第7幕 破られた同盟、二人の約束

 その日、韓烈はいつになく神妙な面持ちで帰宅した。

 いつもなら、軍務を終えた後は無言のまま剣を拭き、軽く酒を口にし、必要なことだけを話して部屋に戻るのに——


 今夜は、少し様子が違っていた。

 屋敷の書庫で書を読んでいた私は、侍女が韓烈が呼んでいると告げると、すぐに本を閉じて彼のもとへ向かった。


 韓烈は、屋敷の奥の一室にいた。

 ろうそくの灯りがゆらゆらと揺れ、彼の影を壁に映し出している。

 私が部屋に入ると、韓烈は口を開きかけたが、何かを迷うように言葉を飲み込んだ。


 そして、低い声で言った。

「……燕が、趙を攻める動きを見せている」


 背筋が、ふっと冷たくなった。


 燕——

 趙国の東に広がる大国。

 趙と燕は同盟関係にあった。

 それは私が趙に嫁ぐ際に結ばれたものでもある。

 ——婚姻の同盟は、三年の約束だったはず。


 瞬時に数えた。

 結婚してから、まだ一年しか経っていない。


「……どうして?」


 韓烈は、しばらく沈黙し、言葉を選ぶように低く答えた。

「まだ確定ではない。だが、燕はここ数ヶ月、軍を動かしている。国境沿いの城に兵を集め、補給物資を増やしているという報告が入った」


「燕が動く可能性は……?」

「……高い。」


 韓烈の声には、微かな苛立ちが滲んでいた。


「燕が本気で攻めるつもりなら、趙はそれに備えなければならない」

「だが、まだ同盟は破られていない……本当に攻め込んでくるのなら、理由があるはず」


 私は腕を組み、考えを巡らせた。


「燕は、なぜ約束を破ろうとしているのでしょう」

「趙王には、何か話が?」


 韓烈は、眉をひそめて首を振った。

「まだ何も。趙王は燕が攻めてくるとは考えていない。事実、燕から正式な通達はない」


 私は、かすかに唇を噛んだ。


 ——では、なぜ燕は動いている?

 何かの思惑があるのか、それとも趙国を試しているのか。


「すぐに戦になるわけではない」

 韓烈は言葉を続けた。


「だが、万が一、燕が趙に牙を向けた場合、こちらも迎え撃たなければならない」

 胸の奥がざわめいた。


 戦——

 また、戦が始まるのか。

 戦場に身を投じたとき、確かに剣を握ることに歓喜を覚えた。

 けれど、戦というものは、剣の腕だけではなく、人の命を奪い、国を揺るがせる。


 趙王がどう動くのか。

 燕は、なぜこの時期に動くのか。


 韓烈の顔をじっと見つめた。

 彼の鋭い目は、沈黙のまま夜の闇を見つめている。


 戦に生きる男——

 しかし、その目の奥にある疲労と、静かな怒りを、私は見逃さなかった。


「……韓烈さま」

 私は、ゆっくりと口を開いた。


 韓烈は、私を見た。

「私は、どうすればいいですか?」


 韓烈は短く息を吐いた。

 私の問いに答えることはなく、こう呟いた。

「……お前を守る。それだけは、どんなことがあっても変わらない」


 その声は、どこまでも静かで、どこまでも真剣だった。


 玲を守ること。

 それが絶対だった。


 たとえ趙が滅びようとも、燕がどれほどの軍を送り込んできても、玲の命だけは、何があっても守らなければならない。


 しかし——

 どうすれば守れる?

 趙が燕に攻め込まれれば、玲は再び戦の渦に巻き込まれる。


 彼女は、ただの王女ではない。

 すでに戦場を経験し、剣を握り、軍略にも長けた存在。

 彼女が何もしないまま、大人しく屋敷に留まるとは思えない。


 玲は、そういう人間だ。

 韓烈は、玲が剣を持ち、戦場に立つ姿を何度も見た。

 その強さを誇りに思う一方で、それが何よりも恐ろしかった。


 戦場では、どれだけ優れた者でも死ぬときは死ぬ。

 それは韓烈自身が、幾度となく見てきたことだった。

 戦場に玲を出せば、いつか彼女を失うかもしれない。


 それだけは、絶対に耐えられない。

 しかし、玲を屋敷に閉じ込めることもできない。

 そうすれば、彼女の誇りを奪うことになる。


 では、どうすればいい?

 韓烈は、考えを巡らせた。


 玲を戦場に出さず、それでいて彼女の意志を無視しない方法——

 答えはまだ見つからなかった。


「……考えがまとまったら、話す」

 そう言うしかなかった。


 私は、静かに彼を見つめ、やがてそっと頷いた。

 ——彼の迷いが、私にははっきりと見えた。


 韓烈は、迷うことのない男だった。

 戦場では冷静に、すべての決断を下してきた。


 だが、私のことになると、彼は迷っていた。

 それが、胸を締めつけた。


 韓烈がこんなにも自分のことを考えてくれている。

 それが嬉しくて、そして、どこか苦しかった。


 夜風が、かすかに吹き込んだ。

 外では、初夏の虫が静かに鳴いている。

 また、戦が始まるのかもしれない。


 その夜、私は眠れなかった。



 ◇



 事態は急激に動き出した。


 国境付近で戦が起こった——


 報告は、韓烈のもとへ急報として届けられた。

「……趙軍が燕軍に向けて矢を放った、と?」

 韓烈の眉間に、深い皺が刻まれる。


「その後、燕軍が応戦し、戦闘が始まったようです」

 副官・岳承が険しい表情で続ける。

「国境付近に駐屯していた我が軍が、警戒中の燕軍に対し、先に矢を放ったとのことですが……何かの挑発があったのか、誤解によるものかはまだ不明です」


 私は、息を詰めた。

 ——この戦、偶発的なものなのか、それとも、仕組まれたものなのか?


 韓烈もまた、無言のまま地図を睨んでいた。


 玲は地図上の趙と燕の国境線を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「……これは、白陵(はくりょう)の仕掛けたものかもしれません」


「白陵?」

 岳承が玲の言葉を受け、目を細める。


 燕国では、趙との同盟を維持しようとする穏健派と、趙をはじめ他国に攻め込むべきだとする過激派との間で内部抗争が激化している。


 白陵は、過激派の武官の筆頭だ。


「燕王の許可なく動く可能性があるのは、彼だけだわ」


 私は思考を巡らせながら言葉を紡ぐ。

「そして、白陵にとって最も都合がいいのは、趙が先に仕掛けること……趙が『侵略の意思あり』と見なされれば、軍の動員を正当化できる」


 韓烈は沈黙したまま、地図をじっと見つめていた。


 ——すでに戦は始まった。

 それが事実ならば、いくら燕王が慎重な人物だったとしても、ここで軍を退かせることは難しい。


 もしも燕がこれを「趙の侵略行為」と断じた場合、燕国全土が開戦へと向けて動き出す。


 韓烈は低く息を吐いた。

「……すぐに軍をまとめ、国境へ向かう」


 その言葉に、心臓が跳ねた。

 このままでは、趙と燕は全面戦争に突入する。

 だが、本当にそれしか道はないのだろうか?


 思考が、冷静に巡る。

 白陵がこの戦を望んでいるのは明らかだ。


 しかし、燕王はどうなのか?

 燕国全体として、この戦は避けられないのか?

 ——真相を確かめなければならない。


「……待って!」

 鋭い声が響き、韓烈の動きが止まった。


 彼が、私に目を向ける。

 その黒い瞳は、警戒と戸惑いに揺れていた。


 私は、震える拳を握りしめたまま、真っ直ぐに韓烈を見つめた。

「私が燕へ行くわ」


 韓烈の眉が、ピクリと動いた。

「燕の宮廷に出向き、父王に自ら確認する。燕王は本当に戦を望んでいるのか。もし白陵が独断で動いているのなら、それを止める手立てがあるかもしれない」

 声は落ち着いていたが、その言葉の意味するところは重大だった。


 韓烈は、沈黙する。

「……馬鹿なことを言うな。」


 彼の声は、低く抑えられていた。

 だが、その奥には確かな怒りがあった。


「お前が燕へ行ったところで、父王が会うとは限らない。それどころか、燕王はすでにお前を趙の人間と見なしているはずだ。最悪、その場で処刑されるかもしれない」


 喉が、かすかに鳴る。

 確かに、その可能性はある。

 燕国の王女であった私は、今や趙国の部将となった。


 趙の人間。

 戦時下であれば、敵国の部将なのだ。

 それを、燕王がどう判断するか——読めなかった。


 すると、横にいた岳承が、鋭い声を発した。

「……それに、玲様が趙を裏切らない保証はどこにありますか?」

 私は息を呑んだ。


 韓烈は、眉をひそめて岳承を睨んだが、岳承は怯むことなく続ける。

「この戦の大義は、趙が燕に侵略の意思がないことを示すことにある。だが、趙の部将である玲様が燕へ赴き、そのまま帰らなかった場合、趙の内部情報が燕へ流れる可能性もある」


 私は、ぎゅっと拳を握る。

「趙を裏切るつもりはない」

 その声には迷いがなかった。


 韓烈は無言のまま、私をじっと見つめた。


 岳承はさらに問いかける。

「では、なぜわざわざあなたが燕へ行く必要があるのですか?」


「戦を止めるためです」

 私は、静かに答えた。


「趙と燕が戦えば、両国は疲弊し、多くの命が失われる。もし燕王がまだ開戦を決意していないのなら、戦の火が燃え広がる前に止められるかもしれない」


 岳承が、さらに言葉を重ねようとしたそのとき、韓烈が静かに手を上げた。

「もういい」

 低く落ち着いた声だった。


 岳承は口をつぐみ、私もまた、韓烈の真剣な瞳を見つめた。

 韓烈は深く息を吐きながら、眉間を押さえた。



 ◇



 長い沈黙が流れた。

 韓烈は、深く息を吸い込むと、玲を見つめる。

 ——合理的に考えれば、玲の提案は悪くない。


 確かに、燕王がまだ開戦を決意していないのなら、玲が直接説得することで戦を止められる可能性がある。

 国境での衝突が偶発的なものなら、話し合いの余地も残されている。


 そして何より——

 玲が燕へ向かうことで、趙が戦を急いでいないことを燕に示せる。


 趙に侵略の意図がないことを伝えるために、玲という「交渉の橋渡し役」を送ることは、一つの外交的な手段になり得る。


 だが、それはあくまで「理屈」の話だった。


 個人的な感情を優先させるなら——

 韓烈は、玲を送り出したくなかった。


 玲が燕へ行けば、そのまま帰らぬ可能性がある。

 燕王が玲を趙の人間とみなして冷酷に処刑するかもしれない。

 あるいは、白陵の手の者に捕えられ、人質とされるかもしれない。


 けれど——

 このままただ軍を動かせば、戦は確実に始まる。

 韓烈は静かに目を閉じた。


 玲がここに来てから、韓烈の世界は変わった。

 これまで戦場に生き、ただ戦い、勝利し、国を守ることだけが自分の役目だった。


 だが、玲と過ごすうちに、自分が「守るもの」の意味が変わり始めている。

 国だけではない——

 彼女を守りたい。


 それが、韓烈にとって、何よりも重要なことだった。


 だが、玲自身が戦を止めたいと願い、それを実行しようとしている。

 その想いを無視し、ただ守ることだけを選ぶのは、彼女を信じないのと同じではないのか。


 韓烈は、私を見つめたまま、低く言った。

「……わかった」


 私は、じっと韓烈の言葉を待っていたのか、微かに息を飲んだ。

「お前の言うとおり、燕王がまだ開戦を決意していないなら、戦を止める道はあるかもしれない」


 それは、韓烈なりの承諾だった。


 だが、その後に続いた韓烈の言葉は、彼の中にあるもう一つの決意を示していた。

「……だが、条件がある」


 私は、問いかけるように韓烈を見る。

 韓烈は視線を逸らさずに続けた。


「訪燕には期限を設ける。二週間だ」

 私は、一瞬息を詰まらせた。


 二週間。

 たった十四日で、玲は燕王の意向を探り、白陵の動向を見極め、交渉をまとめなければならない。


「二週間経っても何かしらの成果を得られない、あるいは連絡が途絶えた場合——」

 韓烈の瞳が冷ややかに光る。


「俺が軍を率いて、燕の首都へ向かう」

 胸がざわめいた。


 これは、ただの警告ではない。

 韓烈は本気だった。


 私が燕の宮廷で囚われ、趙へ戻れない事態になれば——

 韓烈は、たとえ趙王の許しがなくとも、燕へ進軍するつもりなのだ。


 それが、韓烈なりの玲への「守り方」だった。

 玲が燕に行くことを許す。

 だが、もし彼女が戻らないなら——

 韓烈は、自らの手で彼女を取り戻しに行く。


 韓烈の真剣なまなざしを見つめながら、ゆっくりと頷いた。

「……わかりました」


 それが、私にとっての「覚悟」だった。

 韓烈は、玲がどれほどの決意を抱いているのかを感じ取った。


 そして、韓烈自身もまた、すぐに軍を動かす準備を始めることになった。

 こうして、趙と燕の戦を止めるための、二つの戦いが始まろうとしていた。



 ◇



 決まった瞬間、屋敷の中が慌ただしくなった。


 訪燕のための使節団の準備が始まり、同行する護衛や侍女たちの人選が行われる。

 韓烈もまた、軍をまとめ、国境へと向かう準備を進めた。


 大将軍である韓烈にほとんどの軍事権限が与えられていたため、二つの作戦はすぐに趙王の許可を得ることができた。


 趙王は、最初こそ驚いたものの、韓烈の決断に異論は唱えなかった。

 趙が無意味な戦に巻き込まれぬよう、最善の策を尽くす——

 それが韓烈の立場であり、趙王もまた、それを理解していた。


 燕行きの準備が進む中、韓烈は何も言わず、ただ静かに彼女を見守っていた。

 これが、韓烈にできる唯一の「選択」だった。


 玲を信じること。

 そして、もしその信頼が裏切られたとき——

 韓烈は、自らの手で全てを決着させる覚悟だった。



 ◇



 夜の帳が下りる頃、韓烈の寝室にあるテーブルに、韓烈と玲は向かい合って座っていた。

 久しぶりに、二人だけの時間——それなのに、今夜だけは、いつものように穏やかに談笑することも、兵法について語り合うこともなかった。


 明日になれば、私は燕へ旅立つ。


 次に生きて再び顔を合わせることができるのか——それすらも分からない。


 書斎の窓の外では、初夏の夜風がそっと庭の草木を揺らし、遠くで虫の音がかすかに響いていた。

 この静けさが、かえって胸を締めつける。


 韓烈が無言のまま杯に酒を注ぎ、それを私の前に差し出した。

 私は黙ってそれを受け取った。


 ——伝えなければならない。

 今夜が、その時だ。


「玲……」

 韓烈は私の目をじっと見て言った。


 二人の間には、言葉にならない想いが漂っていた。


 沈黙——けれど、それは心を落ち着かせるものではなく、どこか切なさを伴っていた。


 韓烈がそっと、私の手の上に自分の手を重ねる。


 韓烈の手は、温かかった。

 大きく、しっかりとしていて——それなのに、優しい。


「……気をつけろよ」

 韓烈の声は低く、けれど穏やかに響いた。


 私は、ゆっくりと顔を上げる。

「ええ……必ず、帰ってきます」


 韓烈の目が、私を静かに見つめていた。

 どこか憂いを帯びた瞳。


 その視線を見つめているだけで、胸の奥が熱くなっていく。

「……お前が燕へ行く前に、一つだけ伝えておきたいことがある」


 韓烈は、私をじっと見つめ、静かに言葉を紡いだ。

 私は、彼の言葉を待つように、静かに息を飲んだ。


「お前のことを……愛している」


 ——心臓が、止まりそうだった。

「愛している」の言葉が体中を駆け巡る。


 韓烈の視線は、私を深く、真っ直ぐに捉えていた。

 そして、包む手に、力がこもる。


「いつからかは分からない。だが、気づけば、どんな時もお前のことを考えていた」

 韓烈の低く落ち着いた声が、胸に響く。


「お前がここに来る前の俺は、戦場で生きることしか知らなかった。ただ戦い、勝ち続けることでしか、自分の存在を証明できなかった」


 韓烈はふっと息を吐き、苦笑した。

「だが、お前と出会って——俺の世界は変わった。お前と過ごす日々の中で、俺は初めて、戦場以外の人生に彩を感じられるようになった」


 私は、息を詰まらせたまま韓烈を見つめていた。

 韓烈の表情は、どこか切なげで、それでいてどこまでも真剣だった。


「……ただ、俺のこの想いが、お前の自由を奪うものにはしたくない」

 韓烈は、包んだ手をふっと緩める。


「お前には、お前の生き方がある。俺は、それを縛るつもりはない。だから……この想いを伝えるだけでいい」

 私は、目を見開いたまま韓烈を見つめていた。


 韓烈は、穏やかに微笑みながら私を見ていた。

 そこに、何かを要求するような意図は読み取れない。


 ただ、胸の内に秘めていた想いを、私に伝えたかっただけ。


 だが——

 私の反応は、韓烈の予想とはまったく異なっていた。


 私は、杯をそっと机に置き、深く息を吸った。

 そして、まっすぐに韓烈を見つめ、静かに微笑んだ。


「韓烈さま……私も、あなたを愛しています」

 韓烈の目が、一瞬大きく見開かれた。


 玲は、少し目を伏せ、そして続けた。

「私は、燕ではずっと役割を演じていました」

「王女として、王や兄の役に立つために、お人形を演じていたのです。ただただ、美しい衣装で着飾り、男たちに微笑みを返し、王の指示通りに動く、それが私でした。……そしてそこに、私の意志も心もありませんでした」

 私は、小さく息を吸い込む。


「でも、韓烈さまに出会って——私は、本当の自分でいることができたのです」

 私は、韓烈の瞳をまっすぐに見つめた。


「あなたの前では、飾ることなく、ただの玲でいられる。それが、どれほど幸せなことか……」

 言葉を紡ぐたび、胸に熱が込み上げる。


「戦を経て——私は、あなたと背中を預けられる絆が生まれたことを感じました。あなたの隣にいれば、私はどこへでも行ける。あなたと共にある限り……何も怖くない」

 韓烈は、玲の言葉を聞きながら、胸の奥が揺さぶられるのを感じていた。


 嬉しさと、安堵と、そして——罪悪感。

 玲の瞳には、一片の迷いもなかった。


 だが、韓烈の胸に去来する想いは、決して単純なものではなかった。

 この想いに応えていいのか。彼女の心を受け入れてしまっていいのか。


 そんな韓烈の葛藤を察してか、私はそっと微笑みながら、静かに言った。

「どんなに寿命が短くても——命が尽きるその日まで、私はあなたと共にいたいのです」


 韓烈の喉が、かすかに鳴った。

「……明日、戦で死んでしまうとしても、それでも愛したいと言えるのか」

 韓烈の問いかけは、低く、どこか震えていた。


 私は、迷いなく頷いた。

「はい。韓烈さまは私に生きる喜びを教えてくださいました。だから、私もあなたと生きたいのです。そして——」


 熱が頬を染め、指先がかすかに震える。


 ほんの少しの沈黙の後、私は小さく息を吸い込み、震える声で呟いた。

「……あなたに触れたい……愛されたいです」


 韓烈の瞳が、一瞬揺らいだ。

 私の言葉が、彼の中の理性をわずかに崩し、胸の奥に押し込めていた感情の火を、一気に燃え上がらせたのがわかった。


 握っていた手がそっと離れ、次の瞬間、彼は私の腕を手繰り寄せ、強く抱きしめた。


 彼の胸の中に閉じ込められた瞬間、あまりの温もりに、私は思わず目を閉じる。


 大きくて、しっかりとした腕。

 これまで何度も、戦場で私を守ってくれたその腕が、今はただ優しく、私を包み込んでいる。


「……お前という女は……」

 かすかに震える声が、私の耳元で囁かれた。


 私は、そっと彼の胸に顔をうずめた。

 耳元で響くのは、彼の力強い鼓動。

 その音が、私の胸の鼓動と重なっていく。


 ——離れたくない。

 この温もりを、二度と手放したくない。


 ふと顔を上げると、韓烈が私をじっと見つめていた。

 その深い瞳には、迷いも、逡巡もなかった。


 ただ——

 私への熱情と、これまで隠してきた想いだけが、そこにあった。


 もう、言葉はいらなかった。

 韓烈は玲の頬をそっと包み込み、ゆっくりと顔を近づけた。

 次の瞬間、二人の唇が静かに重なった——。


 何度も、互いを確かめ合うように唇を重ねる。


 その柔らかな感触と熱は、離れていても決して切れることのない絆を、私たちの心に深く刻み込んだ。


「この戦が終わったら——本当の夫婦になろう」


 玲は涙が溢れそうになるのを必死で堪えながら、微笑んで頷いた。


「……約束です」


 その一言が、二人の未来を繋ぎとめる、確かな誓いとなった。

 韓烈は、私を強く抱き寄せる。

 その腕の中で、彼の体温を感じながら、私は静かに目を閉じた。

(私は必ず戻ります。あなたが待つこの場所に——)


 生きて帰ること。

 それは、単に生き延びるということではなく、韓烈と共に生きるための誓いだった。


 彼とともに、新たな未来を築くために。


 韓烈もまた、私を抱き寄せたまま、心の奥で決意を固めていた。


(——燕との問題が片付けば、俺は将軍職を辞そう。)


 今までのように戦場に身を置くことは、もう考えられなかった。

 命を削りながら、玲を置き去りにするような日々は送りたくない。


 玲となら、どんな困難な道でも、新しい未来を切り開いていける——

 韓烈の胸には、そんな確かな希望が満ちていた。


 静寂の中で、二人の鼓動だけが、確かに響いていた。


 やがて、二人は寄り添ったまま、穏やかな眠りに包まれた。


 月明かりの下、二人の影が静かに重なり合い、夜の闇へと溶けていった。




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