第8話 王子様のすきなもの
「黒田くん。僕達、次の一歩を踏み出す時だと思うんだ」
いつもの空き教室で、開口一番に優はそう言った。隼人が「何が?」と尋ねると、彼は意気揚々と語り出す。
「黒田くんは、この1週間で清水さんと挨拶や気軽な会話が出来る仲になったでしょ? 僕も時々2人の様子を窺ってたけど、今日も楽しそうに話してたし」
「見てたのか」
「コーチだからね。生徒の成長を見守る責務があるんだよ。お疲れ様、黒田くん」
「ふーん……」
優の言い方には、全くと言っていいほど他意はなかった。不要な感情が声を上げそうになるのを、唾液と共に飲み込む。何となく面白くない気がするのは、多分気のせい。
「じゃあ、記念すべき第一歩を踏み出したってことで。次はどうする? 勉強会とか? ひょっとして、デートだったり??」
「気が早いなあ。まだ、本で言うところの序章くらいだよ。黒田くんって、ミステリーを結末から読むタイプだったりする?」
「そもそも、ミステリーを読まないタイプ。読書自体、夏休みの読書感想文の時しかしないし」
「なるほど」
「ていうかスルーしてたけど、本当にミステリーを結末から読む奴なんているのか? 控えめに言って反則では??」
「まぁ、読書の楽しみ方は人それぞれだからね。でも、そっか。全然読まないタイプなんだね。どうしようかな……」
優が無意識に親指の爪の先を下唇に当てる。最近気づいた、彼が考え込んでいる時にする仕草だ。となると、次の作戦には本が関わってくるのだろうか。疑問に思って隼人は尋ねる。
「なあ、もしかして全然本を読んでないのって、作戦的にヤバかったりする?」
「いや、使いようによっては武器にもなるよ。知らない人には知らない人なりの戦術があるからね」
「そんなもんなのか?」
「変に知ったかぶる人より、素直に『教えて』って言える人の方が好かれるじゃない。それと同じだよ」
「あー。訳も分からず食べた高級肉よりも、慣れ親しんだ牛丼の味の方が上手く感じる的な」
「そうそう。……そうそう?」
首を傾げながらも、優は次なる作戦を書いた。「共通の趣味大作戦!」なんて間抜けな名前が黒板を埋める。
「相手ともう一歩踏み込んだ仲になりたいなら、やっぱり趣味の話を振るのが一番だよ。という訳で! これから黒田くんには本を読んでもらおうと思います」
「まあ、そうなるよな」
明るいトーンで言い切った優に、隼人は顔を引きつらせる。薄々勘付いてはいたが、実際に言われると気が重かった。
「本かぁ……。まあ、清水さんの一番の趣味だもんな。でもなぁ……」
「読み切れる自信がない?」
「正直なところ、全く」
静香が熱心な読書家なのは、クラスでも周知の事実だ。なんせ、図書委員に自ら立候補するくらいである。図書委員の仕事が大変なのは、滅多に図書館へ行かない隼人でも知っている。どちらかと言えば敬遠されがちな役割を、自ら進んで行う。そんな彼女に隼人は惚れ直したものだ。
とはいえ、自分がそこまで読書を好きになれるかというと無理な話だ。隼人は典型的な「少しでも活字を読むと眠くなってしまう」タイプである。先日も国語の授業で爆睡して、先生にこっぴどく叱られたばかりだ。
隼人の不安を肌で感じたのか、優は努めて明るい声で「大丈夫だよ」と励ます。
「さっきも言ったけど、知らない人には知らない人なりの戦術があるから。例えば、おすすめの本を聞いてみるとか。『最近読書にハマったんだけど、何かおすすめの本あったりしない?」って感じで」
「確かに、それなら共通の趣味を自然にアピールできるしな」
「ね! それに、『貴方の好きな物に興味があります!』ってアピールにもなるし」
「なるほど」
つまり、1回の行動で2重にアピールができるのである。隼人が全然本を読まないと分かった時に、優が顔を曇らせた理由がよく分かった。
「でも、いきなり清水さんにおすすめ本を聞くなんて大丈夫なのか? 相手は超読書家だぞ。本を薦めてもらっても、読み切れなかったら逆効果になる」
「だからこそ、練習が必要なんだよ。それで提案なんだけど、まずは僕のおすすめ本を読むのはどうかな?」
「……白川の?」
「ちょっと恥ずかしいんだけどね」
遠慮がちに差し出された本を受け取る。タイトルは「星の王子さま」だ。本に疎い隼人でも知っているような、超有名作品である。気に入っているのか、本には所々付箋が貼ってあった。表紙には「王子さま」と思われる男の子が描かれている。
「これなら絵も多いし、読みやすいんじゃないかな。騙されたと思って何ページか読んでみてよ。合わなかったら、それでいいからさ。……これを読んで、少しは気分転換になるといいんだけど」
気持ちが沈んでいるのを見透かされていたと知り、隼人の顔から血の気が引く。本を持つ手に変な力が入った。優は笑顔を崩さない。少し寂し気な声が言葉を紡ぐ。
「……これ、僕が一番すきな本なんだ。だから、黒田くんに読んでもらえると嬉しい」
隼人はしばらく沈黙した後、やっとの思いで「ありがとう」と口にした。丁寧な手つきで本を抱え直す。
優が自分のすきなものを教えてくれたのは、思えばこれが初めてだった。
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