第3話 渦巻く悪意②
さらに数日が経つと、彼女の手元には数冊の手帳や地図、そして拷問道具らしき鉄具が集まり始めていた。古い鉤爪や小刀の類いは錆びを落としてやればまだ使える。金属の重みが手に伝わると、何か自分が「違う世界」へ踏み入ったような感覚が込み上げる。恐ろしくはない。むしろ、自分でも驚くほど自然に受け入れている自分がいた。
すでに一部の使用人には金と口止めの脅しをチラつかせているため、夜間にどれだけ地下室で作業しようとも、何も見なかったことにしている様子だ。
そんなある日のこと、食堂に顔を出すとすぐ、メイドが気まずそうに手紙を差し出してきた。それは王宮からの通知書だった。ざっと目を通したところ、レオネルが近々正式に「シエラを妃として迎える」儀式を執り行うとの報せ。まるで定例行事のように簡潔に書かれていたが、カトレアには十分過ぎるほどの衝撃だった。
「……平民上がりのシエラを、妃に?」
指先が
「公爵令嬢だった私をあそこまで愚弄しておきながら、こうもあっさり幸せを追い求めるのね。よくも」
メイドは彼女の表情を
「こんなにも早く、あの二人を祝福する動きが進んでいるなんて……」
その言葉は歯を食いしばった末にこぼれた
「何としても、彼らに地獄を味わわせてやる」
唇が引き
翌晩、カトレアは地下室の一角をさらに整備し始めた。木箱をどけ、鍋や薬瓶を一列に並べ、用意した鉄具や刃物を掛けていく。まるで小さな実験室が形を成していくようだ。そこで行われるのが苦痛や死を伴う所業だということは明白で、普通の感性なら背筋が凍るはずだが、彼女は淡々と準備を進める。そこへ仕立てた衣装を運んできたメイドが、視界に映る数々の道具を見て
「ここで見たものは口外無用。もし誰かに話せば……どうなるかわかるわよね」
その声には感情がこもっておらず、ただ冷たく刺すような響きがあった。メイドは顔面蒼白のまま、おどおどと
準備を終え、暗い地下室で一息つくと、頭上からかすかに振動が伝わってくる。屋敷の使用人たちが眠りにつく前の最後の仕事を終えて歩き回っているのだろう。きっと誰も、これほどの
「今はまだ小さな動きに過ぎない。でも、ここから全てを崩していけるわ」
そう
夜毎に繰り返される恐怖の準備作業は、やがて表舞台で具体的な形となって現れるだろう。まだ第一区切りにも到達していないが、カトレアの頭の中には、レオネル側近の名が明瞭に浮かび、そこから先の計画図が細かく組み立てられ始めていた。脅し、買収、毒殺、情報の捏造――あらゆる手段が駆使できるだけの蓄えが彼女にはある。
そして、いよいよ近づくレオネルとシエラの正式な婚礼の報せ。それは彼女の怒りと憎悪を一気に駆り立てる引き金となる。今、カトレアの両手は
「せいぜい今のうちに笑っているといいわ。時が来たら、私はすべてを奪い返す」
暗い地下室の奥で、彼女の声だけが湿った空気を震わせた。か弱い動物の断末魔にも似た響きが薄闇の向こうで静まっていくのを感じながら、カトレアは冷ややかに息を吐く。この場所と、集められた道具や薬品、そして彼女自身の揺らぎない意志があれば、どんな卑劣な行為だって形にできる――彼女の眼差しに迷いはなかった。
こうして、実際にはまだ大きな事件が起こったわけではない。表向きにはカトレアは公爵家でおとなしくしているに過ぎず、王宮や社交界では早くもレオネルとシエラの婚礼準備を話題にして華やいでいる。しかし、この暗い地下室を中心に、すでに復讐の歯車は回り出していた。小動物の死骸が散らばる床と薬品の臭いが充満するこの空間は、やがて人間を飲み込む舞台へと変貌するだろう。それを阻む者はいない。カトレアの冷徹な瞳は、それを確信したかのように不気味な輝きを放っている。
夜明けが近づき、外の空から一筋の薄明かりが差し込み始める頃、カトレアは道具を整理してから地下室を離れた。まるで黒い幕を引くようにランプを吹き消し、鎖が揺れる音を背後に聞きながら扉を閉める。館の階段を上ると、そこにはまだ眠りの中にいる静かな廊下がある。まるで何事もなかったかのように、優美な
「この静寂を破るのは、私の意志」
心の中でそう言い聞かせると、自室へ向かう足取りに迷いはなかった。これからさらに裏の人脈を探って、多くの駒を用意していく。金に困っている役人、汚職に手を染めた高官、あるいは暴力に屈する情報屋――そうした連中を探し出すのはさほど難しくない。それだけがカトレアに残された道であり、今の彼女にとっては血と憎悪が混じり合う甘い誘惑でもある。
階段の途中で、ふと後ろを振り返る。無機質な暗闇の底から吹き上がる冷気が、まるで手招きしているかのようだ。そこに潜むのは恐怖と死の匂い。しかしカトレアは微笑むだけだった。過去の自分なら尻込みしていたかもしれないが、今は違う。あらゆる
これが、静かに、しかし確実に世界を壊し始める復讐の初動――カトレアはまだそれほど声高に叫ぶことはない。ただ、彼女の胸には取り返しのつかないほどの憎悪が巣くい、いずれ大きな災いを引き起こす。それを感じさせるには、地下室に満ちる血と臭気だけで十分だった。夜明けの鐘が微かに響き始める王都の空の下、彼女はその狂気を秘めたまま、静かに姿を消すように部屋へ戻っていった。
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