29.その時、彼と彼女に何があったのか① ミルフィオーレ
ぱたんと背後で扉が閉じる音がして、ミルフィオーレはようやく我に返った。
あまりにも一気に流れてきた情報が多すぎて、頭が真っ白になっている。一体何が本当で、何が偽りだったのか、正常に判断ができない。おびただしく感情を揺さぶられて、今ミルフィオーレは混乱の真っただ中にいる。夢でも見ているのではないかという気がした。
けれども、今こうしてミルフィオーレの手を取ってエスコートをしているのは、紛れもなくクリストファーで。
そして、彼は普段のように浮かべていた軽薄な笑みを瞬時に消して、酷く熱のこもった瞳でミルフィオーレを見つめていた。
そんな熱量、ミルフィオーレは知らない。
頬の火照りは、未だ冷めそうになかった。未来の王妃と目されている淑女たる自分が、こんなに容易く一喜一憂振り回されて、何とも情けないことだ。はぁと呼吸を一つ。それで、ほんの少しだけ冷静になれた。
現実は、逃避を許してくれそうにない。使い慣れたサロンにいるのだけは、幸いした。鍵は抜け目なくかけられているようだけれども。
繋がれたままの手を解き、ゆるりと振り返って、ミルフィオーレはクリストファーに対峙した。わずかに後ずされば、かつんと靴の低い踵が小さく音を立てた。
「あんな公衆の面前でまで、またそうやって、平然と戯れ言ばかりおっしゃって。何を考えていらっしゃるの! 本当、いい面の皮ですわね、殿下」
ツンと勝気な口調で、ミルフィオーレはクリストファーを咎める。可愛げがないのは、重々承知の上で。
クリストファーのことが好きだ。
政略上の婚約者とわかっていても、募る想いを秘めつつ、ミルフィオーレは彼をずっと見てきた。
でも、先に彼の紡いだ情熱的な言葉を心から信じられるかというと、答えはノーである。
天邪鬼とでも、素直じゃないとでも言うがいい。それだけの年月が、ミルフィオーレの中に重く積み上がっている。
表向きでは、婚約者としての適切な一線をきっちり引き、付かず離れず。他の令嬢にも愛想を振りまいて、何度となく誤解を招いてきた。いつか刺されるのではと思いきや、彼は持ち前の話術とそつのなさで上手いこと乗り切っているらしい。
王太子であるから、分け隔てなく平等に。
それは、ちゃんとわかっている。この婚約は、家同士の繋がりのため。理性では、きちんとわかっているのだけれども。
なのに、プライベートではちゃらちゃらと軽い言動で揶揄いつつ、ミルフィオーレを惑わし、さも愛しているかのように振舞う。
この、落差。
その末に起きた、アレだ。
わからない。この男の本心は、一体どこにあるというのか。振り回されてばっかりだ。
ミルフィオーレは唇を噛み締めて、瞳をそっと伏せた。
「違う」
「だって、貴方とわたくしは、政略による婚約者。そうでしょう? そうだと言ってよ……! じゃないと……」
期待を、してしまう。したくないのに。わずかにでも生まれざるを得ない浅ましい感情が嫌だ。
「ごめん、違うんだ。確かに最初は政略だったし、今まで政略だと匂わせていたのは事実だが、私の本心は違う、ミルフィ。私の妃は、君以外考えられない」
至極真剣で、なのに自信家の彼にあるまじき弱々しい声が落ちてきて、ミルフィオーレはおずおず視線を上げた。
とくり、と心臓が小さく跳ねる。
「違う、とは……。どうして……そんな回りくどいことを」
「ようやく話せる」
そう呟いたクリストファーは、困ったように眉根を下げて、微かに口角を上げた。
「……正直、政争の話なんて野暮もいいところなんだが。ミルフィだけを娶るのに、以前から少々問題が出ていてね。王宮における勢力バランスをとるためだと、ずっと第二王子派陣営が、横やりを入れてきていたんだ。側妃も迎え入れろ、と。まあ、のらくらかわしていたがね」
「側、妃……? 一体いつから……」
「私たちが10の頃だったかな」
「そんな前から……!? わたくしたちが婚約を結んだ直後ではないですか!」
ミルフィオーレは、目を見開いた。
側妃だなんて言葉、根拠の薄い噂程度はもちろんちらほら流れたものの、クリストファーの口から直々に、初めて耳にする話だった。
王族にしては珍しく恋愛結婚をした両親から生まれたクリストファーは正妃腹の王子ではあるが、後ろ盾となる王妃の実家は伯爵家とやや弱い。
対して、王妃に少々子ができにくいことが発覚し、召し上げられた側妃から生まれた第二王子エドワードは、後ろ盾がヴァーミルと相対している公爵家といささか身分が高い。
ただ、高貴な身分でいながらも実家とすったもんだがあったらしい側妃は、この結婚を政略と割り切っており、権力にもさほど興味がなく、王妃とも良好な関係を築いている。
また、息子のエドワードにも二心はなかった。彼は出来の良い兄を心から慕っており、腹違いの兄弟とはいえ、至極仲が良かった。
けれども、側妃の実家はそうではなく、野心を抱いているという話だ。
今代では上手く運ばなかった野望を次代でこそはと諦めず、自分たちの家門の娘をクリストファーに宛がって、更に権力の中枢へと踏み込むべく画策していたらしい。
現在、クリストファーの近辺には、穏健派のヴァーミルとイングラムが双璧をなしており、中立派がちらほら取り立てられている。側妃の実家陣営である、いわゆる軍部を中心とした過激派は、少々退けられているのが現実だ。
周辺諸国と良い関係を築いている現状、当然防衛力は必須だが、かといって過剰な戦力は余計な火種を生みかねない。現王もクリストファーも、そう考えて治世を敷いている。
「君に対してその辺きっちり情報統制をしていたし、何より私はミルフィ以外を娶るつもりはなかったからね。だが、それを簡単に表に出しては、また元老院の一部のお偉方が荒れかねない。私が王冠を頂く予定であろうとも、君の血筋がどれだけよかろうとも、必ずしも我を押し通せるわけではない、全く面倒くさいことこの上ないよ。だから、当面私は気持ちを隠さざるを得なくなった。君に、何らかの妨害工作が及んでもことだったしね。政略と思わせていたほうが、都合がよかった」
クリストファーは、やれやれと肩を竦めた。
「そうして、私は、王太子として、そして君が王太子妃として認められるために、揺るぎのない一手を密かに求めつつ、誰にでも愛想の良いちゃらけた王子を演じてきた、というわけさ」
「呆れた。……かつての言動が、貴方の素でなかったとでも仰いますの?」
「あはは。ほぼ素だけどね。失望したかい?」
「……いいえ。わたくしとて貴族の娘ですもの。殿下の婚姻に、派閥の思惑が絡むことくらい、承知しております」
「ううーん、それはそれで複雑な回答だあ。もちろん、こればかりは、私一人だけでどうこうできる問題じゃない。王太子妃としての資質も関わってくるのだが……」
どれだけクリストファーがミルフィオーレただ一人だけを望もうとも、ミルフィオーレに将来の王妃としての器が備わっていなければ、対抗陣営にいくらでも隙を与えてしまうだろう。
自分が、王太子妃、ひいては王妃にふさわしいかと問われれば、わからないとしか言いようがない。日々真面目に王太子妃教育に邁進してきたとはいえ、婚約した10歳の頃よりコツコツ積み上げてきたから、胸を少し張れる程度。
ミルフィオーレは、クリストファーやレイルのように、天才でも秀才でもない。目の前の現実に向き合って、ただひたすらに努力を重ね、自分のできることをしてきただけだ。
だというのに、クリストファーは、まるで自分のことのように得意げに瞳を細める。
そうして、おもむろに手を伸ばし、ミルフィオーレの長く艶やかな赤い巻き毛を一房掬い取ると、敬意を表するかのようにそっと口づけた。
「君は、私が手をこまねくしかできなかった王太子妃としての決め手を、自ら率先して積み上げた。もう痺れるよね。どれだけ私を惚れさせれば気が済むのかと……」
「またそういう軽口を……って、え? 決め手、とは?」
「小麦だよ」
「あ……」
ぱちくりと目を瞬かせる。
そう。穀倉地帯であるヴァーミル公爵領で、ミルフィオーレは私財を投入して、ずっと小麦の品種改良を続けていた。
きっかけは、ミルフィオーレが幼い頃に国を襲った、冷夏からの飢饉だ。
公爵領は小麦の備蓄をしっかりしていたので、ある程度融通をきかせられたが、それでも自領をどうにかするので精一杯だったし、ミルフィオーレも我慢をして随分とひもじい思いをした。にもかかわらず、満足な栄養が取れずに、亡くなった者も多かった。
翌年以降天候は持ち直したものの、国がしばらく荒れたのを、ミルフィオーレは今でもよく覚えている。
飢饉が起きる前、父親に連れられ視察に出た時、優しくしてくれた町の人たちの顔ぶれが減っていて、穏やかだった笑顔が消えて、ミルフィオーレに手を振ってくれた幼子も姿を見せなくなって。
その時まで死は、幼いミルフィオーレにとって、まだまだ遠い存在だった。それを、如実に残酷につきつけられた気がしたのだ。
小さな胸をたくさん痛めて、どうにかしたいと願い続けた。そして、歳を重ねるにつれ、どうにかするための力を自ら着実に身に着け、立ち上がったのだ。
王子妃教育の合間を縫いながら、ミルフィオーレは伝手を使って、周辺各国から様々な品種の種を手に入れた。農業研究者たちを支援し、土壌や気温、湿度に養分など様々な要因を絡めて試行錯誤を重ねながら、冷害に強くなるよう麦を掛け合わせた。
上手くいかないことなどざらで、何度も何度も失敗した。けれども、諦めなかった。
そうして、苦節数年、ようやく成果が芽を出したのだ。
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