第8話

──私は独白を終えて、白露の顔を見つめた。

何を言うべきか考えるように、そっと伏せられた瞳。

いつになく静かな彼女の表情。

やがて、彼女はゆっくりと口を開く。


「勘違いがあっては困るから最初に言っておくけど」


「生者との距離感を正し、大地に還っていった魂は別に天国とか地獄みたいな場所で幸せに暮らすわけではない。

 いや……もしかしたらそうなのかもしれないけれども、私にはわからないんだ」


わからない、という言葉を彼女は口にした。

自分なんかよりもよっぽど”向こう側”の事情に詳しい彼女が。


「私がわかるのは見えるところまでだけ。

 距離感を間違えた魂が苦しむ様子や、人に危害を及ぼす様子は今までに何度も見て来たからわかるけれども。

 距離感を正し、自然な流れに乗って大地へと還っていった魂が、その後どうなるのかは……わからない」


「彼らが”その先の世界”に向かっているのだという直感はある。

 だけど、向かう先が本当に幸福なのか、本当に……良いことなのか、確信しているわけじゃない。

 もしかしたら全てが勘違いで……私がやっている事なんて彼らにとっては全て余計なお世話なのかもしれないね」


「そんな事は……!」


衝動的に彼女の言葉を否定する。

”鳥”たちの苦しみは私から見ても明らかで、そんな彼らの為に頑張っている彼女の行動が無駄だなんて、そう思えるわけがなかった。


「余計なお世話なんかじゃ……ありません!

 誰かの苦しみを前に、出来ることをやっている白露さんが余計だなんて事は……決して!」


「自分で答えを言っているじゃないか」


「あ……っ」


なんだようやく気付いたのか、とでも言いたげな顔。

白露結は眉をわずかに下げながら、静かに微笑む。


「君の悩みに対して、私は”答え”を手渡せるわけじゃない。

 その少年がどう思ったなんて知らないし、少年の行き先が幸せに満ちたものだと言うことも出来ない。」


「だけど、一つ言えることは」


「君は……その子の苦しみを放っておかなかった、ということだ」


「……」


白露の言葉がすっと胸の奥に染み渡る。

それと同時に今まで拒み続けてきた多くの人々の言葉が去来する。

自分はよくやったのだと、少年の為に、彼が苦しまない様に、出来る限りを尽くしたのだと。

それまで受け入れる事の出来なかったそれが、心に刺さったままの刃を優しく解かしていく。


「それにだ」


「その子の最後の願いは叶わなかったと君は言うけれども、そうではないんじゃないかな?

 本当に、その子が最後に伝えたかったことは”母親に会いたい”ということだけだったのかい?」


僅かに開けた唇から、短く吐息が漏れる。

彼が本当の最後に残していたものは果たしてそれだけだっただろうか。

いいや、それだけではなかった。鮮烈に刻まれた記憶の、儚く残る小さな思い出を手繰り直す。

あの時、彼は……


「……笑って、いました」


「いつものように。苦しくて、痛くて、辛くて、自分が消えてしまう最後の一瞬まで。

 私に向けて、笑いかけてくれて……」


「それは……」


言葉が切られる。慎重に答えを選んでいる様子は彼女の誠意なのだろう。


「それは、その子が君のことを好きだったからじゃない?」


「好き……?」


考えもしなかった答えに戸惑う私をよそに、彼女は続けざまに言葉を紡ぐ。

白露の表情は真剣だ。とても私をからかっているようには見えない。


「うん。好きだったんだと思うよ」


「でも……!」


口について出たのは否定の言葉であった。

そんなはずがない。ただ彼の最期に立ち会っただけの私に好意を向けられる理由が無い。

……好意を受けられる資格なんて、私にはない。


私の抗議に答えたのは白露の呆れ顔だった。


「好かれる理由が無いなんて、本当に言われるとは思わなかったよ」


「でも、考えてみてごらん。

 君がどういう風に自分のことを思っているかは知らないけれども」


「彼にとって君は、自分の為に一生懸命に頑張ってくれる……そんな素敵な人だったんだよ?

 好きになる理由なんてそれで十分じゃないか」


何も言い返せなかった。

でも、私は彼女のその言葉を意外なほどにすんなりと受け入れていた。

眼を背けていた何かが、そこにあるような気がして。


「だから、笑ったんだよ。君に向けて」


「好きな人に最後に何かを残すのだとしたら、それは良いものであって欲しいから」


白露の言葉が、私の胸の奥にじんわりと広がる。

そんな風に考えたことはなかった。

いや、考えようとはしなかった。


都合が良すぎる、虫が良すぎる。

私の中の罪悪感が、そんな風に考える事を否定していた。

でも、それは……もしかして。


「好きな人には、悲しい顔をして欲しくはないからね」


白露はそう言って、ふわりと笑った。

まるで、彼が最期に私に向けた笑顔と同じような、柔らかい、けれど切ない笑みで。


「私、は……」


私は自分の両手を見下ろした。

かつて彼の小さな手を包んでいた、私の手。

何もできなかったと、自分を責め続けていたこの手。


……もしも、もしかして。

彼が、私に笑ってほしくて、最後の力を振り絞って笑ってくれたのだとしたら——。

あの時の彼の笑顔が、彼にとっての本当の、最後の願いなのだとしたら。


「だって」


「君も、そうだろう?」


「悲しくても、辛くても、大好きな人の前では無理をして笑った事くらいあるんじゃない?」


私は、否定できなかった。

きっと、彼もそうだったのだ。

彼が笑うのは、誰かに心配を掛けさせない為だと思っていた。

彼の中の責任感がそうさせているのだと、思っていた。


……それだけではなかったのだとしたら。

最後の最後まで、彼は私に悲しい顔をして欲しくなくて、笑顔でいて欲しくて。

だから、あんなにも辛いのに、あんなにも痛いのに、最後の一瞬まで——笑っていたのだとしたら。


「君は自分が何もしてあげられなかったと言っていたけど」


「違うよ」


白露は静かに、けれどはっきりと否定する。


「君は、その子の好きな人として、ずっと傍にいた」


「その子はきっと、君と一緒にいられるだけで幸せだったんだよ」


そう言いながら、白露はそっと私の手に触れる。

彼女の温もりが、私の冷え切った心の奥に静かに染み渡っていくようだった。


「ねえ、桃花」


白露が、そっと私の名を呼ぶ。


「今の君は、その子が最後に望んだ君の姿をしているのかな?」


「……え?」


「その子が、最後に君に向けた笑顔の意味を考えてみなよ」


私は、ゆっくりと目を閉じる。

まぶたの裏に浮かぶ、あの小さな笑顔。

ああ、今ならはっきりと思い出せる。

彼は最後に、私に対して笑いかけてくれたのだ。


(聡……くん……)


優しくて、強くて、誰よりも素敵な笑顔を浮かべていた、男の子の名前。

彼と過ごした2週間は、何よりも愛おしく、素晴らしい思い出だった。


「……ズルいなぁ」


誰に言うでもなく、私はぼそりと呟いた。


「うん、ズルいよ」


白露が優しく微笑む。


「でも、ズルいくらいがちょうどいいんだよ」


私は白露の顔を見つめる。

この人は、どれだけ人の心の奥にするりと入り込んでくるのだろう。


「だからね、桃花」


白露は、私の手をぎゅっと握る。

零れ落ちる事の無い、確かな感触がそこにあった。


「君はもう少しだけ、自分を許してあげてもいいと思うんだ」


その言葉が、静かに私の心の奥に落ちていった。


***


「……それなら」


指先に触れたカップの熱は、いつの間にか消えていた。

日は先ほどよりも僅かに高く昇り、そろそろ身支度をしなければ仕事に遅れそうだった。

それでも私は急がずに、じっと彼女の顔を見つめていた。


「もう少しだけズルくなってもいいですか?」


ほんの少しだけ腕に力を入れる。繋がった両手が引き寄せられる。

互いの腕に刻まれた傷跡は、まるで二人を結ぶ手錠のように重なり合う。

抵抗はない。言葉は無くても、受け入れられている事がわかった。


自分の言葉を振り返り、少し恥ずかしくなる。

これでは私が白露の事を求めているようではないか。


……いや。


求めているのだ。彼女の事を。

白露結をもっと知りたい。彼女の傍に居たい。

そして──この心地よさを手放したくない。


改めてわかる。ズルいのは私の方だ。


白露はいつも自然に私の中に入り込んできて、私は今までそんな彼女の事をズルい人だと思っていた。

人の気持ちも知らずに、自分のリズムで近づいてきて、いつの間にか心の奥の氷を溶かしてしまう。

そんな彼女のことをズルいと思っていた。


──本当は、そんなあなたの優しさに甘えてきた私が一番ズルいのに。


胸の奥が温かくなる感じがする。

いつまでも白露と一緒に居たいと思う。

近づきたくて、触れたくて、求めて、求めて、彼女を独り占めにしたい。

この気持ちは、きっと──


……多分、恋なのだろう。


「桃花?」


ふわりと呼ばれた名前に、体がびくりと震えた。

多分、私は酷い顔を浮かべているはずだ。

こんな気持ちは生まれて初めてだった。

友情でもなく、親愛でもない、恐ろしくて、焦がれるような、こんな感情は。


自分の中の感情に気付いてしまった瞬間、抑えられない衝動が身体を突き動かした。

空いた左腕を彼女の肩に回し、私の名前を口ずさむ、白露の薔薇のような唇を──


重なり合う。

息が詰まるようだ。

やり方なんて何もわからない。

本能的に身体が彼女を求めている。


獣のような私の行動に、彼女は最初ビクリと身体を震わせていた。

だけど、それが何かを悟ると、彼女は優しく包み込むように私を受け入れてくれて。


……どれだけそうして互いを重ねていただろう。

時間の感覚なんてもうわからなかった。永遠にも感じられる瞬間。

その終わりは余りにも唐突にやってきた。


白露の手が、私の身体を引き離す。


「ごめんね」


彼女は申し訳なさそうに謝罪の言葉を口にする。

その言葉だけで、私は察した。


──私では、彼女にとっての”特別”にはなれないのだと。


触れた唇の感触がまだはっきりと残っている。

その柔らかさも、コーヒーの苦みも、彼女の体温でさえも。

けれども、彼女は微笑んでいなかった。

その瞳には罪悪感とともにどこか寂しげな色が滲んでいた。


「謝らないでください」


聞きたくはなかった。

彼女がどうして謝るのかなんて。

それを聞いてしまったら、もう二度と彼女と一緒には居られないような気がして。


「私は、君のことがすごく好きだけど……。

 でも、それ以上を望んじゃいけないんだ」


その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

でも、だからといってそのまま終わりにしたくはなかった。


「……わかっています」


彼女の想い人は他に居る。

死が二人を別つとも、別たれぬ想いが二人を繋ぎ、結び付ける。

──それが”冥婚”なのだから。


それでも、私は。


「わかった上で、あなたにお伝えします」


「私は、あなたの事が好きです。大好きです」


「例えあなたの心が別の場所にあるのだとしても、この想いは変わりありません」


それは一方通行の恋心。

決して顧みられることの無い、死路の袋小路。

求め、足掻き、手を伸ばし、欲しようとも得られない、苦衷への道。


それでも。


自覚したこの感情を、無かったものとして扱いたくはなかった。

だって、私は……少しだけズルくなると決めたのだから。


「…………」


長い沈黙が周囲を包む。

誰もいない、二人だけの空間。朝の光に照らされた、二人だけの時間。


「……また、ここに来るといい」


「はい」


短い言葉の往来。

それを最後に、私はこの部屋を出て行った。


──傷つくあなたを護る為に、施す心を愛と呼ぶのなら。

あなたを求めるこの感情は愛ではなく……正しく、恋なのだろう。

求めて、欲しくて、誰の為ではなく、私の事を愛して欲しいと。

そう願う心は……”恋”に違いない。


なんて自分勝手で滅茶苦茶な恋心なのだろう。

決して敵わないと知りながら、それでもあなたの愛が欲しいのだから。


それでも。


それでも、私は。


少しだけ、ズルくなると決めたのだ。


他でもなく、自分自身の為に。


あなたに向けて、この手を伸ばす。

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