第2話

 ――毎日気が重い。幼馴染に自分の貞操が失われる日が近づいているのかと思うと、ひと時も気も休まらない。

 ガランは自室のベッドに寝転んだまま、はあとため息をついた。今はまだ、辺りは薄暗い。だが、夕霧亭の業務は早朝からのため、毎日この時間に目覚め、身支度を整えるのだ。

 のっそりと起き上がる間にも、幼馴染でありガランの後ろの処女を狙っているクラウスは魔獣退治に精を出し、ひたすら強くならんと努力しているのだ。

 昨日など、この村の周辺ではワンバーンに次いで強いと言われているA級ランクのグリフォンを倒してきた。A級ランクでも狩人としては十分なのだ。

 それなのにクラウスは、更に上を目指そうとしている。

 正直なところ、その努力はいらなかった。なぜかクラウスは昔から、年上の幼馴染であるガランに張り合おうとし、年齢以上のことを熟そうとしていたが、大人になってまでそれが続くとは思わなかった。

 クラウスにはもっと他のことに…村の発展になるようなことをして欲しい。村の名家の生まれであるクラウスには、将来の村のリーダーとして人々を導く素質があるのだから。

 ガランの重いため息に反して、いつも通りの朝が始まった。

 雄大な音楽がなった後の夕霧亭は限りなく忙しないし、人々はクエストを求めて受付には行列を成している。

 ただいつもと違ったのは、そこに初めて訪れた狩人がいたことだった。

 クエストの依頼が大方終わり、ガランがもうすぐ朝食にありつけると空腹を訴える腹を宥めていた時、その男は夕霧亭に現れた。

 纏う雰囲気は只者でない。使い古されているように見えるが、その装具は、歴戦の狩人のものだった。背負っている太刀も身の丈ほどあり、使い込まれている。その大柄な体躯は、硬質な肉を纏っていると一瞬で解るほどだ。

 頬に大きな切り傷があるものの、かなりの美丈夫であった。美形と名高いクラウスにもひけをとらないだろう。

 やや長めの銀髪に、険のある紫紺の双眸、鼻梁は高く、その下の唇は肉薄ながら形よく色も薄かった。顎から首の男らしいラインは、男の強さを具現しているようだった。

 その存在感は、誰の目にも明らかだ。

 男がクエスト掲示板に近づくと、周りにいた人々が譲るように離れた。そんなことには頓着しないように、男はじっくりと掲示板を端から端まで眺め、最も古びれた紙をとり、顎に手をやり、暫し思案した。

 そして、重そうな足音を立てて、受付に座っているカランの前に立つ。

「この成功報酬は、なんだ?」

 男の声は低い。鷹揚のない声に、なぜか咎められているような気さえする。

「――?」

 ガランは紙を受け取り、顔色を変えた。

 それはワイバーン討伐のクエストであった。クラウスへの苦肉の策とした、成功報酬にガランの身を捧げると書いたクエストだ。

 この村にやってくる狩人たちは、ほぼ顔見知りといっても良い。凡庸な村の雰囲気を気に入り滞在している、基本的に気のいい狩人たちだ。常連の彼らはこの報酬が、苦肉の策であることも知っている。

 だからこそ、飲みの席の笑い話として済まされてきたのだが…。

「こんな成功報酬は聞いたことが無い」

「いや、実は理由がありまして…」

「理由とはなんだ?」

「それは…」

 ちらりとガランは男を見る。男の双眸はガランを見据えたまま、瞬きさえしない。やや長めの銀の髪の奥にある双眸…。

 ガランはその双眸に魅入られてしまう。強く、強く、全てを見据えてきた目なのだろう。紫紺の色の奥に、昏い炎が見えるようだった。どこかで見たことがあるような…妙な懐古があった。

「それは、ちょっとした、意趣返しみたいなもので!」

 ふたりの間に割って入ったのは、クエスト管理人であるバスターだった。ふっと、男の目が逸らされ、ガランには周りの音が蘇ってきた。

「意趣返し?それはどういう意味だ?」

 無機質な声がバスターに投げ掛けられる。

「まあ、この村の中での遊びといいますか、ちょっとしたイベントといいますか…」

「お前たちは、真剣にクエストを請け負う狩人に遊びの報酬を提供するつもりだったのか?」

 わざとお道化るバスターに男は冷たい視線を投げかける。

「いえ、そういうわけでは…」

「ことによっては、中央クエスト委員会に報告しなければならない」

 バスターの顔が青ざめる。何も知らない人間に、事情を察しろというのは当然無謀だ。ましてや、このクエストのオプションの当事者は外ならぬガランであった。

 バスターもガランも、中央クエスト委員会が派遣した役人という立場だ。もし通報され、下手をすればクエスト管理人としての資格も失ってしまう。

 独り身のガランとは違い、バスターは妻と幼子を養っている身だ。職を失えば、生活が立ち行かない。

 ガランはぐっと拳に握りしめ、男に言い放った。

「俺は確かに、自分の身を捧げることをオプションとして付けました!」

 男の目がガランに向く。その目は、先ほどガランを見据えていた時よりも、凍てついていた。

「なぜ、お前がそんなことをする必要がある?」

「それはっ」

「お前が、自分の身を捧げてまで、ワイバーンを討伐必要があるのか?それほど村に被害があるとは思えないが」

 確かに村にワイバーンの被害はほぼない。ワイバーンがいるのは山奥の嘗て文明のあった遺跡だ。緑も豊かで、多くの生き物もいる。生態系が出来上がり、穏やかな森といってもよかった。そんな場所を捨て、わざわざワイバーンが村を襲う理由がなかった。

 だがここで、ガランが引き下がってしまえば、バスターとガラン自身も職を失う。ガランは頭の中を整理する。村の状況、自分の置かれている状況を。

「ご覧になってお判りになるとは思いますが」

 ガランは鷹揚に話し出す。ガランの声質は男性にしてはやや高い。だが、耳馴染みが良いと、良く褒められていた。近所の子どもたちに、絵本を読んで欲しいと言われるほどだ。

 努めて穏やかに、真摯さが伝わるように声を出す。

「この村に確かにワイバーンの被害はありません。それは幸いなことです。

 ――しかし、村の産業として、この村は目立ったものはない」

 辺境の村と呼ばれるだけで、村の廃れ具合は分かるというものだ。

「それこそ目ぼしいものといえば、ワイバーンくらいなのです。ワイバーンを目玉に、この村を盛りたてたい…辺境の村の浅はかな考えかとは思いますが、それぐらいしか、この村にはないのです」

 辺境の村は廃れていくしかない。だが、何か起爆剤があれば、生き残る道はある。S級の魔獣であるワイバーンを倒せば、少なくとも一時的な注目は集まる。

「クエストに各村にその土地の名産や特産をオプションとしてつけ、狩人たちに還元しようとする方針は中央クエスト委員会が出したものです。だが村としてはそんなものはない。そこで、俺は自分の身を捧げることを思いつきました」

「狩人たちを弄ぶつまりはない、と?」

「勿論です。ワイバーンを倒してくれた狩人には、喜んでこの身を差し出します」

「それならば、お前でなくても良かったのでは?」

「確かに、この村には美しい女性も多いですが、報酬として身を捧げろというのは、横暴です。致し方なくといってしまえばそれまでですが、狩人にせめて癒しをと思い、俺は申し出たのです」

 ガランは言い切る。

「なるほど、なかなか心苦しい言い訳ではあるが、一応は納得ができるな」

 男の声が、いっきに穏やかなものとなった。男の様子を見ると、緊迫した場面は脱したように思う。

 握りしめた拳に汗をかいていた。バスターも、夕霧亭にいた客たちも、一気に緊張が解かれたようにため息を漏らした。

 だが、続いた言葉に、ガランは動揺を隠せない。

「なら、このワイバーン討伐は、俺が請け負ってもかまわないということだな」

「は、はい?」

 思わぬ言葉にガランは声がひっくり返る。たしかに男は狩人だ。しかもかなり強い。この場に、この男に叶う者はいないだろう。

 男はクエストが書かれた紙に、自分の名をサインする。新たに『Gerald』と書かれた紙を、男は差し出した。やや癖のある文字だが、男の力強さを感じさせた。

「俺の名前は、ジェラルドだ」

 その名に、狩人たちがざわめく。屈強な狩人たちが、男の名を口にする。

「ジェラルドって、もしかしてあの『銀のジェラルド』かっ」

「嘘だろ。何でそんなSSS級がこんな村に」

 『銀のジェラルド』は、生ける伝説として知られている。中央クエスト委員会が最強の狩人の一人として名を挙げている一人で、他国からも魔獣の討伐依頼が来るほどの人物だった。

 そんな名のあるジェラルドが、どうしてこんな辺境の村にいるのか。

 ガランは瞠目する。

「ガラン」

 動けないでいるガランを前に、ジェラルドはクエストを握りしめているガランの手を取った。

「ワイバーン討伐成功の後は、その身を捧げてもらう」

 銀の髪と紫紺の双眸も相まって、冷たい印象があるが、掌は熱かった。体を屈め、ジェラルドは薄い唇でガランの耳に囁いた。

 真摯に言葉を囁いたジェラルドは、ガランの手を握った手ではない手で、頬を撫でる。

 その熱さえも、ガランにとっては熱いものだった。ガランから手を離したジェラルドは踵を返し、夕霧亭から立ち去った。

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