16.嵐の前② ステラリア




 ミルフィオーレは、王太子クリストファーの婚約者であり、未来の王妃を約束された高貴な女性だ。

 そんな彼女が、何故こんなうらびれた裏庭に。

 それに、ステラリアとミルフィオーレは、互いの婚約者の仲がよいから挨拶を少し交わす程度で、特段親しくもない。第一、伯爵の中でも下の序列にいるガルシア家の身分で彼女に近寄るなど、恐れ多くて難しい。

 だから、まさかミルフィオーレから声をかけられるとは、露とも思わず。

 慌ててベンチから立ち上がり礼を取ると、ミルフィオーレは目線で着席を促してきた。おずおずと大人しく座り直せば、当たり前のようにミルフィオーレが隣に腰掛けてくる。


(なななな何で!? 何事!? てか、ミルフィオーレ様いい匂いする……)


 恐慌に陥りそうなのをかろうじて表に出さず、ステラリアは内心で悲鳴を上げた。

 しかも、隣から、やたらと馨しい香りが漂う。柑橘系の香水だろうか、控えめで爽やかな香りは、いささか公爵令嬢のイメージとは異なるが、ステラリア好みだ。


「アレを、どこか悟ったような目で見ていたものですから。気になってしまって」

「えっ!? あっ!!」


 ミルフィオーレが手にした扇が示す先は、きゃっきゃと暢気に楽しげな声が漏れ聞こえるガゼボ。

 しかも、件の令嬢の手をクリストファーが恭しく取っているではないか。何という酷いタイミングだろう。

 声をかけられた衝撃ですっかり頭からすっぽ抜けてしまったが、ミルフィオーレはクリストファーの婚約者なのだ。その婚約者が、別の女に夢中になっている現場を目撃してしまうだなんて、いい気分は絶対にしない。きっと目くじらを立てているはず。

 泡を喰ってそろそろと彼女を窺うが、その美貌には怒りも憎しみも諦めも絶望も浮いていない。ただただ、不自然なほどに泰然としている。その様子が、不思議とレイルに似ているなと思った。


「わたくしはいいのよ。婚約は政略ですし、殿下も息抜きくらいはしたいでしょうし。……楽しそうでいいわね」

「ミルフィオーレ様……」

「でも、貴女たちは違うのでしょう?」


 口ではそう言うものの、ツンと気取った声色には、ちょっとだけ拗ねた色が見えたのが、何だか可愛い。

 常に淑女然として、大人びて、毅然として、優雅な高嶺の花の少女の、少女らしい嫉妬の一面を見つけて、ついついほっこりしてしまう。嫉妬の内容が、クリストファーの浮気疑惑なので、一国民としては喜ぶべきことでもないのだが。

 レイルの面差しを伺うにつれて、少しずつであるが声音とか、表情とかのちょっとした機微を読むのに長けてきたステラリアには、ミルフィオーレはわかりやすい。

 ステラリアがついつい唇を緩めてしまうと、彼女はわずかに眉を顰めた。


「って、こんな時に何を悠長に笑っているの……! どんな余裕かしら?」

「すみません。ミルフィオーレ様が、お可愛らしいなあと思いまして」

「はっ!? 可愛……っ!? どこをどうしたらそうなりますの!?」

「ふふ、内緒です。ええと、私の婚約も、政略ではあるのですが……」

「……嘘でしょう? アレで?」

「? アレが何かはわかりかねますが、本当ですよ? でも、そうですね、政略ではありますが、あのレイル様が信じていて欲しいと仰っていたので、私は信じているだけです」


 仏頂面で、感情がわかりづらいけれども、レイルは絶対に嘘偽りを言う人ではないと、ステラリアは知っているから。

 きょとんと目を瞬かせた後、ミルフィオーレは、やれやれと肩を竦めた。


「呆れた愚直さだわ。……貴女、婚約者の浮気もどき現場を直接見ているというのに、そんな都合のいい言葉一つで、よく落ち着いていられるわね」

「あはは。とはいえ、寂しさを紛らわせられるわけではないのですが……。ミルフィオーレ様こそ、もっと苛烈にお怒りかと思っておりました」

「怒るよりは、正直呆れているわね」


 そう。本来であれば、いの一番に現状を憂慮すべきなのは、ミルフィオーレなのだ。

 後継者問題が絡む故に、王族は側妃を認められている。王妃と側妃の関係悪化が血で血を洗う争いにまで発展しただなんて、どこの国でもままあることだ。

 だというのに、彼女はただ事態を静観し、不愉快さは表に出すものの、フンと不遜げに鼻を鳴らすだけにとどめている。呆れの矛先が、どこに向かっているのかまでは言わない。

 クリストファーの所業にわずかな嫉妬を見せるくせに、ミルフィオーレは決して自らの不利になりそうな言動は避けている様子。彼女ほどの身分があれば、どうとでもなろうものだろうに。忌々しく思いつつも、彼女が悪感情で動いていないのは定かだ。

 薄々、そうかなとは気づいていたのだが、ステラはそれで完全に察してしまった。


「だから、私のことを心配して、わざわざいらしてくださったのですね。ありがとうございます、ミルフィオーレ様」

「……はぁっ!? べっ、別にそういうわけでは!? わたくしは、アレの影響が変に及んだらいけないと思って確認しに来ただけで!」

「そうですね、私ばかりではなく、他の令嬢のフォローにも回っていらっしゃるのですものね? ミルフィオーレ様がお優しい方だと知れて、とても嬉しいです」

「な……っ!」


 あのクリストファーが選んだ令嬢だ。元々、素晴らしい女性だと知ってはいたが、益々その気持ちが強くなり、ステラリアはへにゃりと笑って自らの想いを口にする。

 ぐっと言葉に詰まって頬を朱に染めたミルフィオーレは、キーっと声を荒げたものの、毒気を抜かれたように天を仰いだ。ころころと表情が変わったのが意外だった。彼女の生来の本質は、きっと感受性豊かなのだろう。

 が、一呼吸後、すぐに気を取り直して、面持ちをきりりと改める。さすが高貴な令嬢。乱れた感情のコントロールが上手くて、見習いたいほどだ。

 さも醜態などありませんでしたといった風貌で、ミルフィオーレはきらりと瞳を輝かせた。

 そうして、ステラリアの手を取って握りしめた。まるで、逃がさないとでも言わんばかりに。


「貴女、テンポが少し独特ね……。でも、気に入ったわ。私のことはミルフィと呼んでちょうだい。お友達になりましょう、ステラ」

「はい!? ミルフィオーレ様、何を仰って……」

「ミ・ル・フ・ィ!」

「ひぇ……ミ、ミルフィ様……」

「よろしい。お互い浮気もどきをされている仲ですもの、どうせならわたくしたちも殿下たちなど放っておいて、楽しみましょう? 今度、お茶に招待するわね」


 そう悪戯っぽく呟き、ぱちりと片目を瞑ったミルフィオーレはたいそう茶目っ気に溢れていた。ウィンクが様になっていて、ステラリアは思わずときめいてしまう。カッコいい。

 満足げににっと口角を上げたミルフィオーレは、至極機嫌良さそうに裏庭を離れていった。

 一人残されたステラリアは、背もたれに体重を預けどっと脱力した。


「あ、嵐かな……」


 それにしても圧が凄かった。伊達に、生まれてこの方公爵令嬢をやっていない人だ。流されたと言うなかれ。所詮ステラリアは、しがないイチ伯爵令嬢に過ぎないのだ。

 何だか、肉食獣のターゲットにでもされたような気分だった。






「まあ、私が落ち着いていられるのは、ひとえにジャスミンとマクベス様のおかげなんだけどね……」



 ガゼボでいまだ歓談している彼らを、ステラリアはぼんやりと眺める。

 もちろん、レイルからもらった言葉を信じているのもあるが、少なくともあの場にいるレイルはちっとも楽しそうに見えないから。

 レイルは、じっとアイリを見つめているだけだ。その瞳に、恋い慕うような情熱は感じられない。ただただ冷たく凪いでいる。自分を見つめる、暖かみを覗かせた瞳とは、全然違うのだ。

 だから、ステラリアは取り乱すこともなく平静でいられる。多少、感情がざわついてしまいそうになるが、理性で押さえられる程度だ。

 だって、レイルの眉根はほんのわずか下がっているし、唇だってへの字だ。傍から見たら普段と全く変わらぬ鉄仮面のように見えるが、ステラリアにはわかる。あれは内心物凄くイライラしている顔だ。

 そんな指摘をしたら、ジャスミンから「お嬢様もいい加減レイル様マスター極めてきましたね!!」と、ドン引かれること請け合いだろうから言わない。


 それに、ステラリアには、マクベスという最終兵器もいる。

 さすがに詳細までは頑なに口を割らなかったが、クリストファーからの密命が絡んでいるらしいのは疑うべくもない。つまりは、仕事だ。

 何より、自室でも、変わらずベッドローリングを繰り広げていて、「ステラに会いたい」「ステラが足りていない」「これが終わったらステラを絶対に抱き締める」「こんなことになるなら書類放り投げたい」と、迸る愛を発する代わりに、元気に愚痴を叫んでいるらしい。気が進まなくても、仕事はきちんとしてほしいし、今は無理だとしてもいつだって抱き締めてくれていいのに。

 第一、変わらず、レイルから細やかに花が届くのである。

 ステラリアを放置せざるを得ない罪滅ぼしなのか、はたまた会えない寂しさの表れか。花束は随分と豪華で、マクベス情報によると、侯爵家の庭園からレイルが手ずから選んで束ねているらしい。ステラリアの好きな花を、毎回きっちり織り交ぜている辺り、しっかり好みを把握されててニクい。

 これでアイリに気持ちを移したのではないかと疑うのは、さすがに無理がある。


 だから、何かが秘密裏に動いていて、レイルが絶対にステラリアを近寄らせたくないのだろうなという想像に至るのは、案外容易かった。

 その中心にいる人物が、件の男爵令嬢なのは一目瞭然だ。

 レイルがこんなちぐはぐの態度をひっそりと見せているのだから、上司であるクリストファーの動きも腹積もりあってに違いない。ああして、アイリに心酔して近づいているのは、きっとふりだろう。

 さすが王太子、腹芸は得意なのか、事情を知らなければ徐々にアイリに惹かれ気持ちを移しているようにも見える。

 しかし、クリストファーはアイリに対してのめり込んでいるようにみせかけて、よくよく振り返るときちんと一線を引いていた。口説きはするが、深みまでは溺れない。まるで、恋愛の駆け引きを楽しんでいるかのように。上手いやり方だ。

 それを、ちゃんとミルフィオーレも理解しているから、ああも慎み崩さず立ち回れているのだ。

 もし彼女がここに来なかったら、ステラリアもクリストファーのことを誤解していたままだっただろう。


(ミルフィオーレ様が美しいだけでなくとっても気さくで、ちょっとだけツンデレな可愛らしいお方だったというのがわかったのは、得難い収穫だったけれども)


 何故、ご縁が遠いであろう高貴な令嬢と巡り巡って友達に、なんて話になったのか、正直意味がわからない。ステラリアは、思わず遠い目をした。自分が今後、粗相をしなければいいが。


 ガゼボは、今なお賑わいを見せている。裏腹に、周囲には忌々しくアイリを睨みつけては足早に去っていく令嬢たちの姿がちらほら。

 内に秘めた悪意や、負の感情は、膨れて膨れて、やがて弾けてしまう。


「これから、どうなるのかしらね……」


 ステラリアには、なにがしかの思惑の全貌は見えない。

 まだまだ、男爵令嬢を取り巻く騒動は、落ち着きそうになかった。


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