第4話 決断の時


東京郊外、多摩丘陵の深い森の中。雨はようやく上がったが、木々の葉からは雫が滴り落ち続けていた。美智子と健太郎は湿った落ち葉を踏みしめながら、人気のない山道を進んでいた。江ノ島から東京まで、彼らは海路で向かい、さらに乗り捨てた車を乗り継いで、この場所までたどり着いた。


「本当にここに研究施設があったの?」


美智子は不安げに周囲を見回した。うっそうとした森には、人工物の気配すら感じられない。


「ええ。表向きは『多摩環境研究所』という名前でした」健太郎は確信を持って答えた。「外部からは環境アセスメントを行う機関として知られていましたが、地下に秘密施設がありました」


二人は静かに歩みを進めた。日が傾きつつあり、森の中は徐々に暗さを増していた。


「ミチコさん、具合はどうですか?」健太郎が心配そうに尋ねた。


美智子は弱々しく微笑んだ。江ノ島からの逃走劇と長時間の移動で、体力は限界に近づいていた。それでも、真実を知りたいという思いが彼女を前に進ませた。


「大丈夫よ。年齢のことを考えたら、よく持っているわ」


健太郎は彼女の肩に優しく手を置いた。


「あなたの強さには、いつも驚かされます」


道なき道を約二十分歩いた後、彼らは古びたコンクリートの構造物の前に立っていた。一見すると、廃墟と化した倉庫のようにしか見えない。


「ここが...」


「ええ、表の入り口です」健太郎は建物の側面に向かって歩きながら言った。「三十年以上前に廃棄されたので、外部からは何も見えないはずです」


彼は草むらに覆われた壁の一部を押し、隠された扉を探し当てた。サビついたドアが現れ、健太郎はポケットから古い鍵を取り出した。


「まだ持っていたのね」美智子は驚いて言った。


「最後の日、私が施設を閉鎖する担当でした」健太郎は鍵を差し込みながら答えた。「当時はいつか戻ってくる日が来るとは思いませんでした」


重たいドアが軋む音を立てて開いた。中は真っ暗で、カビと埃の匂いが立ち込めていた。健太郎は懐中電灯を取り出し、前方を照らした。


「気をつけてください。長年使われていないので、床が抜けている箇所もあるかもしれません」


美智子は健太郎の背中に続いて中に入った。彼の懐中電灯の光に導かれ、二人は廊下を進んだ。壁には苔が生え、床には落ちた天井材が散乱していた。


「これが環境研究所の表向きの部分です。地下には別の入り口があります」


彼らは建物の奥へと進み、重たい金属製のドアの前で立ち止まった。健太郎は壁のパネルを探り、隠されたキーパッドを見つけた。


「暗証番号はまだ覚えていますか?」美智子が尋ねた。


健太郎は少し迷った様子で、キーパッドを見つめた。


「実は...あなたの誕生日でした」


美智子は驚いた表情を浮かべた。


「私の?なぜ?」


「私が設定したからです」健太郎は少し照れくさそうに言った。「セキュリティ担当官の特権でした」


彼はキーパッドに数字を入力した。古いメカニズムが動くノイズが響き、ドアが少しだけ開いた。


「電力が残っているの?」美智子は驚きを隠せなかった。


「バックアップ電源です。緊急用に三十年は持つように設計されていました。丁度ぎりぎりですね」


二人は重たいドアを押し開け、階段を降り始めた。地下へと続く階段は、さらに空気が重く、湿っていた。


「ここに来るのは...」健太郎はつぶやいた。


「三十年ぶりね」美智子が言葉を継いだ。


階段を降りきると、広いスペースが現れた。健太郎が壁のスイッチを操作すると、奇跡的に薄暗い非常灯が点灯した。そこは明らかに研究施設だった。実験台、測定機器、そして中央には大型のメインフレームコンピュータが置かれていた。


美智子はその光景に圧倒された。そして、突然の激しい頭痛に襲われた。


「あっ...」


彼女は膝をつきそうになったが、健太郎が素早く支えた。


「大丈夫ですか?」


「ええ...ただ、記憶が...一気に戻ろうとしているみたい」


美智子は目を閉じ、断片的な映像が次々と脳裏に浮かんでくるのを感じた。


_白衣を着た自分。健太郎と真剣な議論を交わす日々。初めて記憶操作に成功した瞬間の歓喜。そして、その技術の危険性に気づいた時の恐怖。_


「ここが私の研究室だったのね」美智子は震える声で言った。


「はい。あなたはここで記憶操作プログラムの中核を開発しました」


美智子はゆっくりと立ち上がり、部屋の中を歩き始めた。手で埃まみれの機器に触れると、まるでタイムマシンに乗ったかのように、当時の記憶が鮮明に蘇った。


「私の記憶は...政府がトラウマ治療のための技術を求めていると聞かされた。PTSDや重度のうつ病患者のネガティブな記憶を和らげる技術」


美智子は実験台の前に立ち、当時を思い出すように続けた。


「でも実際は、諜報活動と尋問のための技術として使われようとしていたのね」


健太郎は重々しく頷いた。


「はい。あなたが真実に気づいた時、プロジェクトは最終段階に入っていました」


美智子はさらに奥へと進み、小さな部屋の前で立ち止まった。ドアには「記憶調整室」と書かれていた。


「ここで...」


「はい、ここであなたの記憶操作が行われました」健太郎の声は悲しみに満ちていた。「あなた自身の選択で」


美智子はドアを開け、中を覗いた。中央には一つの椅子と、それを取り囲むように設置された機器がある。これが、自分の記憶を消した場所。三十年前の決断が行われた場所。


「でも、なぜ私は自分の記憶を消すことを選んだの?」


健太郎は深い息を吐いてから話し始めた。


「あなたはプロジェクトの真の目的を知り、証拠を集め始めました。それを公表しようとした時、政府内の闇組織があなたを消そうとしたんです」


「イレイザー...」


「はい。当時はまだその名前ではありませんでしたが、同じ組織です。彼らはあなたを事故に見せかけて殺そうとしました」


美智子は恐怖を感じながらも、話の続きを促した。


「それで?」


「私がそれを阻止しました。そして、あなたを守るための計画を立てたんです」健太郎は記憶調整室を見つめながら言った。「あなた自身が開発した技術を使って、プロジェクトに関する記憶を消し、一般市民として生きる道を選ぶ。それが最も安全だと」


「あなたが...私を救ったのね」


健太郎は微笑んだ。


「私たちは愛し合っていました。あなたを失うなんて考えられなかった」


美智子は椅子に近づき、恐る恐る触れた。冷たい金属の感触が、最後の記憶のピースを呼び起こした。


_「記憶が戻る方法はあるの?」と尋ねる自分。「はい、特定のトリガーに反応するプログラムを埋め込みます」と答える研究チーム。「そして、このUSBには全記録を保存します」と言いながら健太郎にUSBを手渡す自分。「必要な時が来たら、真実を教えて」と懇願する自分。「必ず」と約束する健太郎。_


「メモリーリンク...」美智子は突然気づいたように言った。「私が開発したアプリは、無意識のうちに自分の記憶を取り戻すためのトリガーだったのね」


「そうですね」健太郎は感心したように答えた。「あなたの潜在意識は、記憶を取り戻そうとしていたのでしょう」


美智子はメインコンピュータに向かった。三十年前の技術は今では古臭いものだが、当時は最先端だった。


「このコンピュータにはまだデータが残っているの?」


「おそらく」健太郎はコンピュータに近づき、操作パネルを確認した。「バックアップ電源があれば、データも保存されているはずです」


彼がスイッチを入れると、古いシステムが唸りを上げながら起動し始めた。緑色の文字が古いCRTモニターに表示される。


「パスワードは?」


「それもあなたが知っているはずです」健太郎は美智子を見つめた。「最終日に、あなた自身が設定したものです」


美智子は深呼吸をして、キーボードに向かった。記憶を探るように目を閉じ、そして指が自然とキーボードを打った。


「TRUTH2425」


画面が切り替わり、ファイル一覧が表示された。


「記憶が戻ってきている...」健太郎は驚きの表情で言った。


「断片的だけど、確かに」美智子は集中してファイルを探した。「これよ」


彼女がクリックしたファイルは「プロジェクトM最終報告」というタイトルだった。画面に表示された内容に、二人は息を呑んだ。


「これが...真実」


報告書には、記憶操作技術の全貌が記されていた。治療目的で始まったプロジェクトが、いかに軍事利用へと歪められていったか。そして、美智子と健太郎がそれを阻止しようとした経緯。


「これを世界に公表しなきゃ」美智子は決意を込めて言った。「この技術が再び悪用されることを防ぐために」


「でも、どうやって?」健太郎は懸念を示した。「このデータを持ち出したとしても、イレイザーは私たちを追い続けます」


美智子は考え込んだ。そして、ある閃きが脳裏をよぎった。


「私のアプリを使えばいい」


「メモリーリンク?」


「ええ」美智子は興奮気味に説明し始めた。「あのアプリは既に世界中で何百万ものユーザーがいるわ。その中に真実を埋め込めば、彼らは止められない」


健太郎は懐疑的な表情を浮かべた。


「でも、アプリは既にイレイザーに監視されています。私たちのスマートフォンも使えません」


「だからここにあるコンピュータを使う」美智子は自信を持って言った。「三十年前の技術だけど、インターネットに接続できれば、サーバーに直接アクセスできるはず」


「まさか、ここから...?」


「試してみるわ」


美智子はキーボードを打ち始めた。古いシステムをインターネットに接続するのは容易ではなかったが、彼女の専門知識が功を奏した。数十分後、彼女は小さな成功の声を上げた。


「接続できたわ!低速だけど、十分よ」


彼女は「メモリーリンク」のサーバーにアクセスし、管理者権限でログインした。健太郎は彼女の横に立ち、その作業を見守った。


「すごい...あなたは本当に天才だ」


「プロジェクトMのデータを圧縮して、アプリの次回アップデートに仕込むわ。全ユーザーがアクセスできる形で」


彼女は作業を続けながら、ふと健太郎を見上げた。


「これをしたら、私たちは永遠に逃げ続けることになるわね」


健太郎は悲しげに微笑んだ。


「それでも、真実を明かす価値はあります」


美智子はファイルの転送を開始した。進捗バーがゆっくりと進む間、彼女は健太郎に尋ねた。


「あなたは三十年間、ずっと私を見守っていたのね」


「はい」健太郎は静かに答えた。「遠くからですが」


「寂しくなかった?」


「毎日」彼の声には深い感情が滲んでいた。「でも、あなたが新しい人生を生きている姿を見ることで、私も生きる力をもらっていました」


美智子は彼の手を取った。かつての恋人。そして、今も彼女を守り続ける人。


「健太郎さん...ありがとう」


突然、施設の警報が鳴り響いた。


「侵入者だ」健太郎は素早く立ち上がった。「彼らが来た」


「どうして?私たちをどうやって見つけたの?」


「おそらく、インターネット接続を検知されたんでしょう」健太郎は冷静に分析した。「我々が考えていた以上に、彼らの監視網は広いようです」


美智子はモニターを確認した。転送はまだ60%だった。


「あと少しで完了するわ。時間を稼いで」


健太郎は懐中電灯を手に取り、入り口の方へ向かった。


「ここにとどまってください。私が彼らを引き付けます」


「待って!」美智子は彼を引き止めた。「危険すぎるわ」


健太郎は優しく微笑んだ。


「あなたの作業が最優先です。真実を世界に広める唯一のチャンスなんですから」


彼は美智子の頬に軽くキスをした。


「愛しています、美智子」


そう言って、健太郎は暗い廊下へと消えていった。


美智子は動揺しながらも、作業に集中しようとした。転送は70%...75%...進むにつれて時間が遅く感じられた。


遠くから銃声が響いた。美智子の心臓が凍りついた。健太郎は無事だろうか。


80%...85%...


足音が近づいてきた。美智子はおびえながらも、作業を続けた。


90%...95%...


「美智子さん!」


健太郎の声だった。彼は息を切らしながら研究室に戻ってきた。肩から血が流れている。


「怪我をしたの?」美智子は心配そうに尋ねた。


「かすり傷です」健太郎は苦しそうに言った。「彼らは大勢います。もう時間がありません」


「あと少しよ」美智子はモニターを指さした。98%...99%...


「完了!」


転送が終わった瞬間、美智子は最後のコマンドを入力した。「メモリーリンク」の次回アップデートに、プロジェクトMの真実が組み込まれた。


「やった!」美智子は安堵の表情を浮かべた。「あとは明日の予定されたアップデートを待つだけ」


「素晴らしい」健太郎は彼女を抱きしめた。「でも、ここから脱出しなければ」


彼はポケットから小さなデバイスを取り出した。


「自爆装置です。施設もろとも証拠を消すために設置されていたものです」


「使うつもり?」


「はい。ここでの証拠は全てデジタル化されました。施設を残す理由はありません。そして、爆発が彼らの注意を引いている間に、私たちは逃げられます」


健太郎はデバイスを設定し、カウントダウンを開始した。


「十分間です。急ぎましょう」


二人は急いで非常口へと向かった。健太郎は美智子の手を引き、裏口から外に出た。夜の森の中、彼らは懐中電灯の弱い光を頼りに走り始めた。


「車はどこ?」美智子は息を切らしながら尋ねた。


「山の反対側に停めてあります」健太郎は方向を指さした。「あと一キロほどです」


年齢を考えれば過酷な逃走だったが、二人はアドレナリンと決意に駆り立てられ、前進し続けた。


「待って」健太郎は突然立ち止まった。「聞こえませんか?」


美智子も足を止め、耳を澄ませた。確かに、彼らの後ろから複数の足音が聞こえる。


「見つかったのね」


「このままでは追いつかれます」健太郎は決意を込めた表情で言った。「私が彼らを引き付けます。あなたはまっすぐ進んでください。百メートルほど先に小道があります。それを左に進むと車にたどり着けます」


「だめよ!」美智子は彼の腕をつかんだ。「一緒に行くわ」


「美智子さん」健太郎は真剣な表情で彼女の目を見つめた。「あなたが安全であることが最も重要です。真実を広めるのはあなたの役目です」


彼はポケットから車のキーを取り出し、美智子に渡した。


「必ず生き延びてください」


美智子は涙を堪えながら、キーを受け取った。


「健太郎さん...」


「行ってください。時間がありません」


美智子は最後に彼を強く抱きしめた。


「必ず戻ってきて」


健太郎は微笑み、頷いた。そして、追っ手の方向へと走り始めた。


美智子は言われた通りに進み、小道を見つけて左に曲がった。胸の内で祈りながら、彼女は全力で走った。


数分後、彼女は古いセダンを発見した。キーで解錠し、運転席に座った。エンジンをかけた瞬間、遠くで爆発音が響いた。研究施設が爆破されたのだ。


「健太郎さん...」


美智子は涙を拭いながら、アクセルを踏んだ。車は森の中の細い道を進み、やがて舗装された道路へと出た。


彼女はバックミラーを見た。追っ手の姿はない。無事に脱出できたかに見えた。しかし、健太郎の姿もなかった。彼は無事だろうか。


東京の方角へと車を走らせながら、美智子は決意を固めた。真実を世界に広める。そして、健太郎を探し出す。それが彼女の新たな使命だった。


三十年前の記憶が完全に戻った今、美智子は自分が何者であるかを理解していた。彼女は単なるシニア向けアプリ開発者ではない。彼女は真実を守るための戦士だった。


「待っていて、健太郎さん。必ずあなたを見つけ出すわ」


そう誓いながら、美智子は夜の高速道路を驚くほどの決意と冷静さで走り続けた。


(第4話 終)

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