第三十七話 最後の一人
「僕も、茉奈も、梅子ちゃんも、みんな元いた世界の記憶を覚えていた。なのにどうしてか、三崎だけは僕たちのことを忘れかけてた。」
「それが問題なんだよな」
怜はいかにも小難しい顔をしてヴェニパとグリードを仰ぎ見る。二人との間のその距離がまるで元の世界との境界のように梅子は思えた。
「隊長が部隊に入隊してから三年……でしたっけ」
「それは入隊してからで、訓練生だったころも含めれば五年だ」
五年、という数字に素直に驚いた。
「五年って、五年? マジで?」
「あー、まあ。……え、お前たちは違うの?」
「うん。私はこっちの世界に来て一週間、春樹は数か月、茉奈は半年」
怜がマジか、と唖然としてつぶやきを漏らした。ヴェニパやグリードも目を見開いている。
「てことは、もしかして。この世界にいると、だんだん元の世界を忘れていく、ってこと?」
ひゅっと息を呑んだのは誰だろうか。少なくとも四人の中の誰かだったろう。探り合うようにその召喚で色の変わった瞳を不安に染める。
「待って、待って……ねえ、茉奈、春樹、ちゃんと覚えてるよね!?」
「覚えてるに決まってる! 忘れるはずない!」
反論したのは茉奈だった。春樹はこれまでにないほど顔面から血の気を引かせ青白い顔をしていた。
「じゃ、じゃあ、せーので言おう。私たちなら絶対わかるから。莉希の好きな食べ物は何!」
梅子たちなら、
「「「クリームパン」」」
「……あ」
響いた声は三人分。茉奈の呆けた声が空虚に木霊して溶けていく。梅子の全身を衝撃が貫いていった。
「茉奈?」
茉奈の顔は春樹のそれよりも圧倒的に青白い。両手は震えて、ソファから立ち上がった瞬間に床にへたり込んでしまった。震えたその唇から吐息交じりになんで、と零れた。春樹は茉奈のそばにしゃがみ込みその背中をさする。
「ほんとに、忘れちゃうんだ」
「た、たまたま忘れただけじゃ?」
ヴェニパが恐る恐ると言ったように口を挟んできた。梅子は勢いよく首を振って否定する。気が付けば叫んでいた。
「そんなはずない! 莉希、クリームパン毎日食べてんだから! 忘れるわけない!」
「でも隊長は言えてたじゃないですか」
「それは、俺がもう一度思い出したからじゃないか?」
再び沈黙が訪れる。
「……今の茉奈と三崎の様子を見る限り、たぶん僕たちは緩やかに元の世界の記憶を忘れかけている。そしてそれを思い出すことでもう一度覚えることができる……ってことなのかな」
春樹の冷静な分析は今は辛い。全身に重い鉛がのしかかったようだ。呼吸や衣擦れの音も聞こえてしまいそうなほど
「隊長」
沈黙に耐え切れなくなったグリードが立ち尽くす怜に声をかけた。怜は頭を振った後、梅子たちの顔を見比べた。
「……話は変わるけど、莉希さんは? まだ合流してないのか?」
「うん、まだ」
莉希がいないという事実が鎖のように絡みついた。心象風景はもうとっくに満身創痍だ。夢の中にはあんなに出てくるのにと歯噛みした。今すぐこの部屋に莉希の声が響いてでもくれれば「五人で一つ」に戻れるのに。
_____もしや莉希は、「忘れて」しまった?
最悪の事態を想像して梅子は心臓があるあたりの布を握りしめた。
「リキさん、とは?」
先ほどまでの動揺の色を押さえつけたシャドーが首を傾げた。ああ、と梅子は拳の力を抜いた。
「あと一人、私たちが探してる友達」
「え? 莉希さん、あの時の召喚に巻き込まれてなかったでしょ。一人だけコンビニの中にいたんだから」
「いるもん! 莉希がいないわけないもん!」
「急に駄々こねないでもらっていい?」
茉奈が呆れたような冷めたような色を瞳に浮かべた。春樹と怜が茉奈の後ろ側で軽口を叩きあっていた。場所が教室から執務室に変わって、恰好が制服でなくなっても変わらない。どこかに感じる切なさを追いやって怜に視線を向けた。
「そういえば怜くんは召喚された時どうだったの?」
「俺か? 俺はな……」
「おい、君、君! 大丈夫か!」
遠くから聞こえる男の声にだんだんと引き上げられていく感覚がある。急激にはっきりした視界に怜は飛び起きた。
「久米! みんな! 無事か……あ?」
怜の視界にいたのは直前に手を掴みあったはずの春樹ではなく、見知らぬ男。それもスーツ姿のサラリーマンとかそういうものではなく、異国情緒溢れるシンプルなチュニックを着た男。
「大丈夫かい、君」
「ええと……あんた誰? つかここどこ?」
怜が倒れ込んでいたのはそよ風が吹き込む丘の上だ。頭上では枝ぶりのいい広葉樹が日差しを遮るようにそよいでいる。先ほどまで通学路に立つコンビニの前にいたはずでは。百歩譲って倒れていたとしてもコンクリートで舗装された固い道の上で、決してこんな柔らかい土の上ではなかったはずだ。
「……夢?」
どう考えてもそう結論づけるべきだろうと一人釈然としないまま状況を咀嚼しようとするが、目の前で怜を覗き込んできた男は独り言をものともせず眉をひそめた。
「可哀そうに。記憶喪失かね。名前は言える?」
「えっと……怜です?」
「レイ、か。レイ、君はなんでここに倒れているんだい?」
いきなり呼び捨てかよ、と悪態をつきたくなった。いくらなんでも初対面の人間を呼び捨てするのはどうかと思う。
「そんなの、俺が聞きたいです」
「やはり記憶喪失か」
神妙な表情で独り言ちる男に怜も眉根を寄せたくなった。コンビニの前で魔法陣が現れて、白い光に呑みこまれたことは覚えているのだ。ではなぜ怜はここにいるのか? それを考えても答えてくれる人物はいない。そういえば同じように春樹と茉奈と梅子が魔法陣に飲み込まれたはずなのに姿が見えなかった。
「よし、君。記憶がないならうちにおいで」
「は?」
「君の記憶が戻るまでうちの騎士団で預かろう」
騎士団、という言葉に男を頭のてっぺんからつま先まで見下ろす。その腰に鞘に包まれた剣を発見して息を呑んだ。
「銃刀法違反……?」
「じゅうと……なんだいそれは」
噛み殺し損ねた法律違反を男は怪訝な顔をして聞き返した。男の顔立ちは日本人にも外国人にも見える不思議な風貌をしている。
「あの、」
「ん?」
「ここ、日本ですよね?」
確認がてらのつもりで尋ねると、男は今度こそ派手に眉根を寄せた。
「なんだ、二ホンって。ここはニーヴ国の北側だよ」
「_____は?」
心の底からの困惑が音になって飛び出た。座り込んだままの下半身を動かして立ち上がり、周囲をぐるりと見渡す。今まで怜が背にしていた広葉樹の向こう側に、明らかに日本とは思えない光景が広がっていた。
「城、?」
丘から見下ろす位置に橙色の屋根をした巨大な洋風の城が聳え立っていた。その周囲に所狭しと同じように橙色の屋根をした家が立ち並んでいた。その光景から想起されるのはどちらかというとヨーロッパのような。
「……なんだよ、これ、」
「もしかしてこの国に来たことも覚えてないのかい?」
怜の戸惑いの真意を察しているのかいないのか、男が空気を読まずに声をかけてくる。
「あの光が、俺を、ここに?」
日本語を話す男。でも日本を知らない。明らかにここは異世界だ。剣を持ち歩いているのも普通ではない。でも男はそんなことお構いなしだ。
「さ、僕についてきて。案内するよ」
「あっ、ちょ、え……っ、もう、なんなんだ!」
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