいたプレゼン資料も終わらないまま、新たな作業が舞い込んできた。パソコンの画面には、まだ修正すべき資料の山が積み上がっている。
三十五歳。気がつけば、日々は仕事に追われ、自分の時間など持てないまま過ぎていった。ここ数年、自分の誕生日さえも仕事の合間にケーキを一切れ食べるだけの、味気ないものになっていた。
窓に映る自分の顔を見つめる。疲れた目、少しくすんだ肌。若い頃は「美人」と言われることもあったが、今ではただのキャリアウーマンという言葉がふさわしい。恋愛も、いつしか優先順位の低いものになっていた。
デスクの引き出しを開け、チョコレートを一つ取り出して口に放り込む。甘さが疲れた頭を少しだけ癒してくれる。
「高梨さん、お疲れさま」
隣のデスクの後輩が声をかけてきた。若くて元気のいい女の子だ。恋人との週末の予定を楽しそうに話していた姿が、昼休みに目に入った。
「ああ、お疲れさま。帰るの?」
「はい、彼が迎えに来てくれるので」
彼女は少し照れたように微笑んだ。詩織は優しく頷いた。
「いいわね。気をつけて帰りなさい」
「高梨さんも、無理しないでくださいね」
後輩が去った後、オフィスはさらに静かになった。窓の外の景色は、すっかり夜の顔になっている。遠くに見える東京タワーの灯りが、夜の闇の中でひときわ輝いていた。
時計を見ると、すでに午後十時を回っていた。詩織は急いで残りの作業を終わらせた。この調子では、終電に間に合わないかもしれない。
「終わった…」
ようやく全ての仕事を片付け、詩織はパソコンの電源を落とした。バッグに資料を詰め込み、オフィスを後にする。エレベーターに乗り込む時、さすがにこの時間では誰とも会わない。静かに下降するエレベーターの中で、詩織は疲れた表情を鏡に映して見た。
「私、いつからこんなに疲れた顔になったんだろう…」
ため息と共に、エレベーターのドアが開いた。オフィスビルを出ると、春の夜風が頬をなでる。少し肌寒さを感じたが、それもどこか心地よかった。閉鎖的なオフィスの空調とは違う、自然の風の感触に、詩織は小さく深呼吸をした。
いつもの駅までの道のりを、詩織は黙々と歩いた。数少ない通行人たちもみな足早に過ぎていく。どこか虚ろな目をして、明日の仕事のことを考えているのかもしれない。自分と同じように。
いつもの道を曲がったところで、詩織は足を止めた。
「あれ…?」
見慣れた商店街の一角に、見覚えのない店が灯りをともしていた。まるで昔からそこにあったかのような、古びた木造の建物。「月夜のペットショップ」と書かれた看板が、ゆらゆらと風に揺れている。店の窓からは、柔らかな琥珀色の明かりがこぼれ落ちていた。
「こんな店、あったっけ…?」
詩織は首をかしげた。毎日通る道のはずなのに、この店を見るのは初めてだった。記憶を探っても、そんな店があった覚えはない。まして、こんな時間に営業しているペットショップがあるなんて。
立ち止まったままの詩織の横を、急ぎ足のサラリーマンが通り過ぎていく。不思議なことに、誰もその店に注目している様子はない。まるで、その店が詩織にだけ見えているかのように。
店の窓からこぼれる柔らかな明かりに吸い込まれるように、詩織は足を踏み入れた。理性では「こんな時間に入るべきではない」と警告していたが、何か不思議な力に引き寄せられるような感覚があった。
チリンと鈴の音がして、店内に入ると甘い香りが漂っていた。木の床がきしむ音と、かすかな動物たちの鳴き声。薄暗い店内には、様々な生き物たちが居心地よさそうに過ごしていた。小さなケージの中にはカラフルな小鳥たち、水槽の中には神秘的な熱帯魚、そして奥には、犬や猫たちの姿も見える。
しかし、不思議なことに、動物たちは騒がしくなく、静かに佇んでいた。まるで、詩織の訪問を静かに見守っているかのように。
「いらっしゃい」
突然、声がして詩織は驚いた。振り返ると、白髪の老人が静かに微笑んでいた。長い白髪と白いひげを蓄えた、穏やかな表情の老人。いつからそこにいたのだろう。老人の目は深い知恵を湛えているようで、詩織はなぜか安心感を覚えた。
「あの、この店…初めて見ました」
詩織が言うと、老人は静かに微笑んだ。その笑顔には何か神秘的なものがあり、詩織は不思議と警戒心を抱かなかった。
「そうかもしれないね。ここは月夜の晩にだけ開く店だからね」
老人はそう言って、奥へと歩いていった。詩織は半信半疑ながらも、その後を追う。頭では「非常識だ」と思っても、体は自然とその老人について行った。
「月夜の晩…満月の時だけ、ということですか?」
詩織が尋ねると、老人は振り返りながら微笑んだ。
「そう。特別な縁がある人だけが、この店を見つけることができるんだよ」
老人の言葉に、詩織は首をかしげた。特別な縁。そんなものが自分にあるとは思えなかった。今まで詩織の人生は、ただ忙しさの中で過ぎていくだけだった。特別なことなど、何もない。
店の奥、窓から差し込む月の光に照らされたケージの中に、一匹の黒猫がいた。艶やかな黒い毛並み。そして、どこか懐かしさを感じる、深い琥珀色の瞳。黒猫は詩織を見つめ、尻尾を揺らした。まるで待っていましたとでも言うかのように。
「この子、かわいいですね」
詩織はケージに近づき、黒猫を見つめた。不思議なことに、初対面のはずなのに、この黒猫に親しみを感じた。まるで昔から知っているかのような、不思議な感覚。
「ルナという名前だよ。女の子さ」老人が言った。「君と特別な縁があるようだね」
「縁、ですか?」
詩織は不思議に思った。猫と縁があるなんて、考えたこともなかった。幼い頃、確かに猫を飼っていた記憶はあるが、それはずっと昔のこと。今の生活では、ペットを飼う余裕さえなかった。
「そうさ。今夜、君がここに来たのも偶然じゃない。ルナが君を呼んだんだよ」
老人の言葉は、どこか神秘的だった。詩織は普段、そんな非科学的な話は信じない方だった。しかし、この薄暗い店内で、月の光に照らされた黒猫の瞳を見ていると、不思議と老人の言葉に説得力を感じた。
「…連れて帰ってもいいですか?」
言葉が口をついて出た。本当は猫など飼う余裕などないはずだった。仕事が忙しく、世話をする時間もない。一人暮らしのアパートでペットが飼えるかどうかも確認していなかった。なのに、この黒猫の瞳に見つめられると、そんな言い訳が吹き飛んでしまう。
「ああ、もちろんさ。彼女は君を待っていたんだからね」
老人はそう言って、ケージを開けた。ルナは物怖じすることなく、すっと詩織の腕の中に飛び込んできた。その体温が、詩織の胸を温かくした。柔らかな毛並みと、喉から聞こえるゴロゴロという音。詩織は思わずルナを強く抱きしめた。
「でも、お金は…」
詩織が言いかけると、老人は手を振った。
「お代はいいよ」老人は微笑んだ。「ただ、一つだけ約束してほしい」
「約束、ですか?」
「ルナが教えてくれることに、心を開いてあげてほしい」
詩織には、老人の言葉の意味がよくわからなかった。猫が何かを教えてくれるなんて、そんな非現実的な話を信じられるはずがない。しかし、腕の中でゴロゴロと喉を鳴らすルナを見つめると、もう放せない気持ちになっていた。
「わかりました」
詩織は頷いた。ルナの大きな琥珀色の瞳に魅了されていた。この出会いには何か特別な意味があるのかもしれない。今までの詩織なら、こんな非論理的な思考はしなかったはずだ。しかし、この瞬間、詩織の心は何か新しいものに開かれつつあった。
「エサやケージは?」
詩織が尋ねると、老人は店の一角を指さした。そこには、猫用のキャリーケース、エサ、トイレ砂、そして小さなおもちゃまで、必要なものがすべて用意されていた。
「すべて用意してある。心配しなくていいよ」
老人の言葉に、詩織は不思議な感覚を覚えた。まるで、このすべてが前もって計画されていたかのように。
必要なものをすべて受け取り、詩織は老人にお礼を言った。そして、ルナをキャリーケースに入れ、店を後にしようとした。
「あの…」
詩織は一度振り返った。この奇妙な出会いが、夢ではないことを確かめたかった。
「また来れますか?この店に」
老人は穏やかな笑みを浮かべた。
「必要な時に、ここは見つかるだろう」
その言葉を最後に、詩織は店を出た。
帰り道、満月が空高く輝いていた。夜空には星々が瞬き、いつもは騒がしい東京の街も、この時間になると不思議と静けさを取り戻す。詩織は腕の中のキャリーケースを大事そうに抱えながら、家路を急いだ。
「この子と暮らすのか…」
突然の決断に、詩織自身が驚いていた。朝起きたら、すべてが夢だったと思うかもしれない。しかし、キャリーの中で時折鳴く猫の声は、これが現実であることを物語っていた。
自分のアパートに着くと、詩織はまず管理規約を確認した。幸い、小型のペットなら飼育可能とのこと。詩織はホッとため息をついた。
「よかった…」
部屋に入り、詩織はキャリーケースから慎重にルナを取り出した。ルナは警戒することなく、すぐに部屋の中を探索し始めた。まるで初めから、ここが自分の家だと知っているかのように。
「ルナ…か」
詩織は黒猫を見つめながら、心の中でつぶやいた。月にちなんだ名前。その黒い毛並みと、神秘的な瞳に、とてもよく似合っていた。
「よろしくね」
ルナのために用意された餌をボウルに入れ、水も用意する。トイレの場所も教え、詩織は自分のベッドに腰掛けた。疲れていたが、不思議と心は穏やかだった。何か大切なものを見つけたような、そんな感覚。
その瞬間、ルナはぱっと目を開け、詩織を見上げた。まるで「こちらこそ」と返事をしているかのように。そして、詩織の膝に飛び乗り、丸くなった。
その夜、詩織は久しぶりに穏やかな眠りについた。隣には黒猫のルナが、安心したように寄り添っていた。窓から差し込む月の光が、二人を優しく包み込んでいた。
明日から、彼女の生活は少しずつ変わり始めるだろう。それはまだ詩織自身も気づいていなかったが、この黒猫との出会いが、彼女の人生を大きく変えることになる。月夜のペットショップでの奇妙な出会いは、詩織にとって新しい物語の始まりだった。
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