第11話 王宮の崩壊①

 重々しい沈黙が王宮を覆うようになって、すでに幾夜が過ぎた。いつからか、屋敷内を満たすのは人々のささやき声やため息ばかり。あちこちで囁かれるのは、深夜にまた誰かが消息を絶ったという話や、ある貴族が不審な死を遂げたという噂ばかりで、そこに確かな真相は伴わない。まるで見えない手によって意図的に情報が混乱させられ、誰もが自分の身の安全以外のことを考えられなくなっているのだ。


 その中心にいるレオネルは、日に日に疲労の色を濃くしていた。シエラの行方はいまだに判明せず、わずかな手掛かりも得られないまま時間だけが過ぎている。幾度となく騎士団を奮い立たせようと命じても、上官からは「捜索は続行中」「有力な情報なし」という報告が形ばかりに返ってくるだけ。実際には誰も真剣に動く気配はなく、むしろ彼ら自身が夜道を出歩くことを恐れている有様だ。


「殿下、夜間の捜索は危険が多すぎます。どうかお控えください」

「殿下、我々も全力を挙げておりますが、何分にも手掛かりが……」


 そんな言い訳めいた言葉を聞くたびに、レオネルの胸には苛立ちと絶望が入り混じる。自室で一人頭を抱え込む日々が続き、夜ごとに悪夢にうなされて眼を覚ますことも増えた。焦燥と自責とが入り交じり、彼の精神は限界の淵に近づいている。ある晩、絨毯じゅうたんの上に放り出されていた書類を踏みつけるようにして立ち上がると、彼はほとんど錯乱した声をあげた。


「なぜだ……なぜ、誰も助けてくれない……! このままではシエラが……っ」


 隣の部屋まで響き渡る叫び声に、近くで控えていた侍従は青ざめて駆け寄ろうとするが、扉の前で躊躇ちゅうちょする。殿下が精神的に追い詰められているのは明らかだが、今の彼に声をかけることでその怒りや苦痛が自分に向くのではと怖れているのだ。結果、レオネルはまた一人きりで悲痛な吐息を漏らし、壁を拳で叩くしかない。


 王宮の廊下では、そんなレオネルを遠巻きに見ながら、人々が怯え、そして疑う。自殺や殺害の噂が頻繁に飛び交い、誰が次の犠牲になるか分からないという空気の中では、お互いを信じようとする者は皆無だ。貴族同士が突然険悪なやり取りを始めることも少なくないし、どこかで誰かが失踪したという報せがあるたびに、人々はさっと顔を伏せる。背筋を冷やすような視線が飛び交い、耳を澄ませば小さな悲鳴やすすり泣きが漏れ聞こえることもある。


「頼む、教えてくれ。あの者は本当に自殺だったのか?」

「さあな……俺は関わりたくない。今は下手に動くと狙われるんだ」


 そんな会話が交わされる一方、兄王子や他の王族たちもまた、激しい政争の只中にある。自分の地位を守るため、あるいは敵対派閥を潰すために、買収や裏切りが連鎖している。書類の改竄かいざん、密告、暗殺まがいの行為が横行し、国の中枢が腐敗にまみれているのはもはや公然の秘密だ。けれども、いまさら誰が正義を振りかざしても、あまりに状況が混沌としすぎて立て直す余地は見当たらない。


 こうした空気を背景に、レオネルは焦りと悔恨にさいなまれつつ、ある日ついに意を決して公爵家へ足を運ぶ。心に引っかかっている疑惑――すなわちカトレアの存在を、どうしてもはっきりさせたいと思ったのだ。誰もが「彼女は病で床に伏せっている」と言うばかりで、その姿を見た者はいない。ならば自分の目で確かめるしかない、というのがレオネルの結論だった。


 だが、公爵家に着いたレオネルを待ち受けていたのは、あまりにも露骨な冷遇だった。門番がわざわざ待たせるうえ、使用人が申し訳程度に「体調がすぐれずお会いできない」と繰り返す。無理やり押し通ろうとすれば、私兵のような男たちが敷地内に立ち塞がる。これまでなら、王子としての権威をかざせば通れるはずが、いまのレオネルには従ってくれる気配がまるでない。


「……どういうことだ。公爵家が、王族の私に面会も叶えぬとは……!」

「申し訳ございません、殿下。しかし、本当にお嬢様の容体がかんばしくありませんで……」


 あまりの不自然な対応に、レオネルは憤怒をあらわにする。ひょっとして、カトレアが隠れて自分を嘲笑あざわらっているのではないか、と頭の中で疑念が渦を巻く。シエラを攫ったのは彼女ではないかという考えも消えてはいない。勢い任せに私兵を押しのけようと試みるが、相手の数が多すぎるうえ、周囲に自分を助けてくれる同行者もいない。結局、乱闘まがいのもみ合いになりかけたところで、血の気を失いかけたレオネルはガクリと膝を折ってしまう。


「殿下……大丈夫ですか。お水をお持ちいたしましょう」

「放せ……放してくれ……私は……カトレアに……!」


 その場で力を失ったレオネルを見下ろすように、公爵家の使用人たちは困惑の表情を浮かべる。事前に何らかの指示でも与えられているのか、徹底して彼を屋敷に入れない構えだ。結局、レオネルは公爵家の門前で屈辱を味わいながら撤退を余儀なくされる。帰りの馬車で、視線はうつろなままつぶやくように言葉を漏らした。


「……やはりあの娘が、すべての元凶なのか……!」


 けれど、もはや何の証拠もなく、周囲に味方もいない。元来、彼がレオネルの部下だった人間はすでに退職や失踪、あるいは買収されている。得体の知れない暗い力が働いているという感触だけはあるものの、それをどう打ち破ればいいのか、まるで糸口が見えない。そんな無力感が、レオネルの心をじわじわとむしばんでいった。


 その後、王宮では殺人や失踪の話が一段とエスカレートしていく。ある晩には、有力貴族の息子が変死体となって発見された。翌日には一人の女官が宮殿の窓から飛び降り自殺を図ったとも伝えられる。そうした事件の連鎖が止まらず、誰もが疑心暗鬼の渦中に投げ込まれてしまう。


「まるで呪いのようだ……誰が裏で糸を引いているんだ?」

「こんなことが続けば、この国そのものが崩壊する……」


 弱音や嘆きが絶えない一方で、王族同士の権力闘争はさらに激しさを増していた。王家内部では、兄王子が「次期王位継承の有力候補は私である」と宣言し、叔父がそれを妨害しようと裏取引に奔走している。そんな政争の激化を尻目に、民衆や近隣諸侯、さらには他国までもが不穏な動きを示し始めていた。国全体が一枚岩でないと見られれば、侵略や内乱の火種となりかねない。


「これでは遠からず本当に戦が起こるかもしれない……」

「くっ……王家の威光なんて、今や形骸に過ぎんのか」


 そんな嘆きが重なって聞こえてくる頃、夜の廊下を一人歩くカトレアの姿があった。もちろん、誰も彼女を王宮に招いた覚えはない。だが、彼女には裏口から出入りする手段がいくらでもあるのだ。人気のない回廊を、かつて公爵令嬢として慣れ親しんだ優雅な足取りで進む。顔には微笑が浮かび、その瞳には狂気に近い愉悦ゆえつが宿っている。


「崩れゆくのが面白い。まるで蠢く虫のように互いを疑い、争い、何もできずにのたうち回るだけ」


 ぽつりとつぶやきながら、カトレアは窓の外を見下ろす。静まり返った中庭の向こうには、遠く灯りの途切れた方角が見える。かつては賑やかだった宴や夜会の場も、今は過度な危険を恐れて開かれなくなった。すべてが暗く沈み、恐怖と怯えだけを宿している。そんな光景を目にして、カトレアはわずかに唇をゆがめる。


「もう少しよ。シエラを奪った今、あの殿下の精神は限界に近い。あとはひび割れた隙間を引き裂いてやればいい」


 その心中には、「この国ごと壊す」という大胆な野望まで膨らみ始めている。レオネルを追い詰めるだけでは物足りない。いっそ国家を崩壊させ、すべての人間を道連れにする。それくらいの破滅があってこそ、自分が受けた屈辱が晴れる――そのような思考に至るほど、カトレアの狂気は深化していた。ここに至って、もはや彼女は最初の復讐心をはるかに越えた闇へ踏み込んでいる。

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