第3話

──5月。

白露結との出会いからしばらく経った、ある日の事。

私はいくつかの仕事を終わらせる為に遅くまで病院に残っていた。

そろそろ零時になろうかという頃だ。流石に帰らないと明日の業務に支障が出る。

そうやって、重い腰を持ち上げて立ち上がろうとした時。


「……?」


薄霞のように白い鳥が、旧D棟の闇に溶け込むように滑り込んでいくのが見えた。


その姿に、不思議な違和感を覚える。

何の変哲もないはずの鳥の姿。だが何かが違う。ただの鳥にしては動き方が不自然だ。


ふわりと漂う──いや、違う。

それは宙を這うように動いていた。生き物ではない。まるで影が実体を持ったかのような、異形の存在。

私の脳が警鐘を鳴らす。「これは見てはいけないものだ」と。


私は思わず息を詰めた。


その瞬間、不意に脳裏に蘇るのはあの時の彼女の言葉。


「鳥……」


あの日の彼女のように、私はそう呟いていた。


……気が付くと私の脚は旧D棟へと向かっていた。

まるで何かに誘い出されたかのように、”白い鳥”の存在が無性に気にかかる。

放っておいてはいけない、何かの気配を感じていた。


「失礼します」


ぎぃ、と古びた金属製の扉を開ける。

何故か鍵は掛かっておらず、そのまま中へ入る事が出来た。

旧D棟の中は意外なほどに何もなく、しんっと染み入る様な沈黙だけが空間に満ちていた。


と、と、と、と自分の足音だけが耳に届く。

非常灯の灯りがぼんやりと周囲を照らす廊下を恐る恐る歩いて行く。


──その時。


廊下の奥の闇が、微かにざわめいた。


「……?」 


気のせいだろうか。何かが、そこにいる。 

暗闇の奥から、じぃっとこちらを見ている視線を感じた。

 

いや、違う。 ”見られている”のではない! ”狙われている”!!


「ガアアアアァァァァァァ!!」


突然、闇の中から耳をつんざくような甲高い叫び声が炸裂する──。

まるで人の悲鳴を模したかのような、異様な声。


「!?」


慌てて目を見開き、前方の闇を見つめる。

先程までは何も無いはずの空間。だが今は目の前で、腐った羽を広げた鳥の怪物が爪を立てていた。

大きさは普通の人間よりも一回り大きい程度だろうか。剥げ落ちた羽根が舞い、血塗れの嘴がギラリと光る。

まるで餌を見つけた獣のように、怪物は口を大きく開いた。


「あ……。」


それだけ。口を開き、微かに一音の言葉を発するのが精いっぱいであった。

例えば山で熊と遭遇した時、ただの人間に出来る抵抗手段などというものは限りなく少ない。

ましてや目の前に居るのは今までに見た事も無い程に大きな、恐ろしい、鳥の怪物なのだ。


──夜中に”鳥”を見つけても、後を追わない事だ。


襲い来る脅威と恐怖の中で、”彼女”から聞いた言葉が走馬灯のように飛来する。

”彼女”の忠告を無視した末路がこの結果であるのなら、それはそれで仕方がないのだろうか。

諦めの境地の中で今まさに自分を呑み込もうとしている嘴を正面に見据えて……


「ああ、そんな物は美味しくないよ」


「こちらに来てごらん?私と一緒に遊ぼうよ」


……”彼女”の声だ。


記憶の中の声と寸分の違いもない。生きた彼女の言葉が耳を打つ。


声の方向を見ると、まるで月影のように彼女はそこに立っていた。

どこから現れたのかまったく分からない。ただ、暗闇の中にふわりと浮かぶように佇んでいる。


その声に、怪物の動きが止まった。

血走った瞳が、ゆっくりと彼女を見上げる。


……彼女は、微笑んでいた。


「ねえ。怖くないよ?」


その言葉と同時に、怪物の形がゆらりと揺らぐ。

瞬きをした刹那、”鳥”は音もなく消え去っていた。


「はあ……っ はあ……っ」


この場に沈黙が戻る中、私はへなへなと崩れ落ちるように床に座り込んだ。

しばらくして、ようやく声がした方向を見る余裕が出来たが、その時にはもう”彼女”は居なくなっていた。


「はあ……っ はあ……っ」


肩で息をしながら、冷たい床に手をつく。

掌から伝わる感触は薄膜がかかったように曖昧で、指先は小刻みに震えている。

先程の出来事について、恐怖心は未だに自分の胸を縛り付けているようだ。

だが、それよりも──。


今、私が見たものは何だったのか?

あの鳥の怪物は一体何なのか?

……そして、”彼女”は何者なのか?


脳裏に焼き付いて離れない。

怪物の姿。血塗れの嘴。剥げ落ちた羽。

あれは”死”の象徴のように思えた。

まるで、世界の理の隙間からこぼれ落ちた何かのように。


その正体を知りたい、と思った。

彼らのことを、白露が彼らに何をしているのかを、そして彼らの正体を。


もしかしたら、私がずっと求めていた”答え”が、その中にあるのかもしれない。

帰るわけにはいかない──その”答え”を掴むまでは。


私は立ち上がった。

向かうべき場所は、もう決まっていた。


”幽霊病棟の花嫁”の元へ。

胸の奥に燃える切実な願いが、恐怖心を凌駕した。


***


夜の旧D棟を歩く。

足音だけが響く長い廊下。

時折、遠くで軋むような音がする。

古びた建物が僅かに呼吸をしているようだった。


やがて……辿り着く。

その部屋の前に。


元々は個室に近い二人部屋だったのだろう。

扉脇のネームプレートには二人分の名前を入れる隙間がある。

だが、今はそこに入る名前はなく、ただ部屋の主の存在を言外に語るのみとなっている。


戸惑いを覚えながらも、ノックをしようと手を伸ばした。

その瞬間。


「……入っておいで」


まるで待っていたかのように。

扉越しに、彼女の声がした。


心臓が、ひくりと跳ねる。

恐る恐る扉に手をかけ、ゆっくりと押し開く。


***


そこは病室のはずだった。

けれど、どこか違う──”異質な空間”だった。


病院独特の無機質な雰囲気はない。

壁はベージュの柔らかな色に変えられ、

床にはふかふかのカーペットが敷かれている。

木製のサイドテーブルには、飾り気のないティーセット。

その横には最新のゲーム機や本が乱雑に積まれている。


……まるで、”誰かが暮らしている”ように。

”入院している”のではなく、この場所で”生きている”かのように。


部屋の中央には、大きなベッドが置かれていた。

その上に、彼女がいた。

ゆったりと脚を組み、微笑みながら、こちらを見ている。


「ようこそ」


「”幽霊病棟の花嫁”の部屋へ」

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