(仮題)葵塚学園 第二演劇部
あまみけ
形切町の幽鬼を穿つ牡丹の君① 脚本:椹木剣悟①
1.引っ越しがめんどくさい
7月の終わりのよく晴れた土曜日の昼過ぎ。
部室の私物を引き取り、顧問の宇垣先生に正式に退部届を受理してもらって、
「文系特進の編入手続きは終わっているので、明日は学生課の蓑田課長のところで、この書類と、寮費の精算書を提出して、新しい寮の部屋の鍵を受け取って下さい。」
およそ野球部の顧問の先生とは思えない、色白で線の細い宇垣教諭が、淡々と判が付かれた編入手続き書類を封筒に入れて、玲央に渡した。
冷たい感じのする人だが、担任でもあった宇垣教諭は何事にも丁寧に静かに説明をしてくれる人で、担任クラスの生徒に宇垣のことを悪く言う生徒はいなかった。
玲央は、職員室や保健室、学生課などが入る中央棟の裏手から出て、屋根がある外廊下を渡って、平屋建ての3号食堂棟のファミマに入った。
国内屈指のマンモス校の葵塚といえど、夏休み期間の土日は食堂は営業しておらず、生徒たちは学内のコンビニで調達するか、それとも学外で調達するか、もしくは学外に食べに出るしかない。
寮住まいの玲央は、昼食をこのファミマで調達してから部屋に戻るつもりだったのだが、生憎、弁当やおにぎりの類はほとんど売り切れで、玲央の嫌いなツナマヨおにぎりだけが1個残っているだけだった。
サンドウィッチや麺類もめぼしいものはほとんど無くなっていて、こちらも玲央の嫌いな野菜サンドしか残っていなく、振り返って向かいのパン類の棚には甘い菓子パンと食パンだけが並んでいる。
しかし、今はパン食の気分でもなく、カップ麺の類はこのクソ暑いのに食べたいとは思えない。仕方無く、ファミチキだけでも買って帰ろうとレジ横のホットスナック類のケースを覗くと、ここも無残にもハッシュポテトしか残っていなかった。
「なんだよ、まだ13:15じゃないか…ツイてないなぁ。」
思わず声に出てしまった。
(腹が減った…)
玲央はどこぞの個人輸入商のオジサンの様に、空腹に絶望を感じながら、3号食堂棟を出て、“今のところは”自分の部屋がある南2号寮への道をトボトボと歩いていった。
*
「おう!各務ぃ!お前も帰らなかったのか。」
寮の玄関横の個人ボックスから、郵便物とクリーニング戻りの制服を取り出していると、剣道部2年の
「あぁ、はい、そうです。その…俺は引っ越しがありますから。」
「引っ越しぃ?なんだ、宇垣先生にここを出ろと言われたのか!?」
三田村は瞬間湯沸かし器の様に、一瞬で顔を赤くして、鼻息荒く息巻いている。
「いえ、俺から南2号寮を出ることを宇垣先生に伝えました。」
「…野球部の連中と顔を合わせるのが気まずいか?」
ふぅ、と息を吐いて、三田村は今度は少しトーンを落として、玲央の隣に立って問いかける。
「いやその、別に…それはないです。まぁ、どちらかと言うと、運動部でもなくなった俺が、運動部寮の待遇を受け続けるのがどうかと思ったので…」
玲央は個人ボックスに置いてあるエコバッグを広げて、郵便物と制服を入れた。
「別に、そんなこと気にする必要ないだろう。普通科寮のアレも、結局、理事会が東寮の改築も承認したし、騒いでた連中は近くの
この私立葵塚学園高等学校は、令和の時代には珍しい、全校生徒数は約3,000人にも上るマンモス校である。
普通科が各学年に10クラスあり、その他に理系特進科、文系特進科が2クラスずつがあり、専攻科としては、スポーツ専攻科、文化芸能化、商経専攻科、グローバル課、5年一貫性の看護学科などが複数クラスあって、1学年で20クラスを超える。
元々は、経営難で潰れそうだった学校法人を、現在の学園長の
世の少子化が進む中、私立高校でありながら授業料は公立の高校とあまり変わらないものにし、その上で葵塚学園独自の奨学金制度を適用できた生徒は、ほぼ無償に近い費用で通うことが出来る。
さらに、各専門科および専攻科には有名な予備校講師や大学講師を非常勤講師として迎い入れ、有名大学への進学率は全国トップクラスになり、玲央が現在所属しているスポーツ専攻科からはプロスポーツ選手も多く輩出するようになり、今や全国屈指の難関校となった。
そのため、スポーツ専攻科の生徒は全国から入学してくるため、寮生の割合が多く、男子は南2号寮、女子は北1号寮がスポーツ専攻科生徒の専門寮になっており、トレーニング設備や風呂の広さ、食事の量や質、クリーニングサービス等々の特別待遇に対して、普通科寮生や他の専攻科寮生のやっかみが強い。
「三田村ぁ、もうメシ食ったろ、練習だ!練習!」
玄関から三田村と同じくらいの馬鹿でかい声が三田村を呼んでいる。声の主からすると、3年の広本だろう。これから午後の練習らしい。
「わりぃ、もう時間だ。引っ越しの件は分かった!ただ、絶対に手伝いはさせてくれよ!」
三田村はそれだけ言うと、右手を上げてダッシュで玄関から出ていった。
*
エレベーターで3階に上がり、自室の308号室の前に着くと、引越し用の伊波倉庫の段ボールの束が置かれていて、その上には“8月10日までの間に荷造りをお願いします”と書かれた張り紙が貼り付けられていた。
引越しの日程は8月12日で学生科に申請している。
帰省するつもりはなかったが、文系特進科へのクラス替えには保護者の承認が必要らしく、10日から3日間ほど実家に帰ることになってしまった。
ぐぅぅ…と腹が鳴いた。
もう腹が減って死にそうだ。
(そう、先ずは昼メシだ!このままでは腹と背中がくっついてしまいそうだ…)
限界に近い空腹に突き動かされ、玲央は段ボールを取り急ぎ、2つだけ部屋の中に入れて、ドアにぶら下げている自転車の鍵を取って、南2号寮を駆け出た。
自転車置き場を駆け出し、中央棟の手前で左折して、校庭を抜けて正門を出た。
寮生は自転車の場合、本来は裏門から出なければいけないのだが、お目当ての店に行くには、この広い学園の外周を回り込んでから正門前にまで行かねばならず、今の玲央にはその時間の余裕も無かった。
正門を出てすぐに下り坂になる。これが結構な勾配で、通学組は朝からいい運動になるくらいの上り坂になっている。
ザァーーっと玲央の自転車は正門前の坂を下って、学園下交差点を左折し、駅の手前を今度は右折すると、音無坂を登っていくことになり、その坂のちょうど中頃に、玲央のお目当ての“こぐま亭”という弁当屋があった。
こぐま亭は、葵塚学園から徒歩で行くと、だいたい15分弱はかかるのだが、葵塚の部活生、とくにスポーツ専攻科の24時間腹を減らしているような生徒たちに人気の店だ。
なお、この店の母体は、音無坂を登りきったところにある“北斗七星”というイノベーティブ中華レストランで、こぐま亭は北斗七星の味の宣伝を兼ねて、地元の人向けにリーズナブルに手軽な弁当を提供している。
「特唐揚げ、まだありますか!」
玲央は、自転車を止めるよりも前に窓口のおばちゃんに確認する。
「特からはまだあったっけ?」と、窓口のおばちゃんが調理場のおばちゃんに確認する。
「からあげがさぁ、あと4つしか無いのよぉ。とんからでどう?お金はいいからさ。」
調理場のおばちゃんが身を乗り出して、トンカツに唐揚げが2個付いた“とんから弁当”を提案してきた。ちなみに、特唐揚げ弁当は学生は650円(一般は750円)で、唐揚げが5個と焼売が1個付き、とんから弁当は学生が730円(一般は850円)で、ロースカツに唐揚げが2個と焼売が1個付く。
「え!いいんですか!?、ぜんっぜんっ、とんからでいいです!ご飯は特盛で!」
玲央はポケットの2つ折り財布から1000円札を取り出し、カルトンの上においた。
「はい、350円のお釣り。そうそう、これも持ってって。上の店の焼き菓子と烏龍茶とジンジャーエール。」
100円玉3枚と50円玉1枚の釣り銭とは別に、ドサッとカウンターに焼き菓子とペットボトルと缶ジュースが置かれた。
「提携しているドリンクのメーカーを変えたらしくてね、これは余り物なんだって。玲央くんは葵塚の寮生でしょ?
外木場さんというのは、北斗七星のオーナーシェフの
「おばちゃん、ありがとね!」
限界の飢餓状態で気が遠くなりそうになりながら5分を待ち、玲央は、熱々のとんから弁当の特盛を受け取って、特盛弁当の何倍もの量のお土産を前カゴにギチギチに積み込みんだ自転車を発進させた。
音無坂を今度は下り、先程までの道を戻っていく。
そして、学園までの坂道の途中で左折して、葵塚の第2グラウンドの敷地に入り、グラウンドを見下ろすところにある石段のところで遅い昼食を摂った。
フタが閉まりきらないほどの大ボリュームの弁当はまだ湯気が立つほどの出来立てで、土産にもらった烏龍茶を一口飲んで、先ずは唐揚げから齧り付いた。
衣はやや厚めで、棒状の形状の唐揚げは珍しく、胸肉だとわからないほどに柔らかく、旨味が強い。おそらく、下処理にかなり手を入れているのだろう。玲央は初めてこのからあげを食べた時の衝撃を今も忘れない。
続いて、ロースカツだ。
こちらは始めからデミグラスソースと粉チーズ、パセリがかかっており、弁当屋ではなかなか手の込んだものになっている。
カツには辛子ではなく、辣油が付いており、洋風のカツレツに辣油で辛味を付けるのも面白いが、これが妙に嵌まって美味い。
気が付けば、10分もかからずに、玲央は特盛弁当を平らげて、これまた土産のジンジャーエールで口内の脂を流し込んでから、石段の横のベンチにゴロンと横になっていた。
第2グラウンドは主に野球部の練習に使われているが、今日は練習が休みなので、運動部の個人練習に開放されていて、どこかの部の人たちが数人いるだけだ。
天気は快晴ではあるが、昼過ぎから風が吹いているので、気温は空の青さほどには暑くはないが、おそらくは天気予報のとおり、夕方ないし夜から雨になるのだろう。
急激な糖分の接種で眠気がやってきて、ベンチで少しの昼寝を…と、玲央が思ったところで、頭上から呼びかけられ、すんでのところで意識を引き戻された。
「少し風が強くなってきたわね。このまま寝ちゃうとずぶ濡れになるわよ?」
玲央はパチパチと瞬きをして、首を反らして声の主を見上げると、黒髪のショートボブの女子生徒が玲央を見下ろしていた。
「なんだ、佐野先輩か。なんで俺がここにいるの知ってるんです?」
「そんなこと…ふふ、なんででしょうね。」
佐野先輩、
佐野 志麻は文系特進科の3年生だ。
1年生から生徒会執行役員を勤め、昨年は副会長だったそうだ。
現在は黒髪のショートボブだが、2年生までは髪も眉もホワイトブロンドに染め、腰まで届くほどのロングヘアだったため、2年生以上の生徒にとっては、“黒染めした副会長”なんて言う生徒もいる。
身長は163cm、痩せすぎてはいないくらいのシルエットに、葵塚校章が刺繍された夏の襟無しの白の半袖ブラウスの制服の上には、薄手の黒のカーディガンを纏っていて、黒のプリーツスカートは膝上丈で、そこから伸びる生白い志麻の太腿が、玲央の視界にはよく見えている。
「野球部の人たちがよくここで食事をしていることは、以前から知っていたわ。だって、そうよね。ここは野球部グランドだもの。」
「そして、さっき見たのよ、正門のところを玲央くんがスピードを出して自転車で走り抜けていくのを。それでわかったのよ、あぁ、こぐま亭にお弁当を買いに行ったんだって。」
志麻は探偵モノか刑事モノのように、玲央の行動の推理を説明していく。
「あとはかんたんね、寮に戻って食べるとなると、せっかくの熱々のお弁当は冷めてしまうかもしれないし、こんなに天気がいいのだから、”もう辞めてしまったとしても”ここでお弁当を食べるんだろうってね。」
フフンと、志麻は得意げな顔をして、自身の推理ショーを締めくくる。
そこいらの女優顔負けの目鼻立ちがはっきりとした美人の志麻が、コロコロと表情豊かに推理ショーを繰り広げるのを頭上に見上げて見ていると、志麻がこのマンモス校のアイドルであることがよく分かった
「うーん、まぁ、だいたいはそうなんですけど。腹がもう限界だったんで、ここなら弁当食べても怒られないだろうしなぁって。ふぁ…」
目がまたショボショボとしてきて、玲央は気だるそうに志麻の推理に答えた。
「うーん、30点?いや、0点ね。ざんねん。」
「まぁ、ここで食ってるのを当てたんだから、80点くらいじゃないですか?どっちでもいいですけど…」
どうでもいい推理の採点を協議していると、ひゅぅっと、涼しい風が吹いてきた。
天気予報よりも早くに雨が降り出してくるかもしれない。
「風吹いてきたわね。ね、そろそろ行きましょうよ。」
風に志麻の短い黒髪が少し靡いて、そして夏服の生地が薄めの黒のプリーツスカートが舞い上がった。
「玲央くん、早く行かないと、雨降ってくるわよ。」
さあと、志麻が玲央に手を伸ばす。
「って、佐野先輩、どこに行くって言うんですか?オレは部屋に帰りますよ。」
玲央はズボンのポケットからタオルハンカチを取り出して、汗を拭う。
「どこって?そんなの第二演劇部の部屋に決まってるじゃない?」
志麻はさも当然と言うように、その大きな瞳を見開いて、玲央を見つめて言った。
そして、ほら、早く起きなさいよ、とばかりに、一歩近づいて、もう一度玲央に手を伸ばした。
ひゅぅぅぅっと、今度は少し強めの風が吹いた。
玲央が見上げている空は少し暗くなってきていたが、一瞬だけ、また鮮やかなスカイブルーが雲の裂け目の青空のように見えた。
なんてことはない、風のお陰で志麻のスカートの中が見えてしまっただけだ。
「ほら、行くわよ。雨降ってきちゃうわ。」
二歩下がって、志麻が言う。
「いや、だから、オレは寮に…」
玲央がいい終える前に、志麻が言う。
「パンツ見たでしょ?私の。」
「ふふ、赤い顔して。ねえ、玲央くんが寮でゴロゴロとする時間を頂戴するくらいの価値はあると思うんだけど?」
ニヤニヤと意地の悪い顔をして、志麻がスカートをつまんで、もう一度、「さあ、行くわよ」と、今度は手を伸ばすことなく、くるりと回れ右して歩みだす。
「なんだよ、もう…」
玲央は愚痴るようにベンチから起き上がり、自転車を押して志麻を追った。
「絶対、黒だと思ったのになぁ…」
「あら、黒牡丹なんて呼ばれてたって、下着くらいはなんでもいいじゃない。」
志麻は後ろの玲央を見て、ニヤリと笑う。
「私って地獄耳なのよ。」
「わぁっ!」
びゅぅっと先程より更に一段強い風が吹き上がった。
玲央の前を行く志麻のスカートが今度は大きく捲りあげるように舞い上がり、後ろを行く玲央の目には、形の良い志麻のお尻を覆う鮮やかな青がまた広がった。
「玲央くん、まだ私の後ろ行くの?」
こちらに振り向くや、仁王立ちでそう言った志麻の顔はさすがに少し引き攣って紅潮していた。
つづく
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