第11話 夜明け前




 さて、王家の居住区である宮殿にも出入りするようになったイルだが、その後も基本的にはガヴィの執務室に生活の拠点を置いていた。王子にせがまれて王子の部屋で眠る事もあったが、国王一家の本当にプライベートな空間にずっと居座るのは申し訳なかったのだ。

 なんせイルは中身は人間なので、どんな会話もイルには筒抜けで。イルが悪人であったならこれほど美味しい状況はないだろうが、流石にそれなりに分別のあるイルは遠慮した。基本的にはガヴィと行動を共にしていたが、宮殿に自由に出入りできるようになってからは宮殿で過ごすことも増え、ガヴィも何やら忙しく出かけることも多かった。




 今日は昼過ぎから王子のところに向かい、国王一家と夕食を共にして、はしゃぎ過ぎた王子がソファで眠ってしまったのでイルは夕闇がすっかり空を覆った頃に宮殿を退出し、ガヴィの執務室に戻ってきた。部屋の前まで行くと衛兵が扉を開けてくれる。

 王子を背に乗せて庭を走り回ったので、今日はイルも疲れていた。ガヴィはまだ帰っていないようだ。


 (帰ってきたら音でわかるよね。……ちょっとだけ休もう)


 鼻先で寝室の扉を開け、部屋に滑り込む。

 ガヴィが帰ってきたら一応挨拶はしようかな、と思いながらイルは自分の寝床に入り目を閉じた。




 東の空がうっすらと白みはじめた暁の頃。

 イルは鼻先にかかる人の温かさにふいに意識が浮上した。

 

 (あれ? ……私、結局王子のところで寝たんだっけ……)

 

 寝ぼけた頭でゆっくりとまぶたを持ち上げる。

 暗がりの中、目の前に飛び込んできたのは、誰かの鼻先、唇。

 そして燃えるような赤の色。


 まるでガヴィの髪の毛の色みたいだな、と思った刹那、固まった。


 イルを抱き込むようにして寝台で眠っていたのは、赤毛の剣士ガヴィ本人だったからである。

 イルが固まっていると、ガヴィは寝ぼけた様子で「……まだ起きるには早ぇだろ……もすこし寝とけ」と少しかすれた声でイルの体を、子どもをあやす様にポンポンとやった。いつもの小馬鹿にした様子も、茶化した様子もなく、薄闇の中で見たガヴィの菫色の瞳と赤毛がやけに目に焼き付く。

 しばらくすると、ガヴィの規則正しい寝息が聞こえてきた。

 完全に覚醒してしまったイルは、ガヴィに抱え込まれたまま、一ミリも動けなかった。


 心臓が、早鐘のように打っていた。




「だからよ! お前は何べん俺に噛みつけば気が済むわけ?!」


 赤くなった鼻先を押さえて怒鳴る男は言わずもがなガヴィである。


 夜明けの薄闇の中、ガヴィの寝台の中で石のように固まっていたイルだが、太陽の光が窓に差し掛かって来た頃、ガヴィが寝返りを打ちながらイルを抱え直した時にイルは気が付いた。

 混乱していて気が付いていなかったが、ガヴィは半裸だったのである。

 パニックになったイルは人であれば叫んで、とりあえず目の前にあったガヴィの鼻先を――噛んだ。

 ガヴィの叫び声に何事かと部屋の前の衛兵が慌てて部屋に駆け込んで来たが、鼻を抑えて怒鳴り散らす半裸の赤毛の侯爵と、見るからに頭を落としてしょげている王子お抱えの狼を見て何も言わずに扉の前の己の定位置に戻っていった。


 今日も平和だな、とかなんとか思いながら。


 


「言っとくけどな! 俺の布団で先に寝てたのはお前だからな?!」

 ガヴィいわく、事の経緯はこうだ。

 ガヴィが仕事を終え部屋に戻るとイルがガヴィの寝台ですやすやと眠っていた。

 邪魔だったのでゆすって起こしたがイルはぐっすり寝入っており一向に起きない。

 諦めて同じ布団に潜り込んだが、ガヴィは普段から寝るときは服を着ないため(もちろん下は履いている)ついイルのぬくもりが気持ちよく、無意識のうちに抱えて眠ってしまった……というのが事の真相らしい。

 確かに始めは寝台下にあつらえられた自分の寝床にいたはずなのだが、疲れていた上に最近は王子の寝台で一緒に眠ることもあるため、気付かぬうちに温もりを求めて潜り込んでしまったらしい。


 落ち度は完全にイルにある。


 だが許してほしい。中身は十四の人間の少女には刺激が強すぎた。


 (結婚もしてないのに裸の男の人と布団に入ってしまった……もうお嫁にいけないかもしれない)

 

 ガヴィがなにやら怒鳴っていたが、それすらもうイルの耳には入ってこず、その日はただただ項垂うなだれていた。




 「……それでアカツキ殿はこんなにしょげてるのかい?」

 可笑しさを隠しきれない様子で銀の髪の公爵ゼファーは公務の手を止めて年下の友人侯爵の方を見た。ガヴィの隣には、アカツキことイルがどんよりと伏せをしている。

「この俺が! こんなに世話してやってるのに三度目だぞ?! さ・ん・ど・め!!」

 ガヴィの鼻の頭には絆創膏が貼られている。イルは益々いたたまれなくなった。

 そんなイルの様子を見て、ゼファーは苦笑いする。

「まあまあ、アカツキ殿も反省しているようだし、そのくらいにしてあげたらどうだい?」

 ガヴィは鋭い目つきでゼファーを睨んだ。

「……お前も一回そのお綺麗な顔を噛まれてみたら俺の気持ちがわかんじゃねえの?」

「いや、まあそれはできれば遠慮したいが……」

 ゼファーは思わず顔を抑える。


 ……ああ、消えてなくなりたい。


 余計に小さくなったイルを見て、ゼファーが助け舟をだした。

「……なんというか、でも君も少し配慮がかけていたんじゃないのかい?

 アカツキ殿は君いわく女性なのだろう?…もしアカツキ殿が人間だったら君、君に落ち度がなかったとしても、今頃大変な事になっているよ」

 他意はないとはいえ、かなり核心をつかれてイルはドキリとする。

「……狼に女とか男とかの性差があってたまるか!」

「……それはそうかもしれないが、女性には優しくするものだろう?」

 ゼファーは一般論として言ったのだが、ガヴィはジッと空を見つめたまま黙り込んでしまった。


『ガヴィはちょっと心配しすぎなんじゃないの? ちょっとはイーリャの意見も聞いてあげなよ』


 ふいに、ガヴィの脳裏に過去の記憶が蘇る。


「……こいつに優しくしてどうすんだ。ただ優しくするのが全部正解だとは限らねえよ」

 いつもとは違う反応に、ゼファーは不思議そうな顔をした。

「……ガヴィ?」

 ガヴィはハッとすると「なんでもねえ。この話は終わりな!」と強制的に話を終了させた。

 ゼファーもイルも不思議に思ったけれど、それ以上に追及することはなかった。

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